表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
枯淡  作者: 水原伊織


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

11/18

11.金曜の夜は、織の部屋へ向かう日

金曜日は、午後休を取る社員が多い。

ただでさえ利用者の少ない食堂は、昼休みでもがらがらだ。


裕介は、頼んでおいた弁当を受け取り、空いた席に腰を下ろす。

この会社は、大手光学メーカーのグループ会社だが、社員数は二百人にも満たない。

食堂に足を運ぶのは、そのうち三十人にも届かない。

そんな規模で、業者が常駐して食堂を運営してくれるはずもない。

採算が合わないのだ。


食堂は、静かな図書館のようだった。

遠くで換気扇が回る低い音だけが、一定のリズムで空気を揺らしている。

裕介は弁当のふたを開け、箸をそっと取り上げた。

周囲には、ぽつりぽつりと数人の社員が座っているだけだ。

誰も話さない。


味は悪くない。ただ、温かさがないだけだ。

それでも、この静けさの中では、その冷たさすら、どこか落ち着く。


静かな食堂の空気の中で、裕介のスマートフォンが小さく震えた。

この静けさでは、その振動音さえ、やけに大きく響く。

画面には、織からのメッセージが一行だけ浮かんでいる。


「今日、何時頃来る?」


昼休みを狙って、送ってくるのが織らしい。

必要以上の言葉はないのに、その一行だけで、胸の奥の温度が少し変わる。


裕介は箸を置き、スマホを手に取った。

返信しようとして、指が一瞬止まる。

まだ時間は決めていない。

けれど、織が待っているという事実だけが、静かな食堂の空気を、ほんの少しだけ柔らかくした。


----


定時のチャイムが鳴ると、裕介はほぼ同時にロッカーへ向かった。

顔見知りにだけ、軽く「お疲れ様です」と声をかける。


最近は、親会社や同列のグループ会社からの出向者も増えてきた。

それでも、会社全体の人数は多くない。

二十年以上働いてきた裕介にとって、昔からいる社員の顔と名前はほとんど一致している。

見覚えのない顔があれば、それはたいてい出向者だ。


ロッカーからコートだけを取り出し、作業着の上から羽織る。

着替えといえば、それだけだ。


従業員通用口は、すべてIDカードで施錠管理されている。

カードでドアを開錠し、外に出て駐車場へ向かう。


自宅までは車で二十分ほど。

大した距離ではない。


---


家に着き、玄関の鍵を開けて「ただいま」と声をかけると、

台所の奥から「おかえり」と彩の声が返ってきた。

「今日は、出かけるの?」

作業着を脱いで洗濯かごに入れていると、背後から彩がそう尋ねてきた。


「ああ、風呂に入って着替えてから行く」

「ご飯は?」

「ああ……適当に済ませる」

「じゃあ、そうして」


彩は、昔から変わらない。

風呂と食事のことばかりを、毎日のように同じ調子で聞いてくる。

一日くらい風呂に入らなくても、一食抜いたところでどうということもない――

裕介はそう思うが、彩にとっては信じられないことらしい。


日本の中の、自分の家の中でしか生きられない人なのだろう。

裕介は、いつの間にかそう考えるようになっていた。


いつか言ってやろうかと思ったこともある。

だが、やめた。

彩は、こちらの意見が自分と違うだけで、

人格を否定されたと受け取ってしまうところがある。


だから、言わない。

言っても、何も変わらない。


----


風呂から上がり、手早く着替えを済ませると、裕介は自分の部屋に入り、スマホを開いた。

織にメッセージを送る。


今から、そっちに向かってもいい?

ほどなくして、画面が震える。

いいよ。


それだけだ。

飯だの、風呂だの、余計なことは聞いてこない。

むしろ、それが普通なのかもしれない。

お互い、もう大人なのだ。


「いってきます」

玄関で声をかけると、

「いってらっしゃい」

彩の声が、背後から静かに返ってきた。


----


車に乗ると、途端に解放感が押し寄せてきた。

エンジンをかけ、駐車場を出る。

いつものコインパーキングへ向かう道は、もう身体が覚えている。


――昔、実家から女に会いに行ったときの感覚に似ている。

そんなことを思いながら、ハンドルを握った。


子ども扱いされていたんだろうな、と裕介はふと感じる。


お金持ってる?

ご飯食べたの?

お風呂は?


思い返せば、ずっとそうだった。


気遣いというより、管理に近い問いかけ。

そのたびに、どこかで乾いていくものがあった。

なんとなく――

自分の渇きの理由が、ようやく分かった気がした。


コインパーキングに車を入れた瞬間、胸の奥がきゅっと締まるような緊張が戻ってきた。

何度繰り返しても慣れない。

四十を過ぎても、こんなふうにどきどきするのかと、自分でも少し呆れる。


織の部屋の玄関ドアの前で、裕介は短くメッセージを送った。

防犯のため、いつもそうしている。

かちゃり、と金具の外れる音がして、続いてチェーンが外れる微かな気配が伝わってきた。

「……どうぞ」

「……うん」

言葉は、それだけだった。

玄関に入り、靴を脱ぐ。


リビングに行くや否や、無防備な格好のままの織を抱きしめて、唇を重ねる。

風呂上がりの匂いがした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ