表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
枯淡  作者: 水原伊織


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/13

1.もうひとつの家 ー家と愛人の部屋を行き来する生活ー

雪が降り始めていた。


積もる前に帰らないと――そう思った裕介は、ベッドからそっと抜け出した。


時計は18時を指している。


「織……帰るよ」

「ん……んん……もう、そんな時間?」


毛布にくるまったまま、織が眠たげに顔を上げる。

ひょんなことから知り合い、気づけばこういう関係になっていた。

裕介が会社の休みの日――主に土日――に、織のマンションへ通う。

同じ市内で、車なら自宅から十五分ほどの距離だ。


裕介には、別に“家”がある。

妻の彩と、高校三年になる娘の美が待つ家だ。

明日は月曜日。だから今夜は帰らなければならない。


しきとは、不倫関係にあった。

裕介は“愛人”と呼んでいたが、どちらでも意味は同じだ。


「相変わらず、変なところ律儀なのね」

織が、毛布の中からくぐもった声で言う。


「一応、ね」

裕介は脱ぎ散らかした服に袖を通し、スマホを手に取る。


妻の彩へ、〈今から帰る〉とスタンプを送った。


「またね」

織が背中に向かって呟く。


「うん。また金曜日の夜に」

軽く口づけを交わし、裕介は部屋を出た。


玄関のドアが閉まる音がすると、織は裸のままベッドを降り、鍵を閉めに行く。

そのままシャワーを浴び、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。

一杯目がいちばん旨い。

スマホを見ると、裕介からメッセージが届いていた。


〈家に着いた。また金曜日ね〉


可愛いキャラクターのスタンプ付きだ。


織は苦笑しながら、〈またね〉と返す。


----


「ただいま」

玄関のドアを開け、裕介は小さく呟く。

「おかえり」

リビングから彩が顔を出した。


「風呂、沸いてるよ」

「ああ、分かった。入る」


裕介は一直線に風呂場へ向かう。


金曜の夜は“バンド練習”で泊まり。

土曜は一度帰宅してから“友達の家で飲み会”。

そういう嘘を重ねて、織のマンションへ通っていた。

日曜の夜には必ず家に戻る――織の都合がない限りは。


彩が気づいていないはずがない。

だが、あえて見ないふりをしているのだろう、と裕介は思っていた。


息子たちが高校生になった頃から、夫婦の営みは減り、

長男・次男が家を出た今も、「娘がいるから」という理由で、関係は途絶えたままだ。

結婚して二十年以上。

裕介はこれまで、浮気などしたことがなかった。

だが、触れ合いがなくなると、欲求は静かに溜まっていった。


----


あの日、友人宅に泊まった帰りの電車で、織と出会った。

強風で運行が一時停止した時、隣の席の女が居眠りし、裕介の肩にもたれかかってきた。


それが織だった。


髪が、ふっといい匂いをした。

久しぶりに“生身の女”の温度を感じた。


電車が動き出すと、織は揺れとアナウンスで目を覚ました。


「ご、ごめんなさい」


慌てて姿勢を正す。黒髪にメガネ、目元がはっきりした美人だった。

お気になさらず、と裕介は小説に視線を戻す。


すると織が、その本を覗き込み、話しかけてきた。


「その小説、あまり売れなかったけど、私は結構好きなんです」


美人に話しかけられ、裕介は少し浮かれた。


「ああ、俺、この人の小説、好きなんです」


上条織。

無骨さと繊細さが混ざった文章が、自分には読みやすかった。


「読書好きなんですね」

織が微笑むと、裕介は照れたように笑った。


降りる駅も同じだった。

せっかくの縁だと思い、裕介は思い切って声をかけた。


「あの……良ければ、連絡先、教えてください。俺、清水って言います」


織は少し迷ったが、財布から名刺を取り出した。


「じゃあ、これ」

「えっ……本当に?」

「うん。本当です。私、上条です。上条織」


その後、駅構内の喫茶店で少し話し、LINEを交換して別れた。

それが、すべての始まりだった。


----


風呂から上がった裕介は、湯船に浮いた髪をすくい、床に落ちた毛をシャワーで流す。

娘が嫌がるからだ。


着替えてからリビングの彩に声をかけ、冷蔵庫から缶ビールを取り、自室へ向かう。

夕飯時になればダイニングに降りる。


彩が作る日もあれば、裕介が納豆やキムチで済ませる日もある。

娘は家事を手伝わないが、成績は優秀だった。


夕食後はまた自室に戻り、音楽を聴きながら小説を読む。

バンドは、ドラムを担当している人の息子が受験中のため活動休止中だ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ