15話 窓の外に降る雪は
もうすでに、真っ暗な闇に包まれた窓際に寄り、カーテンを閉めようとしてはっと目を凝らした。
小さな、小さな白い綿がゆっくりと、まるで生き物の鼓動のように、濃紺の空を舞っていた。
(雪だ。)
初雪だった。東京に雪が降るなんて珍しい。そう思って、カーテンも閉めずじっと白い綿が舞いおりる様を見つめていると、電話が鳴った。
「雪だよ。」
「何だよ。藪から棒に。」
まるで同じ部屋で隣にでもいるかのような距離感。
「こっちは結構降っているよ。多分東京でも降っているだろうと思って。」
子供のようにうきうきとした口調で隆博は話し続ける。
「雪ね。降っているよ。東京では珍しいな。」
「で、それで電話したの?」
彼が返事をしない。
「何?」
畳みかけるように、そう聞くと、
「一緒に見ようと思ってさ。」
照れるようなことをさらっと言う。
「は。」
窓際に立って雪を眺めながら電話を続ける。絵梨香から手紙が来た事を話し、帰国の日時を告げる。
「おまえも迎えに来いって。」
「うん。」
「あのさ、悟。」
「ああ。」
彼はこう言った。
〝もう、あの時のような思いで雪を眺めることなんてないんだよね。〟
その言葉の意味を俺も瞬次に理解した。
そう、わかっている。
あの時も同じように雪が降っていた。舞い落ちる白い結晶が視界をにじませた。
東京へ行く日が迫っていた。
同級のやつらと最後に飲みに出かける日、ふいに学内で隆博に会った。
大学の敷地内の奥まった場所に池があって、そこに続く道を大きなポプラの並木が彩っていた。
雪に埋もれた並木道。真っ白に雪化粧した木々の間を、ふたりで歩いた。遠い昔だ。
〝悟に対する感情で迷っている。上手く言えないからこれ以上、聞かないでくれ。〟
あいつはそう言って、凍った池の表面に視線を落とした。
たまらなくなって、旅に出よう、出ないか?って聞いた。胸が押しつぶされるようだった。
あの時の、あの悲しい気持ちがよみがえってきた。
真っ白い雪の山を、ふたりでテントを担いで歩いた。隆司叔父の別荘を借りて、何日も雪の山の中を歩いて過ごした。ぎりぎりまで現実逃避をしたかった。
そして、あの夜。最後の夜。別荘の窓から外を伺うと、辺り一面すべてのものが死に絶えてしまったかのように、どこまでも深く、暗い、漆黒の闇の中に寂しい気持ちに追い討ちをかけるかのように、白い雪がぽろぽろと降り出した。
その雪をじっとふたりして眺めた。お互い言葉もないままに。
こうしている時間はあとほんのわずかで、すぐ先に、別々の道がどこまでも長く続いていた。その先に交わる道などないのだと、お互いわかっていたから。諦めていて何も感じないのだと思っていたのに、胸がざわめいて、ここで何か言ってしまったら、一言でも発してしまったら自分は崩れてしまう。そう思って、何も思わぬよう、何も感じぬよう、窓の外の雪だけをじっと食い入るように眺めていた。あいつも多分あの時、同じような思いであの雪を見ていたんだろう。
受話器の向こうで黙り込んだ俺の心中を察して、隆博は、
「もう、悲しい思いなんてしなくていいんだ。」
そう言った。
そう、もうあんな思いでこの雪を見ることなんてないんだ。胸がいっぱいになった。
晩秋のあの夕暮れ。集落の外れまで良二さんと一緒にピックアップを運転して、東京へ帰る俺を見送ってくれた。細い辻で車を停め、2人に頭を下げると、良二さんは何を思ったか、ふいと踵を返し、先にピックアップの助手席に乗り込んだ。
ひとりになった隆博に、もう一度聞いた。
〝住めるのか。〟
本当に東京へ来るのかという意味で、短く問うと、曖昧にあいつは笑い、
〝悟が思うようになるよ。〟
と言った。
あの時のあいつのしっかりとした落ち着きのある表情を見て、長年、綱渡りをしているかのような心の揺れがぴたりと止まった。
〝大丈夫。〟帰りの車の中で何度も自分にそう言いつづけた。
〝もう、大丈夫なんだ。〟
あれから隆博に会っていない。
最後に別れた時のあいつの表情を思い出して、急に会いたいという思いが頭をもたげた。
いつこちらへ来るのだと、問おうと口を開きかけると、彼は〝言うな。〟と制して、
「悟、そう言えば荷物送ったから。明日届くと思うから、適当にばらしといて。」
「はっ?」
一瞬、言われた事の意味がわからなくてうろたえた俺を無視して、一方的に電話が切れてしまった。
(あれで全部じゃないけどね。ま、当分必要なものだけね。)
隆博の声が頭の中でリフレインする。
(明日って言われても、俺、仕事なんだけどな。)
困ったなあ、留守だとまずいよな、誰か頼まないと、と思案しながらはっと気づいて、おかしくて笑いがこみ上げてきた。
東京に来ること、一緒に住むこと、決心したんだ。だけど急にまくし立てて、一方的に電話を切ってしまったのは、照れているからなんだということに気づいた。気づいたらおかしくてたまらなかった。いつもクールで冷静で、カーッと熱くなる俺のことを、時折バカにしたような目で見るのに、あいつでも動揺するんだって思ったらおかしくなった。
だけど次の瞬間、小躍りしたくなるほどの嬉しさが込み上げてきた。年を経ても、同じ景色を2人で見ることが出来るのだという喜びに、胸がいっぱいになった。
(そうか、もうあんな思いで雪を見ることはないんだ。)
窓の外を見ると、まだ白い雪の結晶が、小躍りするように窓の外を舞っていた。
だけどそれはもう、冷たくて寒々しいだけの白い物体ではなかった。ふんわりと優しく肌を包む暖かな真綿を連想させた。窓に寄って、いつまでもその真綿が舞うのを眺め続けた。
半年にわたって続けてきましたが、あと2話で完結です。
どうぞ
最後までおつき合いください。