メガオクトパス!
波音が静かに打ち寄せる漁村・入汐では、数十年に一度、海が赤く染まる奇妙な現象があった。
今年の夏も、例年通り観光客が集まり、沖合の洞窟巡りや海中ダイビングが人気を博していた。中でも、地元の大学生・柏木廉は、海洋生物学を専攻しており、ゼミの課題として「入汐湾の深海生物調査」を行うことになっていた。
「このあたり、海底に大きな亀裂があるんだ。まるで地面が割れたみたいに」
そう教えてくれたのは、漁師の佐治老人だった。彼は祖父の代から入汐に暮らしており、海の異変には誰よりも敏感だった。
「……あんまり近づかん方がいい。あそこは、“モノ”がいる」
佐治のその言葉に、廉は冗談だと笑って流した。
しかし、調査二日目の早朝——海が赤く染まった。
波打ち際の小魚が大量に打ち上げられ、空には海鳥の姿が消えた。海水はぬめりを帯び、奇妙な腐臭が立ちこめる。村人は口々に「あれが来た」「今年は駄目だ」と囁き合う。
廉はその異変を好機ととらえ、ダイビング装備を整えて単身、赤く濁る海へと潜った。
水中は、不気味な静寂に包まれていた。
深度30メートル地点。ヘッドライトの光が暗黒の水中を照らすと、突然、海底に広がる巨大な裂け目が現れた。まるで地球が叫び声をあげたかのように深く、黒い。
廉が録画用ドローンを裂け目の中に差し込もうとしたとき——何かが“動いた”。
巨大な何かが、裂け目から這い出してくる。
最初に見えたのは、うねるような触手。一本が、人間の胴体ほどもある。無数の吸盤が、まるで目のように廉を睨んでいるように思えた。
続いて、真紅の巨大な目玉。光を反射し、知性を秘めたその目は、確かに“見ていた”。
それは「メガオクトパス」。古文書にも描かれていた、深海に封じられし太古の魔獣。地震のたびに目覚め、漁村を喰らい、再び深海に沈むという“伝説”。
だが、それはただの神話ではなかった。
廉は即座に浮上しようとしたが、触手が足を絡め取る。装備を引きちぎられ、ゴーグル越しに見える世界が暗転していく。意識が遠のくその直前——かすかに、海底から響く“音”が聞こえた。
――カン、カン、カン……
まるで鐘を打つような音。
⸻
廉が目を覚ましたのは、村の診療所だった。全身に打撲、呼吸器には海水が残っていたが、命はあった。
だが、彼の証言を信じる者はいなかった。録画データは壊れ、海中ドローンは回収不能。ただ、村の者たちは口を閉ざし、こう言った。
「あれを見て、生きて帰れただけ、ありがたいことだ」