11.金曜の夜は、織の部屋へ向かう日
金曜日は、午後休を取る社員が多い。
ただでさえ利用者の少ない食堂は、昼休みでもがらがらだ。
裕介は、頼んでおいた弁当を受け取り、空いた席に腰を下ろす。
この会社は、大手光学メーカーのグループ会社だが、社員数は二百人にも満たない。
食堂に足を運ぶのは、そのうち三十人にも届かない。
そんな規模で、業者が常駐して食堂を運営してくれるはずもない。
採算が合わないのだ。
食堂は、静かな図書館のようだった。
遠くで換気扇が回る低い音だけが、一定のリズムで空気を揺らしている。
裕介は弁当のふたを開け、箸をそっと取り上げた。
周囲には、ぽつりぽつりと数人の社員が座っているだけだ。
誰も話さない。
味は悪くない。ただ、温かさがないだけだ。
それでも、この静けさの中では、その冷たさすら、どこか落ち着く。
静かな食堂の空気の中で、裕介のスマートフォンが小さく震えた。
この静けさでは、その振動音さえ、やけに大きく響く。
画面には、織からのメッセージが一行だけ浮かんでいる。
「今日、何時頃来る?」
昼休みを狙って、送ってくるのが織らしい。
必要以上の言葉はないのに、その一行だけで、胸の奥の温度が少し変わる。
裕介は箸を置き、スマホを手に取った。
返信しようとして、指が一瞬止まる。
まだ時間は決めていない。
けれど、織が待っているという事実だけが、静かな食堂の空気を、ほんの少しだけ柔らかくした。
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定時のチャイムが鳴ると、裕介はほぼ同時にロッカーへ向かった。
顔見知りにだけ、軽く「お疲れ様です」と声をかける。
最近は、親会社や同列のグループ会社からの出向者も増えてきた。
それでも、会社全体の人数は多くない。
二十年以上働いてきた裕介にとって、昔からいる社員の顔と名前はほとんど一致している。
見覚えのない顔があれば、それはたいてい出向者だ。
ロッカーからコートだけを取り出し、作業着の上から羽織る。
着替えといえば、それだけだ。
従業員通用口は、すべてIDカードで施錠管理されている。
カードでドアを開錠し、外に出て駐車場へ向かう。
自宅までは車で二十分ほど。
大した距離ではない。
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家に着き、玄関の鍵を開けて「ただいま」と声をかけると、
台所の奥から「おかえり」と彩の声が返ってきた。
「今日は、出かけるの?」
作業着を脱いで洗濯かごに入れていると、背後から彩がそう尋ねてきた。
「ああ、風呂に入って着替えてから行く」
「ご飯は?」
「ああ……適当に済ませる」
「じゃあ、そうして」
彩は、昔から変わらない。
風呂と食事のことばかりを、毎日のように同じ調子で聞いてくる。
一日くらい風呂に入らなくても、一食抜いたところでどうということもない――
裕介はそう思うが、彩にとっては信じられないことらしい。
日本の中の、自分の家の中でしか生きられない人なのだろう。
裕介は、いつの間にかそう考えるようになっていた。
いつか言ってやろうかと思ったこともある。
だが、やめた。
彩は、こちらの意見が自分と違うだけで、
人格を否定されたと受け取ってしまうところがある。
だから、言わない。
言っても、何も変わらない。
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風呂から上がり、手早く着替えを済ませると、裕介は自分の部屋に入り、スマホを開いた。
織にメッセージを送る。
今から、そっちに向かってもいい?
ほどなくして、画面が震える。
いいよ。
それだけだ。
飯だの、風呂だの、余計なことは聞いてこない。
むしろ、それが普通なのかもしれない。
お互い、もう大人なのだ。
「いってきます」
玄関で声をかけると、
「いってらっしゃい」
彩の声が、背後から静かに返ってきた。
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車に乗ると、途端に解放感が押し寄せてきた。
エンジンをかけ、駐車場を出る。
いつものコインパーキングへ向かう道は、もう身体が覚えている。
――昔、実家から女に会いに行ったときの感覚に似ている。
そんなことを思いながら、ハンドルを握った。
子ども扱いされていたんだろうな、と裕介はふと感じる。
お金持ってる?
ご飯食べたの?
お風呂は?
思い返せば、ずっとそうだった。
気遣いというより、管理に近い問いかけ。
そのたびに、どこかで乾いていくものがあった。
なんとなく――
自分の渇きの理由が、ようやく分かった気がした。
コインパーキングに車を入れた瞬間、胸の奥がきゅっと締まるような緊張が戻ってきた。
何度繰り返しても慣れない。
四十を過ぎても、こんなふうにどきどきするのかと、自分でも少し呆れる。
織の部屋の玄関ドアの前で、裕介は短くメッセージを送った。
防犯のため、いつもそうしている。
かちゃり、と金具の外れる音がして、続いてチェーンが外れる微かな気配が伝わってきた。
「……どうぞ」
「……うん」
言葉は、それだけだった。
玄関に入り、靴を脱ぐ。
リビングに行くや否や、無防備な格好のままの織を抱きしめて、唇を重ねる。
風呂上がりの匂いがした。




