表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
枯淡  作者: 水原伊織


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

13/14

13.その温度差に気づいた日

二月にしては暖かい日が続いていた。

その午後、美はふいに母・彩へ問いかけた。


「最近、お父さん、週末出かけるの多くない?」


彩は少し考えるように目を伏せてから答える。


「そうね……子どもたちに手がかからなくなったからじゃない?」

「……そんなんでいいの? お母さん」


美の声音には、年齢以上の鋭さがあった。

彩は一瞬だけ言葉に詰まり、曖昧に笑う。


「……まあ、その、お父さんはお金を使う人じゃないし……」

「そういうことじゃなくてさ」


美は、父・裕介の優しさと激しさを知っている。

兄たちはつまらないいたずらをしてはよく怒られていたが、

そのあと必ずフォローをしていた。


母には、それが“甘やかし”に見えていたのかもしれない。

彩はむしろ、子どもたちを突き放すようなところがあった。


美が幼いころは、三人で川の字になって眠っていたのに、

いつの間にか夫婦の寝室は別々になっていた。


小学生の頃、夜に聞こえてきた母の嬌声が何なのか、

最初は分からなかった。

意味を知った頃には、もうその声は聞こえなくなっていた。


その頃からだ。

父の目つきが、どこか変わった気がしていた。

美には優しい。甘いくらいだ。

もちろん、彩にも。

けれど、以前とは何かが違う。

その違和感だけが、ずっと胸の奥に残っていた。


美は、ふと彩に言った。

「お父さん、なんとなくだけど……寂しそうだよ」


彩は手を止めることもなく、「そう?」とだけ返した。

その素っ気なさに、美は胸の奥がざらつくのを感じた。


彩は、最近すっかりなくなった夫婦の営みのことを美が言っているのだろうか、と一瞬だけ思った。

だが、その考えをすぐに押し込める。


「お父さんは、多分……お母さんと一緒にいたいんじゃない?」

美はそう続けた。

しかし彩は、少しも揺れない声で言い放つ。


「そんなことないわよ。それに今は、美のほうが大事だから」


その言葉に、美はどこか引っかかりを覚えた。

自分が母に与えている影響が、想像以上に大きいのかもしれない――

そんな考えが、ふと胸をよぎる。


兄二人はどちらも高校卒でフリーター上がり。

二番目の兄に至っては定時制だった。


それに比べて自分は高専に合格し、今は三年生。

母が自分に向ける溺愛に近い熱量。


最大限の投資を惜しみなく注がれていることは、美自身が一番よく分かっていた。

だが、その「大事」が、誰かを遠ざける理由になっているのだとしたら――胸の奥に、言葉にならない違和感が静かに沈んでいった。


----


織は、裕介にあんなふうにはっきりと言ってしまったことに、またやってしまった、と、

和室の暗がりの中で、布団に裕介と潜ったまま、胸の奥で小さく後悔していた。


昔からそうだった。

相手がどう受け取るかよりも、

自分が感じたこと、思ったことを、

できるだけ正確に、率直に伝えようとしてしまう。


まどろっこしい言い回しが、昔から苦手だった。

そのせいで、いつの間にか男たちとは、まるで真剣で斬り合うようなやりとりになってしまう。


今回も、きっとそうだ―そう思いかけたとき、裕介が静かに言った。


「そんな考えには及ばなかった。ありがとう、教えてくれて」

「……裕介」


その言葉に、織は胸の奥がふっと緩むのを感じた。

安心している自分が、どこか不思議だった。

身体だけの関係でもいい、それでもいい、とずっと思っていたはずなのに。


織は、素直に裕介へ問いかけた。


「……嫌じゃないの? こういう女」

「こういう女?」

「食う、寝る、やる。私、ほんとそれしかしてないでしょ?」


裕介は少し笑って、肩をすくめる。


「……書いてるよ、本」

「……まあ、それはそうだけど」

「多分ね、こういう関係だから気にならないだけかも」

「……それは、言えてるかも」


不倫関係にあって、交際しているのかと聞かれれば、そういう間柄なのかもしれない。

けれど、裕介が織に求めているのは、恋人でも、まして結婚相手でもないのだと分かっている。

そして織自身も、裕介に“交際相手”を求めているわけではない気がした。


では、お互いは何なのか――


そう問われれば、裕介は織のことを「愛人」と呼ぶだろう。


織は、おそらく、呼称をつけることすらしない。

ただ「裕介」とだけ言う。

それで十分だと思っている自分が、どこか不思議だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ