なろうテンプレのおもしろさと、それゆえのつまらなさを分析
【なろうテンプレと誇張】
なろう系作品の「ざまあ系」の多くは、所属している集団から追放された主人公のお話で、仲間たちから役立たずだという理由から追い出されます(これの変形で「婚約破棄」もありますが、そちらは割愛します)。
集団から出て行った主人公は新しい仲間と活動をはじめ、そこで主人公は実は優れた能力を持っていることが発覚する。──などというのが話の筋で、主人公を追い出した集団は徐々に苦しい立場に追いやられます(中には追放した元仲間たちに復讐したり)。
ここで元仲間が主人公に「やっぱり戻ってこい」と言ってくるのが「もう遅い」のパターン。
この決まりきった展開で作者は読者の気を引くために、主人公と対立するキャラクターの言動を誇張して書きます。
主人公を引き立たせるために、追放する側のキャラクターがありえないレベルの頭の悪さだったり、性格の悪さになりがちです。
そうした「誇張」という手法を一番取り入れているのはマンガです。
そこではリアリティ(現実感)ではなく、誇張されたキャラクターが演じるおもしろさ(ときには「不快さ」)が求められています。
主人公を追放する理由も多くは理不尽なもので、主人公は悪くない、悪いのは追放する側。といった見せ方をするものがほとんど。
これはのちに「主人公が正しかった」とするためのもので、追放の理由が理不尽であるほどカタルシスが強くなると作者が考えるか、あるいは読者が望んでいるからでしょう。
ざまあ展開のおもしろさを追求するなら、この「誇張された悪役キャラ」と、「主人公への理不尽な対応」という二枚看板は大きなものであるほどいい、ということになります。
だからこそそうした作品には極端に非理性的で、自己中心的な悪役が登場します。
しかしそれがいきすぎると、誇張されすぎた(極端化された)キャラクターは読み手に「そんやついねーよ」といった思いを抱かせます。
それは非現実的なキャラクター性であり、作者がお話の展開のために作ったキャラクターにしか見えなくなります。
物語としてはこうした内容は本来「よろしくない」ものとなります(一般の読者からなろう系が嫌われる理由の一つ)。
小説や物語はコント(異質なキャラクター同士のやりとり)とは違います。
ざまあ系などの誇張されたお話のおもしろさを否定する気はありませんが、そうした内容ばかりが小説の(物語の)楽しさではないことも理解しましょう。
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【テンプレ展開後のつまらなさの理由】
「なろう系」と揶揄されるのは、似たり寄ったりな展開もそうですが、決まりきった展開を見せたあとの、尻すぼみにつまらなくなっていく話。
テンプレートな「追放→ざまあ」の展開を見せ終えたあとの「空虚さ」。
その原因は、誇張されたキャラクター性をもつ悪役の退場にあります。
要するに唯一の見せ場を演じていた個性的な悪役が去ってしまうと、何も残らないわけです。
テンプレ展開のプロットというものは、小説を書いたことのない人でも書けるようになる、単純化された話の筋道です。
だからその筋道どおりの展開を書けば、それなりの仕上がりになるわけです。
このため、どれも同じ構造をもつ模倣作となります。
プロットにするとわかりますが、大まかな話の流れはどれも同じものになります。
しかしこの「テンプレートな展開」というのは、読み手が「こうなるだろうな」と予想したとおりの展開に物語が進み、目新しさはありません。(それゆえの安心感があるとか……)
ユニークなキャラクターばかり登場し、世界観が現代的な異世界。緊張感のない登場人物のやりとり、コメディ感満載の展開──それはマンガを見るのと同じ感覚です。
小説はマンガの代用品ではありません。
読書は思考力や想像力を伸ばすのに有効で、考えながら、想像しながら読む、頭を使う作業が「読書」だと言えます。
もっと内容の濃い、想像力を刺激する作品が増えるといいですね。
自分はなろう系作品はアニメやコミックで「そんなばかな」とか、つっこみを入れながら見るものだと思ってます(笑)
なろう運営が「マンガ原作の募集」みたいなのをはじめたのも、ネット小説の人気作と呼ばれるものの内容が「マンガと変わらない」からでしょう。それならマンガを読めばいいのです。