10.上条織と小林ユキ、その境界が揺れ始めた日
次の日。
地方の冬は、芯から冷える。
織はスーツの上にコートを羽織り、吐く息を白くしながら駅へ向かった。
今日は都内の出版社で打ち合わせがある。
13時に着けばいい。
11時半発の新幹線に乗り込むと、車内は木曜日の午前らしく空いていた。
席に腰を下ろすと、暖房のぬくもりがじわりと身体に戻ってくる。
織は膝の上で手を組み、窓の外に流れていく冬の景色を静かに見つめた。
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その出版社からは、作家の上条織として、さらに小林ユキという官能小説作家としても、出版している。
上条織の方は、安定した売れ行きを見せており、そこに加えて半ば遊びで書いた官能小説もヒットしている。
都内の出版社。
会議室のガラス越しに、冬の薄い光が差し込んでいる。
編集者は、資料を整えながら、織が席に着くのを待っていた。
40代半ば、落ち着いた物腰の男だ。
「お忙しいところ、ありがとうございます。寒かったでしょう」
「いえ。今日は思ったより暖かかったです」
織は淡々と答える。
彼女のこういう“温度の低い丁寧さ”を好ましく思われている。
「新刊の件ですが、初版は一万でいきます。書店の反応も良くて、営業からも“上条さんなら大丈夫”と」
「……そうですか」
織は驚いた様子も見せない。
「それと……小林ユキ名義の方、すごいですね」
織のまつげが、ほんの少しだけ揺れた。
「……あれは、遊びで書いただけです」
「遊びで三万部は、なかなか出ませんよ。文章の熱量が違うというか……読者の反応も非常に良いです」
「……そうですか」
織は視線を落とした。
「無理のない範囲で、次の長編の企画も考えていただければ。上条さんのペースで構いません」
「はい。少し考えてみます」
会話はそれだけ。
だが、織の胸の奥には、静かな波紋が広がっていた。
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同じ出版社の別フロア。
文芸とは空気がまるで違う。
ポスターも派手で、編集者の声も大きい。
担当編集の三浦が、織を見るなり駆け寄ってきた。
「小林さん!来てくださってありがとうございます!」
「……どうも」
「売れてますよ、ほんとに。正直、ここまで伸びるとは思ってませんでした」
三浦はタブレットを開き、売上グラフを見せる。
「レビューも熱いんです。“リアルすぎて震えた”“情景が浮かぶ”って。小林さん、官能の才能ありますよ。いや、マジで」
「……そうですか」
織は困ったように微笑む。
三浦はその表情すら“作品の雰囲気”に見えてしまう。
「で、次回作なんですけど……年内にもう一冊、いけませんか?」
「文芸の方もありますし……少し考えさせてください」
「もちろん!でも、読者が待ってるんですよ。小林ユキの新作、絶対売れます」
三浦の熱量に押されながら、織は小さく頷いた。
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出版社を出て、織はエレベーターの鏡に映る自分をぼんやりと見つめた。
スーツの襟を整えながら、さっきの二つの会議の温度差が、まだ身体のどこかに残っている。
文芸編集部の静けさ。
官能レーベルの熱気。
どちらも自分の作品で、どちらも自分の言葉なのに、まるで別の作家として扱われているような感覚があった。
――本当に、別の作家なのだろうか。
織は、ふとそんなことを思う。
文芸名義で書くとき、彼女は“距離”を大切にしている。
感情を直接書かず、行間に沈める。
読者に委ねる余白を残す。
だが、小林ユキとして書くときは違う。
身体の温度や、触れられたときの呼吸の乱れ、
肌の記憶――そういうものが、自然と指先に宿ってしまう。
それが読者に“リアルだ”と言われる理由なのだと、織自身も薄々わかっていた。
エレベーターが一階に着き、扉が開く。
冷たい外気が流れ込んできた瞬間、織は小さく息を吸った。
裕介。
名前を思い浮かべた途端、胸の奥がわずかに疼く。
官能名義の描写が変わったのは、あの夜からだ。
触れられた場所の温度が、文章の中にそのまま落ちてしまう。
「…だめね、私」
小さく呟く。
文芸の織と、官能のユキ。
どちらも自分で、どちらも嘘ではない。
ただ、境界が少しずつ曖昧になってきている。
文芸の編集者・佐伯が言った言葉が、ふと蘇る。
――“文章の熱量が違う”
あれは褒め言葉だった。
だが、織にはどこか痛みを伴って響いた。
熱量の源を、彼は知らない。
知られたくもない。
けれど、書くたびに思い出してしまう。
触れられた夜のこと。
呼吸の重なり。
肌の記憶。
そのすべてが、文章の奥に沈んでいく。
文芸の織は、静かに世界を見つめる作家。
官能のユキは、世界に触れられた身体で書く作家。
その二つが、今、ゆっくりと重なり始めている。
織は駅へ向かう道を歩きながら、自分の中で揺れている境界線の間を、誰にも見せないまま抱きしめた。
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打ち合わせが終わり、織が会議室を出ていく。
扉が閉まった瞬間、佐伯は小さく息をついた。
「……やっぱり、不思議な人だな」
隣にいた若手編集者が首を傾げる。
「上条さんって、落ち着いてますよね。でも、なんか……色気ありますよね」
佐伯は苦笑した。
「そう。あの静けさの奥に、妙な艶がある。本人は隠してるつもりなんだろうけど、隠しきれてない」
「文章にも出てますよね。最近、特に」
佐伯は頷く。
「文芸の文章は抑制が効いてるのに、行間にだけ熱がある。あれは……経験のある人の書き方だ」
若手が少し驚いた顔をする。
「じゃあ、官能の方は……?」
佐伯は資料を閉じながら、静かに言った。
「官能の方が“本音”なんじゃないか。あれは、隠してない文章だよ」
織―いや、小林ユキ―が帰ったあと、三浦は同僚の編集者に売上データを見せながら興奮気味に話していた。
「やっぱり、あの人すごいよ。文章が“わかってる人”の書き方なんだよな」
同僚が笑う。
「見た目は完全に文芸の人なのにね。あんなに静かで、控えめで…でも、なんか色っぽいよね」
三浦は即答した。
「そう、それ。あの色気が、そのまま文章に出てる。文芸の方は抑えてるけど、官能は……もう、隠してない」
「じゃあ、官能の方が“素”ってこと?」
「俺はそう思ってる。あの人、文芸では理性で書いてるけど、官能では身体で書いてる」
三浦はタブレットを閉じ、ぽつりと呟いた。
「上条織と小林ユキ。どっちが本体か、わからなくなってきたな」




