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シラードと消えたウラン

掲載日:2026/02/11

 195X年アメリカのとある機密研究施設。ここでは大戦の頃から放射性物質の研究を続けていた。そこの生物部門の統括であるステュワート博士は、就任してから初めてとなる構内監査を一週間後に控え、苛立っていた。

 研究の進捗が芳しくないのはもちろんながら、それでいて長期休暇に入る若手研究者への不満のみならず、この度の監査が自らのキャリアに与える影響を気にしていた。もしこの監査で何らかの不始末が露呈すれば、それは政敵が待ち望んでいた非難の口実になるだろう。無論そのような失態を犯すつもりは毛頭ないが、彼らが何らかしらの罠を仕掛けてくるかも知れない。用心すべきだと。

 今、彼の国の核開発研究は水爆推進派と原爆推進派に二分しており、どちらが核開発の覇権を握るかの政争の真っ只中である。今のところステュワートが属する水爆推進派はやや分が悪く、彼がこうして閑職に飛ばされたのもこのためだった。彼は生物学を疎んじていた。彼は、数学、物理学以外の科学は所詮切手収集程度のもので、知的生産活動ではないという物理学の大家ラザフォードの言葉をよく引用しては周囲に顰蹙を買っていた。それは政敵もよく知るところであるため、あえて彼に不得手な職に就け、馬脚を現すことを期待しているのだろうと彼は邪推するのであった。

 研究所敷地は鉄条網で囲われており、出入口全てに武装した軍の立哨がいる。彼の仕事に対する不満の一つは、仕事の度に自ら監獄のようなところに赴かねばならないことだった。ゲートに近づくと兵士の一人が彼の進路を塞ぐ。ステュワートは徐にポケットからIDカードを取り出すと、兵士は敬礼して道を譲った。彼は溜息をしながら、カードを手に持ったまま自身が管轄する研究棟を恨めしく見上げた。

 研究棟は二階建ての建物で、一階は実験室とステュワートの事務室、二階は空調や配電の設備類が収められた機械室となっている。装飾はおろか窓一つもない武骨な鉄筋コンクリート造りはまるで墓標のようで、彼はこの建物から放たれる陰気で不吉な雰囲気を好まなかった。

 重厚な防火扉を開けて屋内に足を踏み入れると、正面のカウンターには若い守衛が座っていた。


「おはようございます、統括」


 ステュワートの姿を認めると、彼は立ち上がる。背が高いので、ステュワートは彼を見上げるように、

「おはよう」と返した。ステュワートがIDカードを守衛に見せる。以前、IDを見せずにこの建物に入ろうとしたところ彼に羽交締めにされたのが懐かしい。部下も彼ぐらい仕事に忠実ならいいのにと溜息が溢れた。


「今日は事務室じゃなくて実験室に用があるんだ」

 ステュワートは入退室帳簿に自身の名前を記載しながら言う。


「了解しました」


 守衛はポケットから鍵束をじゃらじゃらと取り出して、実験室に繋がる扉の鍵を開けた。内側からは誰でも出ることができるが、外から実験室に入るには守衛の持つ鍵が必要だ。ステュワートの事務室の鍵は守衛が持っているものの大抵の場合は無施錠である。事務室に貴重品はないし、部下が書類を提出するのに、いちいち鍵を持ち出していたら面倒だからである。


「どうぞ」


 扉が開かれると、ステュワートは被ばく線量測定バッチを胸ポケットに取り付けた。

 扉の先は狭い通路になっており、床から壁、天井まで白一色に塗られている。一見何の変哲もない通路だが、この入り口は彼が考案したある仕掛けが施されていた。一般人なら二重のIDチェックだけでも万全の警備体制と思うかも知れないが、彼は核物理学の専門家として、それだけでは不十分と考えていた。この施設は部外に持ち出されては困る放射性物質を格納している。しかし放射線は目に見えない。誰かがこっそりと盗み出してもそれに気づけないおそれがあった。だからこの空間は放射線検出器によって常時監視することにしたのだ。誰かが、放射性物質を持ち出そうとこの通路を通ろうとすれば、たとえポケットに忍ばせていたとしてもけたたましいブザーが鳴る。鉛製の容器でも用意すれば検出器は作動しないだろうが、その場合は、通路に仕込まれた体重計の記録によって不正な操作が明るみになる。計器を利用した我ながら完璧な警備体制だとステュワートは自画自賛した。

 この先の通路には3つの扉がある。実験室、放射性物質を保管する貯蔵室、実験によって汚染を受けたゴミを一時保管する廃棄室の扉である。汚染廃棄物ある期間を経過すると外へと運び出されるが、遮蔽容器に収納されるため検出器に反応することなく通路を通ることができる。ただし、遮蔽容器は施設の入口にいた守衛の眼前で開封され異物がないか調べられる。だから廃棄物に紛れ込ませて放射性物質を盗むこともまた不可能である。


 検出器がバックグラウンドノイズを拾う小刻みなピッ、ピッという音が通路に響く。設備が正常に機能していることをステュワートは確認して、携行用の線量検出器を肩に掛けた。

 この研究棟は放射線が生物に与える影響や、放射化学の生物学への応用実験を行う施設である。来週監査が来る時にはきちんと試薬類の整理整頓がなされて、棟内に放射能汚染が何一つないようにしなければならない。ステュワートが態々部下に指示せずに実験室に赴いたのは、監査の前に自身で異常がないことを確認したかったためだ。しかし、実験室に入った彼は早速異常を発見した。


「誰だ、こんなところに試薬を置きっぱなしにしたのは」


 実験台の上に放置された試薬瓶を発見したのである。500ミリの褐色瓶で開封済みの蓋がついており、中身は液体で満たされている。古いラベルが貼り付けられているようだが、印字は遠くて読めない。監査のときに見つかれば指導の対象となり、これがもし放射性物質の瓶であれば、彼のキャリアに影響を与えかねない。あとで犯人を特定して厳しく叱責しなければと彼は徐に瓶に手を伸ばしたが、そのことを直ぐに後悔した。

 線量検出器がけたたましく鳴り響いたのだった。

 思わず手を引っ込める。遠巻きにラベルの文字をなんとか読み取ると彼は更に驚愕した。


酢酸(さくさん)ウラニル!!」


 放射性元素ウランを含んでいるのだ。検出器が反応するのも当然である。だが、同時に強く困惑した。片付けられていないだけなら、それを元の保管場所に戻せば事足りる。問題なのは、酢酸ウラニルの保管場所がこの施設に存在しないことだった。というのも、彼はこの施設の統括である以上、何がどこにどれだけあるのか、いつどれだけ持ち込まれたのか、使ったのかを把握している。このことは監査でも調べ上げられるのだから当然と言えば当然のことだが、そうなると酢酸ウラニルが元よりこの施設に保管されているという記録もなければ、搬入された記録もないのである。無断持ち込みも可能性としてはありえたが、彼考案のセキュリティを突破するのは持ち出しだけでなく、持ち込みも不可能。ナンセンスだが、無から有が発生するかのようで、瓶は量子論の不可解さを体現したような存在感を実験台の上で放っていた。

 この管理外放射性物質についてステュワートは逡巡する。安心材料が一つ、不安材料が二つ。安心なのは、この化合物の危険性が比較的低いことだ。一概にウランと言えども核兵器に使えるものとそうでないものがある。ウランは重く不安定な元素であり、それゆえにエネルギーを産み出す連鎖的核分裂反応の鍵となるのだが、ウランの原子核の重さの違いでこの連鎖反応を起こすもの、おこさないものがある。天然のウラン鉱石には両者が混ざり合っているのだが、核弾頭に用いるためには一方のみを濃縮しなければならない。そして酢酸ウラニルはその搾りカスである。なのでこの瓶を盗まれても兵器利用は不可能だ。少し前の議会答弁で、政敵(オッペンハイマー)が証言したように放射性物質の全てが核爆発を起こすものではなく、たとえ敵国の手に渡ったところで痛手とはならない。このことについてはステュワートも同意見だった。放射性物質を含む兵器を核兵器と呼ぶのなら、眼前の怪しい瓶で火炎瓶を作ればそれもまた核兵器に違いないが……それは兵器と呼ぶには頼りない代物である。

 不安材料の一つは、この放射性物質がいつ誰によってどのように持ち込まれたのかについてだ。放射性物質を盗むという話は時折あるが、不当に持ち込むという話は聞いたことがない。動機も分からない。そして最大の懸念は、この案件を管理外放射性物質の発見として正直に報告するかどうかである。報告すればステュワートのキャリアに必ず影響するだろう。そして、政敵が政治的に失脚した今、自身の派閥にとっては巻き返しの好機であり、水を差すような真似はしたくない。なら秘密裏にこの瓶を処分してしまうしかない。工作が発覚すればそれこそ大問題となるリスクはあるが、真面目に仕事したところで評価されるものでもない。正直さを美徳とするような情勢ではないのだ、この国も、核開発も。いかに相手を騙すかこそが重要なのだ。

 ステュワートがこのような自己弁護をしたとき、ふいに話しかけられて心臓が止まる心地がした。


「あのー、ボス? お話ししたいことがあるのですが?」


「何だ、いたのか」


 彼はいつものように不機嫌そうに振り返る。おどおどした声ですぐに誰から話しかけられたのか分かったからだ。見習い研究員のアボットである。役に立たない者だけが休暇に入らずここに残っているのが余計に彼を不機嫌にさせていたのだった。ステュワートは差別主義者ではなかったし、戦時中の軍事研究では優秀な女性科学者が数多くいたことを知っている。だが、研究分野における女性の地位はまだ低く、彼も彼女らが利用できるものぐらいの認識でしかなかった。


「私に話しかけるということは、何か成果があったということか」


 彼女は泣きそうになりながら、

「いえ、それについては休暇明けまで待ってくれませんか。私がお話ししたかったのは、搬入確認書のサインのことで」と言って書類を彼に差し出した。


「ふむ」


 見ると実験用に持ち込んだ32P(放射性リン)の受領書のサインがまだだったらしい。彼は胸ポケットに差したペンを手に取った。


「サインいただけないと来週の監査に差し障ると思うんです」


 ステュワートはいちいち気に障ることを言うこの部下が好きではなかった。言われなくても分かるし、さも私は気にしませんが、あなたは困るんじゃないですかと言いたいようで話す度に苛つくのだった。


「ありがとうございます」


 書類を返すとアボットは軽い会釈をして立ち去ろうとする。


「待て」


「何か?」


「酢酸ウラニルの瓶を知っているか?」


 アボットは質問の意味が分からないと言わんばかりに大きく首を傾げた。


「知っていますとも」


 予想外の回答に、彼はダメ元でも聞いてみるもんだと感心したが、それはすぐさま落胆に変わる。


「ボスのがよくご存知ではありませんか。だって、そんなものはこの施設の中にないことを知っているのはあなたですよ」


「む、そうだな。試すような真似をしてすまない」


「いえ、お気になさらず」


「棟内に不審物はなかったか?」


「いえ。監査が近いですからね。異常があれば速やかに報告します。サインありがとうございました」


 アボットはそそくさと実験室を後にした。扉が閉まり、足音が遠ざかるのを確認したステュワートは、古びた瓶を恨めしく一瞥つけて自分もまた自身の執務室に引き返した。


「さて、あれをどうするかな」


 ステュワートは俄然にやる気が出ず、一先ずは、机の上に届けられた雑誌を手に取った。ここ最近の彼のルーティンである。ここのところの核問題は科学技術的な論点よりも、倫理的な論点で語られることが多くなった。だから世論の印象には気を遣う。つい10年ぐらい前までは、敵より強い兵器を持てば戦争に勝てるんだという風潮だったのが、今や敵のみならず地球そのものを破壊しかねない兵器など持つべきではないという考えも現れて始めている。核の安全性、自国の優位性を示すプロパガンダもまた核開発における重要課題になりつつあるのだ。

 ステュワートは記事の見出しを見る。


『シュピッツ博士、世界滅亡爆弾を開発』


 何とも莫迦げた内容だ。要約するとこうだ。彼は水爆開発に反対である。なぜならそれほどの高威力の爆弾は不必要だからだ。広範囲を不毛の地に変える兵器に価値などない。人道的でないものは我が国的ではない。もしこの世界を破壊したいのであれば、既存の核弾頭を放射性コバルトで覆えばそれだけで事足りる、と。

 科学的な主張はおそらく正しい。ヒロシマの復活が当初の予測より早かったのは、灰に含まれる放射性物質の減衰が比較的早いものだったからだ。ならば、減衰が遅く、それでいてそれなりの強い放射線を出すものを爆発とともにばら撒きさえすれば、より凶悪な兵器になる。だが、彼の主張は政治的には正しくない。我々はともかくとして、敵国の開発者どもがシュピッツと同意見とは限らないからだ。

 シュピッツはかつての核開発の同僚である。同僚と言うには、彼は年配だったし、解任されたから微妙な関係だが。解任されたのは、自身が核兵器開発の発起人であるのにも拘らず、最後に敵国への核使用を妨害したからだ。わけが分からない。人格に問題があったが、科学者としては極めて優秀だと認識していた。核開発の発端となった連鎖的核反応実験に初めて成功し、粒子加速器、電子顕微鏡の理論構築等、成果を挙げれば枚挙に暇がない。だが、その一度の過ちで干された。自然科学者としての彼のキャリアは閉ざされ、社会学者のような活動をしているようだ。私を来週の監査でそうならぬよう、と肝に銘じて、ステュワートはようやくその重い腰を上げたのだ。

 不安材料のもう一つは、あの瓶を隠蔽するとして、一体どこに隠すのかということだ。持ち出すのは不可能。ならば、執拗な監査員でさえ見つからないような場所を探し出すしかない。そんな場所、この狭い実験室内にあるだろうか。


 再び怪しげな瓶があった実験台へと戻る。だが、先程までと明らかに様子が違う。瓶がなくなっているのである。まさか、そんな。辺りを見廻して見ても先程のラベルが付いた瓶が見当たらない。幻覚だったのだろうか? いや、そんなことはありえない。身につけた計器は先程の異常事態をきちんと記録していた。ならば、何者かが再び瓶をどこかに隠したに違いない。

 監査の前に探し出すしかない。ステュワートは血眼になって試薬棚の中を片っ端からひっくり返し始めた。


 監査の直前。

 ない、どこにもない。ステュワートは憔悴し切っていた。ウランの瓶はどこからも見つからないのである。入口の検出器に異常はなく、このことは実験室からウランが持ち出されていないことを意味していた。では、なぜ見つからないのか。監査員がステュワートよりも先に瓶を見つけてしまえば、一巻の終わりである。中身を瓶から取り出した可能性も考えた。だが、検出器で室内を隈なく探っても異常な線量は検出されなかった。排水に流した可能性も考えた。だが、この建物の排水管からも汚染水は検出されなかった。突如として出現して、跡形もなく消滅する。そんな幽霊のような冗談は量子論だけにしてほしい。私が見つけられなかったように、監査員にも瓶を見つけられないことを願うしかない、ステュワートはそう考えた。いや、この不可思議な現象が、敵の罠でなければの話だが。


 執務室にノックの音が谺する。


「時間だが、出迎えはないのかな?」


 嫌味ったらしい台詞を吐いた顔が扉から覗く。アンダーソンである。ステュワートとは大学の同期だが、同じ学問を専攻することを除いて、昔から気が合わない男である。当然、彼は原爆推進派であり、水爆反対派である。

「生憎だが、もてなすようなものがここにはないのでね。飲食は禁止だ。当然、煙草もだ」


 ステュワートは監査員らに煙草を差し出すように迫った。


「おいおい、禁煙なことぐらい知ってるさ。まあ、火災警報器がきちんと作動するかぐらいは調べた方が良さそうだが」


「それには及ばない。それとも今日は消火訓練に来たのか? いつ消防隊に転職したんだ?」


 ステュワートは、火災報知器のテストは今回の監査内容ではないと皮肉を込めて応じる。


「ふん。まあいい。さっさと仕事をしようか。こんな空気の悪いところ、煙草よりも肺に悪そうだからな」


「当然、統括である私も立ち会わせてもらう」


 ステュワートは椅子から立ち上がった。


 アンダーソンら監査官はおよそ一時間かけて建物の中を調べた。それほど巨大な施設ではないし、普段ならものの10分そこらで終わる作業である。余程粗を探したかったのだろう。


「残念ながら構内に特段の異常はなかった」


「当然だ」


「では書類のチェックをさせてもらおう。執務室に案内してくれ」


 今度は書類の監査が行われた。書類がきちんと整理されているか。責任者のサインが記入されているか等を調べる。

 だが、そのときにステュワートは自分の犯したミスに気づいた。書類の不備ではない。アンダーソンの足元にあるゴミ箱だ。もちろん中のゴミは全て捨てたはずだった。無論、執務室の中に汚染物などあるはずなく、この部屋のゴミ箱の中身などどうだって構わないことだ。だが、ステュワートには分かった。ゴミ箱の底にあるのは、未確定ながらずっと探していた酢酸ウラニルのラベル紙に間違いない。変色の具合がまさに彼が見たそのものである。ラベルの糊のせいでゴミ箱に張り付いたのだろう。一体誰がそんな場所に? そもそも実験室から持ち出せるわけがないではないか。いや、そんなことは後で考えればいい。この局面、どう乗り切るか。ステュワートは焦った。


「ふむ、面白くないが、書類の整理も不審なところはないようだ」


 アンダーソンがぱたんと簿冊を閉じて、立ち上がった。そのとき、彼の革靴の先端が、こつんとゴミ箱に当たった。


「!!」


 思わず、ステュワートの口から声にならない音が漏れた。


「どうかしたのかな?」


 アンダーソンは、ステュワートの顔を、それから真下にあるゴミ箱に視線を移す。


「おや、君にしては不用心だな」


 アンダーソンはゴミ箱の底についたラベルに触れようと手を伸ばす。


「いや、やめておこう。もしこれが汚染物だったとしたら素手で触るわけにはいかないからな」


 ほかの監査員が一斉に笑った。


「一先ずはこれで今日の監査は終了ということでよろしいですかな?」


「仕方ない。時間もおしていることだしな。私もこんな場所で油を売っているほど暇じゃない」


 アンダーソンは背広の襟を整えて執務室を去る。


「一応、廃棄物のチェックがまだ残っているが、次の搬出日は3週間後だからな。監査の結果はそれ以降だ」


 ステュワートは監査員らが戻ってこないかしばらく様子を見た後に、ゴミ箱の底を浚った。


 やっぱりだ!!


 ステュワートの直感どおり酢酸ウラニルのラベルがそこにはあった。

 やはり何者かが意図をもって酢酸ウラニルを運んだのだ。だが目的が分からない。一つ確かなことは、この不可思議な現象が政敵の罠ではないということだ。それは安心材料に違いなかったが、なおさらに何者の仕業かが分からなくなった。

 そうしているうちに廃棄物庫の検査も終わり、監査の結果は問題なしで終わったが、ステュワートの気分は陰鬱としたままだった。問題は確かに存在するのだ。今回の監査では偶然それが発覚しなかっただけ。いずれは露呈するときが来る。そうなる前に消えたウランを自らの手で見つけ出さねばならない。その一方で、彼は既にこの件に対して考えられる全ての手を尽くしたと考えていた。自身の手には余る問題だとも感じていた。だが、この問題は容易く他人に相談すべきではないものでもあった。相談するに足る相手は、そこそこに知恵があり、量子力学に詳しい者でなければならないのは言わずもがな、口が堅く、政治的に中立か自陣寄り、但し同じ派閥の者は借りを作ることになるからダメ、そんな人物である必要がある。そんなヤツいるのか?とステュワートは自虐した。

 ……いた。ステュワートの数少ない知人の中で該当者が一人。シュピッツである。だが、問題もある。協力を仰げる可能性は高いが、借りを作るのは危険かも知れない。それに、とにかく人を苛立たせるヤツであり、直接会って話をする気になれない。策が要るな。そう決意したステュワートはすぐさまにアボットを呼び出した。


「あの、統括? 実験の結果報告の期日まではまだ時間があるように思えるのですが?」


 おずおずとアボットがステュワートの顔色を伺いながら言った。


「根詰めるのも良くないから、君に休暇をやろうと思ってだな」


「それはクビってことですか?」


 アボットは既に目の周りが赤くなり始めている。


「いや、そういうわけではない。先輩らも休暇を取っているだろう。一流になるためには休みを上手く取ることを覚えないといけない。生産性も上がるし、いつもと違うことをすれば新たな閃きを得るかも知れない」


 アボットは不思議そうにステュワートを見つめ返していた。


「ただ、休暇中一つだけ課題を出す。君はレオ•シュピッツという科学者を知っているか?」


「大学近くのホテルに住んでて、学生に絡んでくる大柄の老科学者ですよね。私の知り合いで知らない人はいないと思います。私も一度話しかけられたことがあります」


「なら都合がいい。いいか? これはあくまで仮定の話だが、この施設のセキュリティに関する課題で……」


 とあるホテルのロビー。アボットはその一角で、大きなトランク2つを傍にソファに座って子供と話をしている老人に声をかけた。


「シュピッツ先生ですよね? これからお出かけですか?」


「おや、君は……確かミス・アボットだね。出発するかどうかの問題は君の話を聞いてからでいいよ」

 子供に笑顔で別れを告げた老科学者は気さくな笑顔で答えた。


「私のこと、一度しかお会いしていないのに覚えていらっしゃるのですね」


「私の方から話しかけたのだから忘れたら失礼だよ。私に話があるのだろう? この老いぼれでよければ付き合うよ」


 恰幅の良い老人は柔和な笑みでアボットを迎え入れた。


「でも……本当に良いんですか? 予定がありますよね」


アボットは大きなトランクを持つこの科学者が今からこの地を去るつもりでいるような気がした。


「何かの準備をしているからと言って、すぐに行動するとは限らないよ。大事なのは直ぐに動けるようにすることだ。そして、スケジュール帳はそのときに閃いた新しいアイデアで埋め尽くすこと」


話を聞く準備があることにアボットは安堵し、一息吐いた。


「ありがとうございます。実はですね…」


 アボットは自身のボス、ステュワートの依頼を語り始めた。


「なるほど……実に興味深い話だね。特に私が気に入ったは、この話が作り話で、施設のセキュリティに関することだという点だね」


 シュピッツは茶目っ気ある視線をアボットに向けて言葉を続ける。


「施設のセキュリティは部外者である私には話せないはずだけど、これが作り話だから許されるのかな」


 アボットは愛想笑いで返事する。アボットもステュワートの意図を察知していた。しかし、彼女もまた隔離実験施設での出来事を収拾できるはずもなくこうしてシュピッツの助けを求めるしかなかった。


「何か分かりそうですか? 気付いたこととか何でもいいです」


 犯人や犯行目的の解明までの贅沢は言わない。せめての消えたウランの在処ぐらいの説明ができるようになれば十分過ぎるとアボットは見積もっていた。


「なるほど、東洋の島国には名は体を表すという言葉があるのだけれど、実に言い得て妙だと僕は思うんだよね。この言葉のミソは体があるから名があるとも、名があるから体があるとも、どちらともにも言及していないことなんだ。また、こう言い換えることもできる。顕微鏡で細胞を観察するにも、そのままでは細胞には色がない。だから細胞を染色するんだけど、染色像は細胞本来の何かを示しているわけでもない」


「はぁ……」

 要領を得ない回答にアボットは当惑するが、彼の次の発言を聞いて驚愕することになる。


「まあまあ面白いクイズだったよ。原理を理解すれば、何が起こったのかも、君たちが何を考えているのか、どうすればいいのかが分かる。僕はそろそろ外に出かけようかな」


「待ってください。先生は今の話だけで解明できたと?」


 流石にありえないと、アボットは思った。二つの世界大戦と二大国の冷戦を予見、連鎖的核分裂を発見した超天才的頭脳をもってしてもほんの数分話し込んだだけで事件の全容が分かるわけない。そんなに簡単ならステュワート統括にだってできたはずだ。そんなことができるのは宇宙(ハンガリー)人だけだろう。


「それは君がよく知っているのではないかい?」

 鋭い眼差しをシュピッツはアボットに向ける。


「いや……君は解明してほしいとは一つも言っていなかったか。僕の早とちりだったのかな」

 シュピッツは独り言ちる。


「先生。なら、あなたの意見をお聞かせ願いますか?」


「いいよ。君は僕の知性(クレヴァネス)に疑念を抱いているようだからね。まず、この件で、何か細工をした者が犯人だとすれば、犯人は君、アボット君ということになる」


「私、ですか?」


「そうだ。君はステュワートの話を僕にしてくれたが、君自身も当事者なわけだ。事件のあったそのとき、君はどこで何をしていたのだろう? それともこの話は作り話なのだから、物語のアボット君は架空の人物だったのかな?」


「私、スパイじゃありません。ウランなんて盗んでいません」


「うん、そうだろうね。スパイならばウランを盗むかも知れないが、ウランを盗むのはスパイとは限らない。動機なんて無意味だよ。誰なら実行可能かどうかだ。第一に、保管記録にないウランを盗み出すのはスパイには不可能だろう。予め、あの施設にウランが保管されているなら侵入を試みる価値があるだろうけれど、そうでないなら厳重なセキュリティを破る価値がない」


「ですが、私はあそこにウランがあるなんて知りませんでした。だから私には実行不可能なんです。たとえ、ウランを知らずに持ち出そうとしたら、防犯システムが作動するはずです」

 私には不可能ですとアボットは自己弁護する。


「そうだよ。君が持ち出したとは思わない」


「じゃあ誰ですか?」


「誰かは重要じゃないし、僕には分からない」


「失礼ながら、それって解明できたと言えるのでしょうか」


「既に問題は解決済みなのだからそれを追及する意味がない。誰が中身を持ち出そうが、物語の結末に変わりはないのだ。それとも君が知りたいことについて話し合った方がいいのかい?」


「どういう意味です?」


 犯人は君であると面と向かって宣言するだけでなく、事態は解決済みであると断言するだけでもなく、さらに話し合うべきかと問うシュピッツにアボットは困惑した。本当に滅茶苦茶な人だ。


「君は犯したミスを正直にステュワートに話すべきだ。僕の目算だと、それでも君の勝利は揺るがない」


「まだ先生が何をおっしゃっているのか分かりません」


「そうかい? なら順を追って一から説明しようか。まずそもそも話が拗れた原因とも言うべきウランの瓶についてだが、瓶の中にウランは入っていなかったと僕は思うね」


「ちょっと待ってください。瓶の中身はガラスを突き抜けるほどの強い線量を放っていたんですよ。そんなことがあるのですか?」


「君はその瓶を見たのかね?」


 アボットは答えに詰まった。ステュワートが言うウランもウランの瓶もアボットには分からなかったからだ。ただし、心当たりはある。シュピッツは言葉を続ける。


「ラベルに酢酸ウラニルと書かれているから酢酸ウラニルだと信じたんだよ。瓶については他にも不審な点がある。開封済みということは中身が入れ替えられている可能性は考えなければならない。もし、ラベルのとおりならば、酢酸ウラニルは固体だよ。液体が入っているのはおかしい。それに瓶中程度の量のウランの放射線がガラスを貫通するのもおかしい」


「じゃあ先生、瓶の中身は何だったというのですか?」


「それは君がよく知っていることだ。なぜなら、中身を瓶に入れたのは君だから」


「まさか、そんな」


 アボットには心当たりがあった。しかし、目の前の老人は、現場を見もせずになぜそれが分かるのか不思議だった。彼は容赦なく追及を続ける。


「でも心当たりはあるはずだ。だって、君はあの施設の中で実験をしていたのだろう。なら君が実験で使って廃棄する放射能汚染ゴミは一体どこに捨てるのか。これはそもそも君の前にミスをした人間がいるということでもあるのだが、あの実験室の中には、中身が空の酢酸ウラニルの瓶が存在した。誰かが使った後に捨てなかった瓶だ。君はその空き瓶を汚染廃液入れに使ったのだ。タイミング悪くその廃液瓶をステュワートが発見した。その後、君は廃液瓶にラベルが着いたままになっている問題に気付いて、ラベルを剥がし、そのラベルを非汚染区域で簡単に侵入できるステュワートの事務室のゴミ箱に捨てた。そして瓶の中身を捨て、残った瓶は他の空き瓶に紛れ込ませた」

 実験室内に空き瓶は沢山あるからねとシュピッツは笑う。


「中身の汚染廃液を捨てるにしても、実験室の中に隠せる場所なんてないと思うのですが。排水溝もモニターされてますから流すこともできませんよ」


「木を隠すなら森の中という諺があるが、木が隠されたのならば森の中を探すだろう。なら廃液はどこに隠すか? ゴミ箱に捨てるだろう。紙に吸わせてね。水はいずれ蒸発して乾くし、廃棄物の缶まで調べたりしないだろう」


「放射線量の問題はどうしますか?」

 アボットは半ばムキになって反論するが、シュピッツはさもどうというわけもないという具合に返答する。


「それも簡単だ。放射線なんて時間が解決する。君が言うように中身が本当にウランなら減衰までに世界は滅亡しているだろう。しかし、君が実験に使った32P(放射性リン)はどうかな。2週間もすれば線量は半分に減衰する。放射性物質は持ち出されたのではなく、隠されたのでもなく、消失した、というのが、今回の顛末だよ。瓶の中身は32P、というのが僕の答えなんだけど、正解で間違いないかね?」

 アボットは力無く首肯した。


「本当に先生は私が語らずとも全てを見抜いたのですね」

「実は、僕もあの施設で仕事をしていたから、ステュワートの名前を聞いて何となく何の話か想像できたのだよ」

 閑職に飛ばされたのはステュワートが初めてではないとシュピッツはシニカルな笑みを浮かべた。


「ですが、統括に正直に話すべきという意味が分かりません。良心に従えという意味でしょうか?」


 統括に怒られるだけならまだいい。研究所をクビになるかも知れないし、もしかしたら研究者生命が絶たれるかも知れない。


「ミス•マイトナーのように亡命するにはまだ早いだろう。もちろん君が望めば手引きはするし、クビになりそうなら僕を頼ればいい。僕も幾度となくクビにされそうになったからやりようはあるけど、仕事を辞めるのはまだ早いよ。そうではなくてね、僕はステュワートがこの件を隠蔽するとみている。監査で問題がなかったのだから、今更自身の汚点になるようなものを蒸し返したり、何らかの処分を下すとは思えない。僕は嘘は嫌いだが、問題の方が独りでに消えたのだから、それはもう問題ではないし、嘘にならない。だから、共犯者になろうという要求は、彼にとって美味(うま)くはないが、呑めないほどではない。いや、君は彼にとって喰えないヤツになるかも知れないから、少なくとも軍法(さいばん・)会議(gericht)ものではない」


 シュピッツは何か冗談を言ったようだが、それがドイツ語であったため理解できなかった。


「密告しないのですか? 先生は水爆に反対していると聞きました。統括を失脚させることは、あなたにとって有利になるのでは?」


「別の誰かが研究を引き継ぐだけだよ。それに、窮地に追いやるようなやり方を僕はしたくないんだ。できれば過ちに気づいて自らで幕を引いてくれることを望む。イカロスは太陽を欲して失墜した。身に余るものを欲してはいけない」


アボットはしばし考え込んで答える。


「なるほど。問題が解決済みであるという先生の言葉の意味がよく分かりました。先生のおっしゃるとおりにしてみます」


賢明(ワイズ)な判断だと思うよ。なら、僕はそろそろ失礼させてもらおうかな」


 シュピッツは椅子から立ち上がるとフロントへと歩き始めた。


「先生。最後に一つだけ良いですか。空の酢酸ウラニルの瓶を捨て忘れた人が誰か、先生なら分かりますか?」


 立ち止まったシュピッツは振り返るとこう答えた。


「非常に良い質問だね。ヒントは酢酸ウラニルが何に使われるかを考えてごらん。これはオマケみたいなものだから正解に到達するかは重要ではないし」


 シュピッツは踵を返して遠ざかっていく。


 酢酸ウラニルを何に使うか……アボットは思考を巡らせる。ウランは密度の大きい物質でもあるから電子顕微鏡で細胞を観察する際の染色に使われる……あッ!!

 アボットが答え合わせをしようとしたとき、老人は既に姿を消していた。量子論に詳しい生物学者で電子顕微鏡への造詣深い人物、かつ、軍の機密研究施設に出入りしたことのある人物なんてアボットの知るかぎり一人しかいない。

 密室の類型は、大別して①何らかの方法で出入り(出し入れ)する、②室内に隠れる(隠す)の2つに分けられるかと思いますが、それら以外、③室内で存在自体が消失するという特殊な例を提示してみました。似た例に氷の凶器なんてものがありますが、氷は水に変化し痕跡となるところ、今回は痕跡すら消えるという事態に事件が事件でなくなるというオチになってしまっています。

 探偵役の彼は史実でもなかなかに魅力のある人物です。実力に比して富や名声とは縁遠いものでしたが、彼の選択は、世界にとってベストでなくてもベターではあったのではないでしょうか。

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