9話 くるくると回る赤い傘
「パパはあの日の事、覚えている?」
「あの日の事?」
「ママと激しい言い争いをしていたあの日。初めて見た。パパとママがあんなに言い争っているの。」
そう、絵梨香の言うとおりだった。細かい諍いはあっても、俺たちは大きなけんかなど殆どしたことがなかった。ましてやそれを子供の前でするなんてことは。
「絵梨香が11歳頃の話だろ。」
「そう。」
「パパはあれからその喧嘩の事を、何があったのか私に話してくれたわ。でもそれは本当の事じゃないんだって。私のことを傷つけないように嘘を言ったの。」
確かにその通りだった。
あの後、乃理子とはよく話をして、隆博のことは過去の事で、今は家族のことだけを大事に思っている。乃理子もその男とは別れてやり直してくれと頼んだ。
そして、絵梨香と2人で話をした。まだ、幼い彼女に本当の事を言わない方がいいと、まだそんな大人の事情など彼女に理解できるはずもないと。
「ママは学校のお友達に偶然会って食事しただけなんだけど、それをパパにだまっていたからパパが怒っただけだって。そして、あのパンフレットに載っていた人。パパの大学の時の後輩だって。当時、ふたりがあんまり仲が良かったんで、ママがやきもちを焼いて変なふうに誤解していて、それをあのパーティの時、偶然パパとその人が会った事で、昔のその事をママが思い出して怒ったけど、それだけのことで何でもないことなんだって。」
そうだ。そう言って絵梨香に納得させた。だけど、あの事があってから何だか溝みたいなものが出来て、俺や乃理子に以前のように話をしないようになって、あの子なりに何か感じているんだろうとは思っていたけど、本当のことを明白にする必要もないだろうし、時間が経てばまた以前のように家族3人でうまくやっていけるって思ってた。
でもそれはそうなればいいという自分の楽観的な希望だけだったんだ。
絵梨香が12歳の時あの事故があった。その事故で俺と乃理子の間には決定的な溝が出来た。
あの時の事を思い出すと、あれ以上恐ろしい思いをしたのは生まれて初めてだった。あんな思いをするくらいなら自分が死んだ方がましだ。いや、どのみちそう思っても俺は意識がなかったけどな。
あの日は学校で父親参観日があって、いつもは仕事が忙しくて帰りは夜の12時近い日ばかりだったけど、小学校最後だったから何とか無理をして有給を取った。
絵梨香の学校へ行き、授業を見て、その後父兄と先生とのオリエンテーションを終え、学校を後にした。ひさしぶりに娘とふたりで並んで歩けることに嬉しくなって、いろいろと絵梨香に話かけるんだが、その頃の彼女はまだ心を閉ざしたままで、表面上はうんとか、そうとか話を合わせてくれるのだが、自分からは何も話してくれない。それがもどかしくて、どうしたら前みたいに〝パパ。パパ。〟って言ってくれるのかそればかり考えていた。
「絵梨香。駅前のデージーコーナでパフェを食べていこうか。」
甘いものが好きな娘を駅前のケーキーパーラーに誘う。
「いい。」
「じゃ、バーニーズカフェはどうだ?」
「いらない。」
そっけない返事が返ってくるばかりだ。
駅前に向かって東に長く伸びる歩道を歩いていると、雨がポツリポツリ降り出した。絵梨香に傘をさしかけようとすると、彼女は自分が持っていた傘をさし、俺の傘を手で押し返した。ため息をついた俺の目に、駅前のロータリーが見えてきた。雨が勢いを増し足元を濡らす。
「じゃ、いろんな種類のケーキーを買って、家に帰ってママと一緒に食べようか。」
そう笑いかけると、
「いらないって言ってるでしょ!」
突然大きな声をあげ、怒りを爆発させた彼女は、俺が止めるのも聞かずに駅前のロータリーに向かって道路を渡ろうと走り出した。
「絵梨香!」
俺の目に横断歩道の信号が赤く光るのが映った。反射的に娘の後を追いかける。
その時、あのトラックが、横断歩道に差し掛かるのが見えた。まるでスローモーションを見ているようだった。雨に濡れて銀色に光るバンパーがゆっくり、まるで娘の赤い傘に吸い込まれるようにその切っ先を…。
あの時のあの恐ろしい光景。一生忘れる事なんて出来ない。バンパーの銀色に光る金属部分が大きく視界に飛び込んでくるのと同時に、自分は娘の身体を思い切り突き飛ばしていた。覚えている。手に当たった絵梨香の学生かばんのあの布の感触を。
が、その後のことを覚えていない。絵梨香の赤い傘が雨に打たれて、くるくる道路の上を転がるのが見えた。それだけは覚えている。
(絵梨香は…?)
後頭部に鈍い痛みを感じた。目の前が真っ白になる。
その次に意識の中にあったのは、ベッドの白いシーツの色と、心電図なのか、何かの医療器械の断続的に聞こえる機械音だった。