断捨離のプロ
引っ越し先の鍵を受け取った日の帰り道で、男はスマートフォンを出した。画面には丸い顔のアイコンが浮かんでいる。鼻筋で区切られた笑顔は、誰が見ても軽い。軽さは正しさの別名であるらしい。
《空無》と名乗るインフルエンサーのチャンネルを開くと、最新の動画が自動再生された。白い部屋、白い服、白いマグカップ。画面の人物は言う。
「一か月使わなかった物は、未来のあなたの敵です。敵は少ないほど、生きやすい」
男は予約ボタンを押した。引っ越しを機に、生活を軽くしたいと思っていた。段ボールは二十箱。中身は、増えたときに気づかないが、運ぶときにわかる。重さは足し算で、決断は引き算だ。足し算は誰でもできるが、引き算には勇気がいる。勇気は外注できる時代になった。
翌日、黒い作業着のスタッフが三人、時間どおりに来た。玄関先で、彼らは無言で靴の向きを揃え、部屋の一巡をはじめた。タブレットのアプリ《BLANK》が開かれる。カメラで写し、指で弾き、数字が並ぶ。
「電子レンジ:使用頻度スコア0.2」
「未読の本:0.1」
「古い手紙:0」
最後の数字に男は眉を動かした。スタッフのひとりが答える。
「読み返し回数の推定はゼロ。読み返す可能性もゼロ。写真と違って、手紙はテキスト抽出後の情動値が低いです」
「情動値?」
「FUZZ値と呼んでいます。曖昧な効用(Fuzzy Utility)を指数化したものです。役に立つかどうかは二値でなく、濃淡です。濃淡は誤差になりやすい。誤差はノイズ。ノイズは取り除きます」
男が黙ると、作業は進んだ。金属の擦れる音、薄い段ボールの鳴る音、テープの剥離。数字が静かに頷き、物が静かに消えていく。積み上がった段ボールの側面には、黒い印字があった。
〈資源化〉〈寄付〉〈データ化〉〈廃棄〉
《空無》本人もやって来た。動画で見るのと同じ、軽さをまとった人だ。眉の上に短い影、袖口に余分な布がない。
「依頼ありがとうございます。片づけは戦争です。敵は大体、昨日のあなたです。勝つためのルールは三つ——使わないものは敵、曖昧は敵、躊躇は敵」
「敵が多いですね」
「人生はだいたい多すぎるところから始まります」
《空無》は微笑んで、タブレットの画面を男に見せた。グラフが二つ。所有の総量は右肩下がり。幸福感は、山の形をしている。山の頂上は、物が半分になったあたりだ。そこを過ぎると、幸福感はまた落ちる。
「ここが“最適”です」
「全部、捨てるのでは?」
「全部という言葉は便利ですが、実務では危険です。ですが——」
《空無》は少し肩をすくめた。
「最近は、曖昧な効用まで手を入れるオプションが人気でして」
「曖昧な効用」
「役に立つかどうかわからない、だけど捨てがたい。たいていは過去から付いてきたタグです。“思い出”と呼ばれることもある」
「それは……捨てられるものですか」
「移管できます。《Re:Memory》というサービスがございます。必要なときだけ、最適化した思い出を配達します。サンプルをどうぞ」
《空無》はポケットから小さなカードを取り出し、男の手のひらに乗せた。カードの表は無地、裏に小さなQR。スマートフォンで読み込むと、画面に短い動画が流れた。小学校の校庭、夏の光、鉄棒。男は中空で逆上がりに失敗し、砂にひざをついた。ひざに砂が入る感覚も、風のにおいも、当時のままだ。動画は十秒で終わる。次に、大学時代の通学路。電車の窓ガラスに移る自分の顔をぼんやり見つめる。コンビニの袋は白、レシートは薄い青。これも十秒。要点だけで、余白はない。
「要約してあります。濃縮、と言ってもいい。長さはあなたの集中力に合わせます」
「本当の記憶とは、違うのでは」
「本当の記憶は、あなたに優しくないことが多いです」
男はカードを返した。《空無》は少しだけ首を傾けた。
「移管には、FUZZ値の高い順に当たります。すべてはおすすめしません。必要に応じて、段階的に」
「おすすめしないことがあるのですね」
「高評価だけでチャンネルを続けるより、たまには真実を言うほうが信頼されます」
男は笑い、契約した。紙は少なく、電子的な同意が多い。チェックボックスが幾つか。読めば読むほど、読み飛ばしたくなるのが規約というものだ。最後に指で署名をすると、タブレットは柔らかい音を鳴らした。
*
作業は三日かかった。一日目で物理層が半分になり、二日目で三分の一になった。三日目は、目に見えないものに手が伸びた。写真のデータは外部ストレージに移され、ファイル名が規則に沿って並び替えられた。曖昧な効用の高いものは《Re:Memory》のクラウドに送られた。契約上、配達は月一回。必要に応じて追加の配送ができる。初回はお試しも付く。
作業の終わった夜、男は床に座った。座る場所しかないので、姿勢は自然に正しくなる。壁は音を吸わず、小さな動きも響いた。外の道路を走る車の音が以前より遠い。カーテンはない。窓は黒い鏡になって、部屋の中を映している。映るものは、何もない。
軽い。たしかに軽い。肩の高さが数センチ上がったような感じすらする。男は両手を広げた。空気に触れ、何か、目に見えない塵が、肩先を通り過ぎるのを感じた。軽さにも重さがあるらしい。名前のない、じわじわした重さだ。
スマートフォンが鳴った。《Re:Memory》からの通知だった。
〈初回配達のお知らせ〉
男は玄関に向かった。扉を開けると、薄い段ボール箱が置かれていた。白いテープで封がしてある。印字は小さく、《Re:Memory》のロゴと、配達番号。箱は軽かった。中身は薄い冊子一冊と、カードが数枚。冊子の表紙は無地で、角だけ丸くなっている。タイトルは小さく〈Starter Pack〉。ページをめくると、一ページにひとつ、短い記憶が印刷されていた。紙の上に印刷された記憶は、写真のようで写真でない。文字と画像の間を埋めるように、薄い色が流れている。
男は最初のページを見た。砂場。青いバケツ。もうひとりの子の手首。首にかかる紐。自分の声ではない声で「まだだよ」と言う。ページの端に小さな注釈があった。
〈ノイズ抑制済・高FUZZ要約〉
ページを閉じる。次のページ。煙草のにおい。古い玄関。黒い靴。低い声。胃のあたりに冷たいものが落ちる感覚。注釈。
〈当時の心拍数を推定し、視聴に適した値に調整済〉
男は冊子を閉じ、カードを取り上げた。カードはシーンの要約再生に使う。十秒の断片が、濃く、簡潔に、立ち上がっては消える。一枚、また一枚。再生が終わるたびに、部屋の空気が少し動いた。空の部屋は、動いた空気を覚える。
*
翌朝、男はゴミの収集所へ行った。段ボールが積み上がっている。自分の名前のラベルが幾つもあった。軽い箱と重い箱が混じる。軽い箱は《Re:Memory》行きの控えを入れている。重い箱は本や服が詰まっている。でも、重い箱の重さは、今となっては他人事だった。重さは、手放してしまえば、誰かの問題になる。合理はこうやって、人から人へ移動する。移動の費用は、明細に記録される。
仕事の帰り、男はスーパーに寄った。買い物かごは軽くなった。調味料の棚で、彼は手を止めた。どのソースにも、理由が書いてある。糖度、酸味、産地、レビュー数。どの理由も、いまの彼には過剰だった。バターを棚に戻し、代わりに塩と胡椒を手に取った。塩は単純で、合理的だ。胡椒は、合理の顔をしているが、最後は好みだ。好みは曖昧で、曖昧は敵だが、胡椒くらいなら許される。許される曖昧もある。《空無》は言っていた。「曖昧は全部の敵ではない。たまに味方のふりをする」
帰宅すると、《空無》からフォローアップのメッセージが届いていた。淡々とした、しかし丁寧な言葉遣いの文章だ。
〈片づけ後の“真空”は、強い刺激を呼び込みやすくなります。刺激のために物を足すのではなく、刺激を“届ける”方法を選んでください。Re:Memoryは、必要な刺激のみ、要約することができます〉
男は頷き、冷蔵庫を開けた。中は空に近い。空の冷蔵庫は音がよく響く。何か入れれば、音も静かになるだろう。彼はペットボトルの水を一本入れた。音は少し静かになった。最小限は、案外、気持ちに優しい。
*
一か月が過ぎ、《Re:Memory》の第二便が届いた。箱のサイズは少し大きくなっている。中身は冊子二冊と、カードが前回より多い。封筒が入っていた。請求書だった。紙の上には、項目が整然と並ぶ。
〈基本プラン:身軽〉
〈FUZZ除去料:軽度〉
〈情動補正:中度〉
〈要約動画:十本〉
〈配送:一回〉
数字の合計は、男の想像より少し高かった。高いが、払えないほどではない。払えないほどになるのは、たいてい次の月か、その次だ。払えるうちに払ってしまうのが、身軽の利益だ。男はカード情報を更新し、支払いを済ませた。
配達の頻度は、じきに増えた。仕事で叱られた日、配達を追加した。風邪をひいた日、追加した。旧友の結婚式で写真を撮らないで帰った日、二回追加した。各回、十秒の断片が十本ずつ届く。断片は、どれも要点だけで、始まりがない。終わりもない。断片は断片同士で寄り添い、数を増やす。寄り添うと、内容が似てくる。似てくると、安心する。安心は気持ちがいいが、値段がつく。値段は請求書に現れる。
三か月目の請求書は、項目が増えた。
〈FUZZ除去料:重度〉
〈情動補正:強〉
〈ノイズ抑制:再処理〉
〈配達回数:四〉
男はしばらく黙っていた。明細の下に小さな注釈がある。
〈一定期間、思い出の実物が手元にないため、情動の持続に再処理が必要です〉
なるほど、と男は思った。紙の手紙はもうない。写真はクラウドの奥。アルバムは寄付に出した。角の丸い金具のついたアルバムを、人差し指で撫でる感触は、もう手元にはない。手触りのない思い出は、保持にコストがかかる。合理にお金がかかるのは、合理の宿命だ。彼は明細を閉じ、冊子を開いた。
ページに印刷された記憶は、少しだけ、色が鮮やかになっていた。匂いの記述が増え、音の描写が細かい。十秒の動画は、冒頭に一秒の“導入”が足された。「始まりがない」と言った読者が多かったのだろう。サービスは、ユーザーの声に耳を傾ける。耳はたいてい、要望を拾い、要望はたいてい、コストを連れてくる。
*
《空無》は、定期的に訪れた。訪問は動画にはならない。画面の外で起きることは、だいたい地味で、だいたい必要だ。彼は玄関先で小さく会釈し、室内の空気を確かめる。空気の軽さは、経験でわかるという。
「よく保てています。身軽は揺り戻しが怖いですが、今のところ、物の増加は見られません」
「増えそうになったら、どうすれば?」
「買い物カゴを写真に撮ってください。BLANKがFUZZ値の高いものを赤く表示します。赤は戻してください」
男は笑った。「信号みたいだ」
「街の信号は親切です。家の信号は、たいてい甘い」
《空無》は室内を見渡し、窓辺に近づいた。窓ガラスを指で軽く叩く。乾いた音。彼は頷く。
「音は嘘をつきません」
その日の帰り際、《空無》は足を止めた。
「ところで、《Re:Memory》の配達が増えていますね」
「わかるのですか」
「請求書の項目は見ません。ただ、空気の密度が少し違う。思い出は物理ではないが、届くと空気が重くなる」
「重さはいけませんか」
「重さは悪ではない。敵でもない。ただ、重さは重さの形で受け取ったほうが安く済むことがあります」
「たとえば?」
「歩くことです。公園に行き、木の下に座る。昔の自分が歩いた場所へ行く。匂いを吸う。タダとは言いませんが、請求書は出ません」
男は頷いた。頷いて、それを実行した。日曜日、古い通学路を歩いた。電車の窓ガラスに移る自分の顔は、当時より少し硬い。コンビニの袋は今も白だが、レシートは薄い青から白に変わっていた。自動ドアの前で立ち止まると、ドアは今も同じ速度で開いた。速度は思い出にならない。速度は残らない。残らないものは、費用が発生しない。費用は、残るものに発生する。残るものが多いと、費用も多い。
帰宅すると、玄関に小さな箱が置かれていた。注文していない。《Re:Memory》からの、無料のサンプルだった。箱の中には、薄い封筒が一通。差出人は空欄。中には一枚の紙が入っている。紙は無地で、中央に小さな点が印刷されていた。点の横に、小さな文字。
〈何も送らない訓練〉
男は笑い、紙を冷蔵庫に貼った。空の冷蔵庫は、紙一枚で音が変わる。彼はしばらく扉を開け閉めし、音の違いを確かめた。違いはある。違いはあるが、面白いのは最初の十回だけだ。その次の十回は退屈で、その次の十回はイライラする。彼は紙を剥がし、机の引き出しに入れた。引き出しはもうない。机もない。床に置くと、紙は床の色に近く、少し心細い。彼は紙を、《Re:Memory》の箱に戻した。
*
半年が過ぎた。男の部屋は、相変わらず軽い。軽さは続けるほど、技術になる。技術は習慣になり、習慣は性格になる。性格になった軽さは、まわりにも影響する。男の友人の家が散らかっていても、彼は口を出さない。ただ、持参したボトルの水を、帰りに持ち帰る。そういうことの積み重ねが、彼をさらに軽くする。
《Re:Memory》は、定期便のたびに工夫を重ねた。冊子は、ページ数が増えたり減ったりした。季節に合わせたテーマ選びが導入され、夏には水の記憶、冬には匂いの記憶が増えた。ユーザーの離脱が多い月には、割引クーポンが同封された。男は一度、クーポンを使った。クーポンは気前よく、しかし気前よく見えるように調整されていた。十秒の動画に、さらに一秒の“余韻”が足された。
ある日、男は気がついた。最近、配達のカードのうち、いくつかが見覚えのあるものになっている。小学校の砂場。大学の帰り道。初回のスターターパックに入っていたものと、ほとんど同じだ。ほとんど、と言うのは正確で、まったくではない。色が少し違う。角度が少し違う。内容は同じだが、視点が違う。視点が違うと、別の体験になる。別の体験は、新しい体験と同じくらい売り物になる。
男は《Re:Memory》のサポートに連絡した。チャットボットが応答し、人間の担当に繋がれた。担当は丁寧に答えた。
「同一の思い出から、複数の“視点”を生成する機能が追加されました。人気です。あなたが見ているのは“第三者的視点”です。主観視点に飽きた方に、効果的です」
「飽きが来るのですね」
「どんな良いものにも、来ます」
「料金は」
「視点の追加は、プランに含まれます。ただし、情動補正が増えることがあります」
男は礼を言い、通話を切った。部屋の中で、スマートフォンを置く音が響いた。響きは、すぐに消える。消える音は、請求されない。
*
《空無》から、年末の挨拶が届いた。白い背景に黒い文字。行間は広く、文字は軽い。
〈今年もお世話になりました。身軽は、未来のための貯金です。来年も、貯めましょう。もし躊躇がありましたら、それも外注できます〉
同封の小さなカードには、新サービスの案内が書かれていた。
〈躊躇の代行:決断の自動化。重要でない選択を、あなたの代わりに。日用品の選定、配達スケジュールの最適化、交際の調整〉
男はカードを見つめた。交際の調整。誰かの誘いを断ること。誰かの誘いに乗ること。飲み会のグループに入ること。入らないこと。どれも軽さに影響する。交際は物でない。しかし、時間を埋める。埋められた時間は、物より重い。重いものは敵だ。
彼はカードを握り、放した。指の跡が残らない紙だ。跡が残らないものは、だいたい高い。
年が明け、男は新しい生活を続けた。交際の調整サービスは、申し込まなかった。飲み会には、たまに行った。誘いを断るとき、彼は《空無》の言葉を引用した。
「敵は躊躇です」
相手は笑い、たいていは次の誘いをくれなかった。軽さは、だいたい一人を選ぶ。
春、男は不注意で風邪をひいた。熱は高くないが、寝込むほどではある。布団はない。布団は、あの日、捨てた。軽い寝袋でしのぐ。寝袋は軽いが、快適ではない。病気は軽さを嫌う。軽さは病気を歓迎しない。《Re:Memory》のカードを一枚、再生した。十秒のなかに、冬の朝の冷たい空気が流れ込む。体温が一度、余計に下がる。彼はカードを伏せ、目を閉じた。眠りのなかで、最適化された断片が不揃いに繋がる。繋がりかけたところで、目が覚める。覚めるたびに、空気の軽さが気になる。軽い空気は、重い体には敵だ。敵は少ないほうがいい。彼は追加配達を、二回、頼んだ。
翌日の請求書の明細に、見慣れない項目があった。
〈緊急情動補正〉
金額は、他の項目の合計よりも高い。値段は、必要なときほど、ためらわない。ためらわないほど、後悔は遅れて来る。遅れて来るものには、利息がつく。利息を請求するのは、銀行だけではない。
*
夏になった。男は海へ行った。行きの電車で、《Re:Memory》の冊子を開いた。ページは“水特集”。小学校のプール。シャワーの冷たさ。波の音。ページの余白には、小さく「現地で読むと効果が増します」と書かれている。サービスは、体験を最適化する。最適化は、望みと現実の誤差を減らす作業だ。誤差が減ると、人は満足する。満足には、次の要求がセットで付いてくる。
海は、思い出の海とほとんど同じで、ところどころ違っていた。砂は少し大きく、海水は少し温かい。空は広さが足りない。人が多い。思い出の海は、いつも人が適量だ。現実の海は、人が多い日には多すぎる。男は砂の上に座り、冊子を閉じた。冊子の上に砂が乗る。砂は軽い。砂は、いくらでも軽い。彼は潮風を吸い込み、目を閉じた。海の塩の匂いは、無料だが、無料だけに、混じり物がある。混じり物はノイズ。そのノイズは、思い出のノイズより、少しだけ、優しかった。
*
秋、男は《空無》のオフラインイベントに参加した。会場は白で統一され、椅子は軽く、照明は影を作らない。壇上の《空無》は、画面と同じ声で話した。
「身軽の維持費という言葉があります。維持費は、軽さの敵ではありません。重さの、別の顔です。物は減っても、手間はゼロにならない。ゼロに近づける技術には、技術の料金がかかる」
会場の前列で、誰かが手を挙げた。
「思い出をサブスクに移管するのは、倫理的にどうなのでしょう」
「倫理は、だいたい重い。重いものは敵——と言い切ると、反発がありますね。倫理は敵ではない。ただ、あなたが今晩眠るために、どうしても必要かどうか、という問いは別です」
笑いが起きた。笑いは軽い。笑いはたいてい、会場から出ると消える。消える笑いは、請求されない。男はメモを取らなかった。メモは重くなる。代わりに、会場の出口で、白いカードを受け取った。カードには、小さく記されていた。
〈何も持ち帰らない勇気〉
カードは、帰り道の途中で落とした。拾わなかった。拾えば重くなる。
*
冬が来た。《Re:Memory》から、厚みのある箱が届いた。封を開けると、冊子は入っていない。カードが何十枚も束で入っていた。束の帯に、こう印字されている。
〈ベーシック記憶・年間パック〉
同封の説明書には、こう書かれていた。
〈一年分の“標準的な懐かしさ”をあらかじめご用意しました。忙しい方に。迷わず、選ばず、届きます〉
男は一枚、カードを取り出した。再生すると、誰のものでもあるような記憶が流れた。夏祭りの屋台。綿菓子。紙の輪の感触。誰かの影。十秒。次のカード。駅のホーム。白い線。風。十秒。次のカード。教室。黒板。チョークの粉。十秒。どれも、彼のものかもしれないし、そうでないかもしれない。曖昧な効用は、充分に高かった。曖昧は、金になる。
請求書は、年払いの割引が効いて、月当たりに直すと、やや安かった。やや安いものは、やめにくい。やめにくいものは、続く。続くものは、やがて背景になり、背景には気づかなくなる。気づかないものは、だいたい高い。
*
年が明けてすぐ、男は引っ越した。理由は簡単で、家賃が上がったからだ。家賃の更新書類に、細い文字で新しい額が書かれていた。額は小さくない。小さくないが、払えないほどでもない。払えないほどになるのは、たいてい次の次の年だ。彼は荷造りをした。荷物は少ない。段ボールは五箱。うち三箱は《Re:Memory》の箱だ。箱の中身は軽い。軽いが、運ぶには数が必要だ。彼はしばらく箱を見つめ、思った。思い出は、軽いときほど、箱を増やす。
新しい部屋は、前の部屋より少し狭い。狭い部屋は、軽さを濃くする。濃くなった軽さは、強くなる。強くなった軽さは、たまに痛い。痛みは敵だが、存在の証拠でもある。《空無》は言っていないが、男は知っていた。軽さを選ぶと、痛みの種類が変わる。
初日、彼は床に座り、スマートフォンを取り出した。通知が来ていた。《Re:Memory》からだ。
〈新プランのご案内:思い出の“所有”から“アクセス”へ。月額をさらに抑え、必要なときだけストリーミング〉
彼は詳細を読んだ。冊子は廃止され、カードはアプリに統合される。配達はなくなる。玄関に箱は来ない。思い出は、玄関を使わずにやって来る。箱が減る。箱が減ると、軽い。軽いものは、だいたい高い。だが、最初の半年は割引がある。割引は、やめると消える。続けると戻る。戻る割引は、割引と呼ばれるが、元の値段だ。
彼はその夜、契約を切り替えた。翌朝、玄関は空のままだった。空の玄関は、気配が薄い。薄い気配は、たいてい静かだ。静けさは、たいてい重い。彼はアプリを開き、十秒の断片を再生した。画面の中で、砂場の砂が舞う。画面の外で、部屋の空気が動かない。動かない空気は、重い。重さは、敵ではない。敵でない重さは、味方でもない。
*
春、男は《空無》のチャンネルを開いた。新しい動画が上がっている。タイトルは〈最後に残るもの〉。《空無》は白い部屋に立ち、両手を広げた。
「片づけを続けると、最後に残るものがあります。所有でも、アクセスでもない。契約です。あなたは、軽さと契約している。契約をやめれば、重さが戻ってくる。戻ってきた重さは、以前の重さではありません。以前は、あなたの重さでした。戻ってくるのは、他人の重さです」
男は動画を止めた。契約は、たいてい目に見えない。目に見えないものは、自由とよく似る。似ているものは、間違えやすい。間違えは、費用になる。費用は、請求書に現れる。請求書は、今年も、月に一度、彼のメールに届く。紙の請求書はもう来ない。紙が減れば、部屋は軽い。メールが増えれば、目は重い。
*
夏の終わり、休日の昼間、チャイムが鳴った。玄関に出ると、無地の段ボール箱が置かれていた。《Re:Memory》のロゴはない。差出人の欄には、小さく〈空無〉とある。箱は軽い。開けると、中には白い冊子が一冊。表紙には、何も書かれていない。ページは白紙だ。巻末に、小さなカード。QRコード。読み込むと、《空無》からの短いメッセージが流れた。
「ときどき、何も届かないことがあります。サービスの不備ではありません。あなたのためです。何も届かない日は、何も持ち出さずに、近所を歩いてください。何も届かないことを、思い出にしてください」
男は、冊子を持って外に出た。白紙の冊子は、風に揺れる。そのまま、川沿いの道を歩いた。川は浅く、魚の影が見える。橋の下で、小学生が棒を振り回している。誰かが笑い、誰かが怒鳴った。怒鳴り声は、風にすぐ溶けた。男は冊子を開き、白紙のページを見た。白紙は軽い。軽いが、風に弱い。彼は冊子を閉じ、帰った。玄関で、冊子を箱に戻した。箱は軽いままだった。
*
秋、彼は考えた。思い出のサブスクは、便利だ。便利は、たいてい、必要になる。必要は、たいてい、当然になる。当然になると、選べなくなる。選べないものは、だいたい高い。高いものは、たいてい、やめにくい。やめにくいものは、続く。続くものは、やがて背景になる。背景は、だいたい、忘れられる。忘れたものに、料金を払うのは、変だろうか。変かもしれない。だが、変なことは大体、どこかで起こっている。起こっているから、気づかない。気づかないから、請求書に気づく。請求書に気づくから、思い出す。思い出すから、また支払う。
彼はアプリを開いた。契約のページをスクロールする。プラン変更、支払い方法、利用履歴。履歴は長く、スクロールは早い。早いスクロールは、何かを見逃すためにある。見逃しは、サービスの味方で、ユーザーの敵だ。敵は少ないほどいいが、敵はゼロにはならない。《空無》は言った。「敵は、だいたい昨日のあなた」
彼は、いったんログアウトした。ログアウトのリンクは、小さい。小さいリンクは、たいてい、ページの下にある。スクロールして、見つける。クリックする。画面が白くなる。白い画面は、何かを思い出させる。白紙の冊子。白い部屋。白い皿。白いレシート。彼は目を閉じた。目の裏に、砂場が浮かぶ。十秒の砂場ではない。風が長い。肌に砂が入る感触が、長い。長さは無料だが、疲れる。疲れるのは、無料ではない。体力の請求書は、身体に来る。身体は、支払いを断らない。
ログインし直すと、メールが来ていた。《Re:Memory》から。
〈おやすみモードのご提案〉
おやすみモード。一時停止。配達は止まり、料金は少し下がる。ログインは必要。履歴は保存。再開はいつでも。男はおやすみモードを選んだ。次の月、玄関に箱は来なかった。通知も、ほとんど来ない。アプリを開かなければ、何も起こらない。何も起こらない日が、二日続き、五日続き、一週間続いた。日数が増えると、不安が薄くなる。不安は、たいてい最初に来て、最後に去る。去ると、寂しさが来る。寂しさは、不安より軽い。軽いが、長い。長いものは、たいてい、高い。彼はしばらく、寂しさの請求書を手元で処理した。処理は遅れがちで、利息がつく。利息がつくと、彼はアプリを開いた。
〈再開しますか〉
指は迷わない。迷いの代行は、申し込まなかった。迷わない指は、たいてい、いつもの場所に降りる。再開。画面に、刹那の虹色の輪。輪が消える。通知が来る。
〈次回配送:今月末〉
男はスマートフォンを伏せ、窓の外を見た。夕焼けは、安い。窓ガラスは、更新の必要がある。更新は、年に一度。年に一度の請求書は、月に一度の請求書より、健全に見える。見えるだけだ。
*
秋の終わり、男は《空無》を招いた。玄関でスリッパを出すと、《空無》は首を振った。
「不要です」
彼は部屋に入り、周囲を見渡した。空気を吸い、吐いた。
「いい空気です。少し、音が増えた」
「道路工事が始まりまして」
「大丈夫。生活の音は、味方です」
《空無》は椅子がないことに気づき、床に座った。床に座ると、会話は短くなる。短い会話は、軽い。彼は言った。
「Re:Memoryを、おやすみしていました」
「知っています」
「再開しました」
「知っています」
男は笑った。笑いは軽く、短い。
「思い出を捨てた、という言い方は、いまだに抵抗があります」
「捨ててはいません。移管しただけです」
「移管先が倒産したら」
「倒産しない保証はありません」
「それでいいのですか」
「それが世界です」
《空無》は、まばたきを一度だけした。まばたきは、視界のノイズだ。ノイズは、たまに安心になる。彼は続けた。
「移管の見返りに、あなたは身軽を得た。身軽は、倒産しません。ときどき、揺り戻しがありますが」
男は頷いた。「維持費がかかります」
「はい。身軽の維持費。私のチャンネルの収益の大半は、そこから来ています」
「正直ですね」
「真実は、軽いときがあります」
二人はしばらく黙った。沈黙は、会話の最小単位だ。最小は、だいたい高い。高いものは、値段がつけにくい。つけにくいものは、売り物になる。沈黙は、売らないほうがいい。
帰り際、《空無》は玄関で振り返った。
「もしよかったら、来月の新プランを」
男は手を上げた。「大丈夫です」
「そうですか」
《空無》は靴の向きを揃え、外へ出た。扉が閉まる。音は軽い。
*
冬。雪は降らない。ニュースは降る。画面の中で、誰かが何かを解説している。解説は重いが、画面が軽いので、軽く見える。男は音を消し、アプリを開いた。次の配送の内容を確認する。季節のおすすめ。年末の特集。過去の冬の断片。彼は「おまかせ」にチェックを入れた。おまかせは、選ぶ手間を減らす。手間が減ると、支払いが増える。支払いが増えると、暮らしは軽い。暮らしが軽いと、心は——
チャイムが鳴った。玄関には、白い箱。手に取ると、少し重い。重さは嫌な予感ではなく、単に中身が詰まっているからだ。箱を開ける。冊子が戻っていた。ページは分厚く、印刷は濃い。巻頭に、短い挨拶。
〈今年一年の“まとめ”をお届けします〉
ページをめくると、夏祭りの屋台、駅のホーム、教室、砂場。すべて、他の誰かにも配られるような記憶。ところどころに、彼だけの断片が混じる。部屋の中、空の冷蔵庫、白紙の冊子。十秒が続く。ページは軽いが、積み重なると重い。彼は冊子を閉じた。閉じると、重さは消える。消えない。消えないのは、自分の肩だ。肩に重さが残る。重さは、敵ではない。味方でもない。
請求書が同封されていた。紙の請求書だ。紙は久しぶりだ。紙の上には、項目が整然と並ぶ。
〈年間まとめ:特別編〉
〈編集料〉
〈紙媒体:印刷〉
〈配送〉
合計。数字は、いつもの月額の、三か月分に当たる。男は、息を吸い、吐いた。深呼吸は無料だが、疲れる。疲れは、身体に請求される。身体は、支払いを断らない。
彼は筆ペンで署名した。署名は、たいてい、紙のほうが気持ちがいい。気持ちがいいものには、値段がつく。値段を払うと、気持ちは軽くなる。軽くなった気持ちは、翌月、重くなる。重くなるから、軽くしたくなる。軽くする方法は、増えていく。方法は、だいたい、売られる。
*
その夜、男は床に座り、窓の外の暗さを見た。暗さは無料で、均質だ。均質は、たいてい退屈だ。退屈は敵か。敵ではない。退屈は、世界の標準設定だ。標準設定は、課金で変更できる。変更すると、請求書が来る。請求書を見て、彼は思い出す。思い出すための、思い出。思い出は、要約され、最適化され、配送され、支払われる。支払いは、彼を正しくする。正しさは、軽い。軽さは、正しさの別名だ。最初の日に思ったことを、彼はもう一度、思った。
スマートフォンが震えた。《Re:Memory》のアプリが、次の提案をしている。
〈曖昧な効用・一括削除(年末特価)〉
説明には、こうあった。
〈曖昧に価値があるとされてきた項目を、最新の指標に基づいて整理します。残すべきものだけを残し、後悔の可能性を最小化します〉
男は画面を見つめた。最小化という言葉は、たいてい、心地よい。心地よさは、判断を鈍らせる。鈍った判断は、明日、軽くなる。軽くなるから、また鈍らせる。鈍らせるために、彼は指を伸ばした。画面のスイッチは、大きく、押しやすい場所にある。押しやすい場所は、たいてい、押される。
彼は指を止めた。止めた指は、数秒後、別の場所に降りた。
〈今月の追加:思い出のサブスク・スタンダード〉
契約は、維持された。削除は、延期された。延期は、たいてい、続く。続けることは、やめることより簡単だ。簡単なほうを選ぶのは、敵ではない。敵ではないことは、味方でもない。
翌朝、玄関に箱が届いた。箱は軽い。中には、薄い冊子と、カードが幾つか。冊子の表紙には、小さく、こう印字されていた。
〈思い出のサブスク・スタンダード 毎月お届け〉
男は冊子を手に取り、ページをめくった。十秒の断片が、整然と並び、彼の生活に付箋のように貼りつく。貼られた付箋は、目印だ。目印が増えると、地図ができる。地図ができると、歩きやすい。歩きやすい道を、彼はその日も歩いた。道の上で、彼はふと空を見た。空は軽い。軽さは、上を見る者のためにある。上を見れば、下は軽くなる。軽くなった下に、請求書が積もる。積もった紙は、玄関の隅で、控えめに立っている。白い、無口な束だ。彼は束に目をやり、靴を履いた。外へ出た。扉が閉まる。音は軽い。
その軽さの向こう側で、彼は、また来月の配達を思い出していた。




