10話 ふたつのものさし
〝で?〟
細い長い緩やかな登りを上がりながら、やつが振り返る。
「ようやくいろんなことが話せた。ホント、本音で。」
「そう。」
「今までのこととか、隠していたこととか。」
乃理子にすまないと思っていたことをちゃんと話して謝った。
「あと、これからのこととか。自分はこうしたいと思っているとか、そういったこと。上手く言えないよ。いろんなこと。」
「お互いOKなの?」
「ああ。」
また振り返って笑顔を見せた。
「要に言われた。」
「何を?」
「嫁さんに謝って来いって。嫁さんに対して後ろめたいと思っていたことがあるんだろって。それを謝って、自分をさらけ出して、嫁さんとの関係をきちんとしてから、次行けって。」
「あ、それって要さん知ってるってこと?」
軽く何でもないことのように自分たちの関係を示唆する隆博が、自分よりすごく大人びて見えた。何か吹っ切れて、自分より先に大人になってしまったみたいに思えた。
口ごもると、
「誰かが背中を押してくれなきゃ動けない。なかなか。悟はいいんだよ。絵梨香ちゃんにしたって、要さんにしたって、悟のこと、ちゃんとわかって背中を押してくれる人がいるんだから。」
「ああ。」
確かに。自分の事になるとてんで駄目だ。全くどうしていいかわからないし、自分がどういう人間なのか、いざ、自分と向き合おうとしても、何をどうしていいのかわからない。
絵梨香がアメリカに行って、隆博が俺の前から姿を消して、ひとりになって、これからどうしたいのか、どうしていったらいいのか、考えれば考えるほど、戸惑う自分が右往左往するばかりだ。
自分の事を考えるより、人のことにかまけていれば、本当はその方が楽なんだって思っていたのかもしれない。
でも、ひとりになってようやく自分が望んでいることや、先のことなんかを考えられる余裕が出来たのかもしれない。良二さんに言われた。自分に向き合い、自分と折り合いをつける。それからだって。俺はそういうプロセスを踏んで来れたのだろうか?踏んで来れたと自分で思ったから、ここへ来たんだろうか?
言いかけてはつまり、言いかけては言葉を変え、何とかあいつに伝わっただろうか?
そう思いながら後ろを歩いていると、
「わかってるよ。」
そう言われた。
感情をうまく言葉に出来ない。もどかしいと思うが、それが自分だから仕方ない。だけど、自分がそういう人間なのだとあいつはわかってくれている。
「お前みたいにうまく言葉を操れない。もどかしいよ。」
そう呟くと、
急に立ち止まり振り返ったあいつが、おかしそうに口の端に笑みを浮かべて、
「好きなんだ。」
何が?
びっくりしてこちらも立ち止まると、
「悟のそういう顔。」
えっ。
どんな?
息が上がってるね。そこで休もう。
以前なら、体力は絶対俺の方が上だった。なのに、負けている。やつは涼しそうな顔をして、そこの岩があるところで一休みしようと言った。山の入り口に位置すると思っていた例の温泉が、こんなに山の上の方の奥まった所にあるなんて、思い違いをしていた。そのくらい、急登が続いていて、息が乱れた。
山道をすこし反れた位置に、大きな人が2人ほど座れる岩が平ぺったく座していて、そこに座って一息ついた。
〝で、どんな顔?〟
さっきの話の続きをしようと、汗をタオルで拭きながら問いかけると、
〝いやに素直そうな泣きそうな顔。〟
同じようにタオルで汗を拭きながら、やつは笑った。
「昔からさ、時々そういう顔するんだ。自分では意識してないだろうけど、いつも自信たっぷりで強気なあんたが、時々子供みたいに自信のなさそうな泣きそうな表情をするんだ。そういうの見るの好きでさ、たぶん、僕くらいだろ。そういう顔知ってるの。」
隆博は落ち着いた大人びた表情を見せた。
「気がつかないよ。自分がそんな顔してるなんて。」
本当だ。親の前でもそんな顔なんてしたことはないだろう。
「でもね、そんだけ僕に気を許してるんだよ。たぶん、そう思って。」
「あんたは口が悪いし、態度でかいし、そんなんだけど、結構人に気を使って、人のことを第一に考えて動いていると思うよ。だけど、僕の前では素になっていい。僕だって悟の前では素になれる。だからこうやって一緒にいるんだ。」
子供みたいなのはそっちだ。昔と変わらん。いい大人になっても、まるで子供のように素直に思ったことを臆面もなく口にする。こちらが気恥ずかしくなるくらいだ。
でも、そんなことを気に留めるふうでもなく、やつは続けた。
「さっきの話の続き、僕の答えを先に言うよ。
ひとりで生きていくより、ふたりの方がいいなと思うのは、ものさしがふたつあるっていうことだ。僕はその時、その時を集中して楽しめない。どこか楽しんではいけない、何かし残しているんじゃないかって、違うことに意識がいってしまって・・・。よく裕樹からも注意された。楽しんでいないって。
だけど、悟は違う。その時、その時集中している。それが僕と違うところだ。
学生の時、急にいろんな所に連れて行かれたり、突っぴょうしもない行動につき合わされたりしたけど、あれって僕にとってはとてもいいことだった。悟が本当に子供のように楽しんでいるのを見て、「ああ、本当に楽しんでもいいんだ。」ってほっとする。「許される」っていうか、そんな感じ。安心するっていうのかな。
そうゆうことが積み重なっていくと、難しく考えなくても人生って楽しんでいいんだって。うまく言えないけど何だか心が開放されるっていうかそんな感じ。僕にとっては幸せなことだと思う。
自分のものさしで計って、えらくなった時は、相手のものさしを借りることが出来て、また違った視点でいろんなことを見たり、考えたりできる。それって人生を楽に、自分を苦しめないで生きていくのに、とても大切なことだと思う。」
黙って聞いていた。それって自分が望んでいる答えをお前はくれるということなのか?
それから隆博は何かを思い返すように、ちょっと黙り込んで、また話を続けた。
「悟は僕にとって“最後の砦”だ。」
「あんな事言っちゃったけどね。」
あの手紙のことだとすぐにわかった。
「どこかで落っこちちゃっても、受け止めてもらえるところがあるって思ってた。最終的に戻れるところがあるって、その場所をいつも確認しながら、少しでも前に行こうって、そこに辿りつけるように、自分なりに自分が抱える問題を解決しようってもがいていた。そうやってもがいている最中も、どこかであんたに繋がっていたかった。だから他のどこでもない、ここへ、良二さんのところへ来たのかもしれない。」
「で、おまえ、もう大丈夫なのか?」
要が言った。
〝隆博くんが抱えている問題は隆博くんしかどうすることもでけへん。それにおまんが首を突っ込むことではない。〟
そう。
「・・・うん。そう。大丈夫。そうだ。」
問うと、隆博は自分に言い聞かせるように何度も同じような事を呟いた。