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彼の娘  作者: 大島 有
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12話 会いたい

このマンションにおとなしく住み始めたのは、親父が泣きそうな顔をして去って行った翌月。

勝手に借りて、結局俺が見つけたアパートは勝手にキャンセルされていた。

そう、乃理子と下見に行ったあの部屋だ。

今までの俺だったら、絶対親父の言う事にうんと言わなかった。何故だろう。親父の好意を受けてみようと、本当は俺のことを心配しているのか、なんて思ったのは。


歩きながら考えた。

目の先にろばた焼き屋が見えてきた。

まだ時間は早く準備中なのか。ひっそりと暖簾が風に吹かれていた。

あの太って口ひげを生やした大将。太っ腹でいつも学生が飲みに来ると何かしらおごってくれた。いつもそれに甘えてサークルの飲み会などで、あそこでくだを巻いた。

大将はどうしただろう?もう、かなりの年だろう。

あそこで、隆博をかなり飲ませた。乃理子が流産しかけて持ち直した頃だ。

それ以前にも、あそこで彼と同席した。あいつとまともに話しをしたのは確かあれが初めてだ。あの時、あいつは家族の話しをした。父親と母親。普通のサラリーマン家庭。野球の好きな兄と吹奏楽に夢中な妹。中学、高校と野球部に籍を置いていたあいつは、兄との共通の趣味は野球だったと言った。小さい頃から、いつも父親と兄貴と3人でキャッチボールをして遊んだと言った。


(おまえの家はみんな仲よさそうでいいな。)

そう言うと、

(先輩んちは?)

と聞き返した。

(だいぶ、実家にも帰ってないんでね。)

仏頂面で返すと、ニコニコ笑って、

(先輩が家族の話ししないのって、有名ですよ。)

なんて悪戯っぽくつけ加えた。

(お前んちみたいだったらいいけどね。)

すると、あいつはこう言ったんだ。

親父が死ぬとこを想像することがあるって。

びっくりして聞き返すと、小学生の頃、キャッチボールをした親父は背がうんと高くて、巨人のように思ったけど、こないだひさしぶりに実家へ帰って親父さんとキャッチボールをしたら、ひどくひどく親父さんが小さくなったような気がして、手加減してボールを弱めに投げてしまったらしい。それを親父が怒ったって。何で手加減するんだって。でも、それを何故って言えなかったって。


それを聞いて、

(親父さんいくつ?まだそんな年じゃないだろう?)

って聞くと、やつは兄貴と年がだいぶ離れているらしい。なので親父さんも同級生の父親より年が少し上なんだそうだ。

今から思うと、親しい人の死に直面しているあいつには、どこかで人は儚く、いつかは消えてなくなるものだという思いがいつも胸中にあるみたいで、たぶん、年老いた親をどこかで敏感に感じてしまったんだろうな。

そんなことを話すあいつが、どこか透明な空気を持っていて、はかなげで胸をつかれた。

あの時かなあ。本当にしっかりあいつを意識したのは。

それと同時に、あの巨人のようないかつい図体で俺を殴ったあの親父も、いつかは丸く小さく弱々しく年老いていくのだなと、実感した。あの秋の夕暮れ、泣きそうな顔をくしゃくしゃにし、車に乗り込んだ親父の顔が思い出され、部屋を借りて引越しの手配もしたから、一週間以内に移り住めといった親父に何も言い返せず頷いたのは、たぶんこの店であいつと話しをしたことが俺をそうさせたんだろうな。


会いたい。

無性にそう思った。

胸が締めつけられた。

今、ここで会わなかったら、太陽も月も消えてなくなるような気がした。

明日自分がどうなるのか、どうしているのか、自信がなくなってきた。

何も言わずに、勝手に自分だけで結果を決めつけて俺の前から去った。

怒りといらだちと、悲しい思い。

弱い自分を見せたくなかった。自分自身、弱い自分を感じることが嫌でたまらなかった。

人よりもいろんな面で秀でたかった。若くして会社でもそこそこの地位につき、部下を抱えて、でも、それが何になるんだろう。自分が求めてきたのはそんなことじゃなかった。


高い学歴、優秀な成績、仕事のキャリア、会社での高いポスト。大きな家や財産。

最初は親父を見返してやりたかった。ただそれだけで一生懸命になった。何事に対しても。小さい頃から暴力を振るわれ、母親からも納得のいくまでの愛情を受けられなかった俺は、コンプレックスにおびえ、その自分の影を飛び越えたくて、誰もいない場所で必死に自分の影を越えようと一生懸命だった。今、この年になって、親父とも何とか和解らしき形を得、そこそこのキャリアと生活には困らないだけの収入を得た。そして、別れた妻は、自分といる時よりも幸せそうに暮らしているし、娘もあの頃の、いつも自分の膝の上に乗ってきたあの幼い絵梨香ではない。自分で自分の道を見つけ歩いている。何も心配することなんてない。自分が本当に得ようとしたものは何だったんだろう。

そう思ったとき、隆博が家に泊まった朝のことを思い出した。


絵梨香が用意した歯ブラシを手にし、

「悪いんだけど、もう少しこの歯に当たる部分、小さいのない?」

なんて子供みたいに我儘を言った。自分の気に入るサイズじゃなかったみたいだ。

その歯ブラシが。歯ブラシ?

たった一泊かそこらの滞在で使う歯ブラシのことなんか、文句を言うなって俺が怒ると、だってこれじゃあ朝から調子が出ない、毎日の歯磨きは生活の大事な部分なんだって、主張した。

ばかばかしい。朝から歯ブラシのことでもめるなんて。


でも、その時ふっとひどく楽しいうきうきした気持ちになったんだ。何でもない日常の何でもないたわいもない言い争い。人様が聞いたらばからしくてまともに取り合わないようなことをふたりで、ああでもない、こうでもないって話すことが。

そう、そんなことが楽しくて、ずっと自分が欲しかったものってきっと、こういう時間なんだろうなって。

見落としていたこと、見ようとしなかったこと、通り過ぎていたこと、気づけなかったことを思った。

そう、自分が欲しいのは歯ブラシひとつでもめることの出来る相手だ。


隆博。


寂しい思いのまま、通りを過ぎ、街の中心街へやってくる。

見覚えのある店。黒いシックなコンクリートの造りが目を引く。思い重厚な木で作られたドア。それにあわせるように、窓枠を古い木であしらったおしゃれな造りの窓。店の前まで来てはっとした。

〝店主の都合により閉店いたします。〟

店のドアに張り紙がしてあった。

そうか、澤崎さん・・・。

隆博がバイトしていた店だ。足繁く通った。

あいつをからかうことが面白くて、メニューにないカクテルを好んで注文した。

鼻に皺を寄せて嫌そうな顔をして、シェーカーを振る。

それでも目は笑っている。カウンターの向こうでマスターの澤崎さんがそのやりとりを楽しそうに見ている。そんな風景。

もう、見ることはない。


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