8話 宴
「湯、どうだ?熱いか?」
黙った俺を心配して、良二さんが声をかけてくれる。
「あ、大丈夫。ちょうどいいよ。」
良二さんの所に身を寄せていることを彼女から聞いて、あいつはそんなに遠いところに離れていったんじゃないんだって、思ったけど、良二さんの言葉を聞くまで本当は自信がなかった。
恐いからだ。
期待をして得られないことが。その得られないものの大きさを見ることが。手からすり抜けていく希望を確認して、失望を味わうことが。
座敷に戻ると、かなりの人が集まっていた。
15人程度の人がいる。
台所から出てきた白い割烹着を来たおばさんが俺を見て、
「大きくなって~。」
〝なんて言ったら失礼よね。あんな大きな娘さんもいるのにね。〟
と、舌を出した。
「あ、おばさん、ひさしぶりです。」
俺は声をあげた。
文さんの近所のお友達の、路子おばさんだ。
文さんとついで子供の頃、よく面倒を見てもらった。
おばさんの家で、よくスイカをもらって食べたっけ。
子供の頃の思い出が、洪水のように溢れ出す。
懐かしい顔を見ると、あの頃に、自分もまるで小学生か中学生に戻ったような気がする。夏休みなどの長い休みなんかは隆司叔父についてよくこの家に滞在した。近所のおじさんや、おばさんはみんな顔見知りだ。それでも高校生の頃来たなりで、もう何年も何年も顔を見ていない人ばかりだった。良二さんと同様、少し腰が曲がって、年を取り、あの頃まだ若いと思っていたおばさんも、もう孫がいると話してくれた。
座敷に行くと、近所の顔見知りのおじさんやおばさん、良二さんのボランティアや農作業の仲間の人たちや、子供の頃よく遊んだ近所の同級生など、懐かしい顔た集まっていた。あちこちで、いろんな人と思い出話をしたり、お互いの近況などを話していると、路子おばさんや美香が料理を運んでくれた。寿司や酒などの出前を良二さんは取ったらしく、近所の商店のおじさんなども顔を出した。
酒を注いで回ったり、注がれたりしているうちに結構いい感じに酔っ払ってきた。
気分も良くなってきたところで、あいつの方に目をやると、まるで何年も前からここに住んでいるが如く、いろんな人と顔見知りみたいだ。
「あいつ、かなり馴染んでいるな。」
美香に声をかけると、
「ああ、隣で飲んでいる人、農協の辰夫さんでしょう。隆博くん意外と農作業にはまったみたいで、辰夫さんにいろいろ教えてもらってるみたいなの。結構仲がいいのよ。」
「そうなんだ。」
辰夫さんは隣の部落に住む俺たちより10歳程年長者で農協に勤めている。なにやら熱心に、冬野菜はこれを植えるといいとか、今度出た肥料でいいのがあるんだとか、畑のことで話し合ってるみたいだ。
あいつ、ここに腰を落ち着けて、農業に転進する気じゃないのか。
何だか心配になってきた。
「あはは、悟。お前さん心配しとるじゃろ。」
やはり、心を見透かすように良二さんが隣に来て、コップにビールを注いだ。
「良二さん。」
思い切って良二さんに打ち明けた。
東京へ来て一緒に住まないかと、持ちかけたことを。
〝そうだな。離れない方がいい。〟
そう言って、ゆっくり文さんのことを思い出すように、
「わしは文との生活しか知らない。男と女で、夫婦としての組み合わせでの生活と、何か違うのか、さほど何も変わらんのか、どういったもんなのか、わしにはよくわからん。が、それでも、お互いを必要としておるもん同士が、同じ時間を過ごすことは何よりも大事なことやろうな。」
そう、彼は言った。
〝文と死に別れて、一緒におったその時間こそが、何よりも貴重で換えがたいものやったんやと、よくわかったからだ。〟
とつけ加えた。
が、それ以上良二さんは何も言わず、ちびちびと自分の杯に日本酒を注いだ。
ただ、良二さんの側にいるとわかる。俺たちを見る目も、接する態度も、その心内も、何も変わらない。空気で感じる。
ガキの頃から同じだ。親父のようなそのぬくもりも、豪快な人を包み込むような暖かさも、懐の広さも、何も変わらない。
彼の側にいるとひどく居心地がいい。
受け入れてもらえる。そのままありのままの自分を。そんな感じがする。
だから、隆博も彼のところを頼ってきたのだろう。
「でも、隆博って、本当はこういう土地での暮らしがあってるんじゃないのかな。」
「そうそう、それがお前さんの心配しとる事じゃな。」
だって、あんなに日焼けして真っ黒になって、肩の辺なんか農作業の賜物か、筋肉がついてがっしりして。もう、ペンなんか持ってやる仕事なんか忘れてしまったみたいだ。
良二さんは笑いながら、
「心配する事ないやろう。ぼちぼち何やら仕事も始めてるみたいやし。」
え?こっちの?
ペンを持って書く仕草をすると、
「そうや。」
書けるようになったんだ。
田舎にいても東京にいても仕事は出来る。パソコンと電話とFAXさえあれば。
彼のような仕事はどんな僻地にいても、インフラさえ整備されていれば出来る仕事だ。
杯でちびちびやりながら、良二さんは続けた。
「隆博くんに家族の話を聞いた。お父さんとお母さん。お兄さんに妹。真ん中の子らしいな。」
ふうん。家族の話ね。
「仲がいいみたいやな。母親のことをよう気にかけとるみたいやし、兄貴とも結構行き来しとるみたいやな。」
確かにあいつの家族は仲がいい。いつもうらやましいと思っていた。
「そんな話を聞くと、そうやなあ、こういうような土地で周りのもんが顔見知りで、親戚なんかの血統筋が多い所の方が、隆博くんには合うかもしれん。が。」
俺の肩をぽんぽんと叩いて、
「そんな顔せんでも。悟やって、ここんが自分ちみたい思って来てくれとるんやろ。それと同じや。心配せんとてええ。〝ふるさと〟やと思って、来たい時に来ればええ。自分が腰を下ろして住むとこ、生活する場はあの子やてちゃんと考えておる。」
そうかなあ。といった顔をすると、わはは、と大きな声で笑って、
「あほか。えろう気弱やし。いつもの悟と違うんなあ。」
聞いてみぃ。自分で。
そう言って彼は、お銚子を両手に下げて、お代わりをもらいに台所へ千鳥足で消えていった。