11話 アドレス
翌日からはまた同じような日々。
だけど絵梨香がいない。
マンションの部屋が、ひとりで過ごすには広く感じてならない。
何だか気が抜けたようで、仕事にも身が入らない。
それでも、何とかその日にこなさなければならない業務を終えることに、神経を集中させる。
絵梨香に連絡を取る。
学校への手続きも順調に終わり、乃理子は昨日帰国したらしい。
お礼の電話を入れる。隆司叔父にも。
家に帰っても誰もいないし、最近は要の店へ顔を出してから帰ることが多い。要に絵梨香と共に乃理子に会ったことを話すと、とりあえず一歩前進か?と、嬉しそうに笑った。
だけど、その後のことは何も進んではいない。
隆博に連絡を取るが、携帯も家の電話にも出ない。メールを送っても同じだ。返信はない。本当にもう終わりか。ここまで来たのに。
ひとりになった俺を気遣ってか、友人や会社の同僚のジュリーらがよく家に呼んでくれる。
昨日の夜もジュリーの家に呼ばれた。彼の妻の聡子さんは聡明で話題が豊富で、ふたりと話すと気が紛れる。彼の家の食事は殆ど和食だ。聡子さんは料理が上手で、ジュリーは外人のくせに和食が大の好物で、その日もてんぷらや魚の煮付け、えびしんじょうの蒸し物や、手の込んだ一品が並ぶ。
聡子さんがふと、「絵梨香ちゃんもいなくなってしまったし、寂しいでしょう。いいかげん再婚する事を考えてみたら?」なんてくったくのない笑顔を見せる。そんな時、ひどく孤独を感じる。今までひとりでいてもそんなふうに感じたことなんてなかったのに。最近の俺は気が弱っているんだろうか。
休みの日。
掃除をしようと、リビングの棚を片付けていると、ふと落ちてきたものがあった。その紙片を手に取ると、絵梨香の字で、ある住所が書いてあった。その住所に見覚えがあった。
(なんであいつ隆博の家の住所を知っているんだ?)
怪訝に思った。
彼女が手紙を出していたのは、彼のオフィスへだった。彼のプライベートの住所は知らないはずだった。
(あいつに会ったんだろうか?)
乃理子に会ってもいいと、言ってきたあの晩。絵梨香はどこかへ行っていたみたいだった。帰りが遅かった。問い詰めてみたが、真奈美ちゃんと横浜へ遊びに行ったのだと言っていた。
(だけど、どこでこの住所を?)
不思議に思ったが、その住所の書かれた紙片を見たとたん、いてもたってもいられなかった。上着とキィを手にして家を飛び出した。
車を走らせながら思った。
(そうだ。何故早くあいつの所へ行こうとしなかったんだろう。)
何をためらう。何が足枷になっていたのだろう。
連絡が取れないなら、会いに行けばいい。直接。
何故思いつかなかったんだろう。いや、思いついてはいたが、行動に移すことをためらった。何故だろう。結果をもう一度確認することが恐いのだろうか。
要の言葉が後押しをした。
(やれるだけやったらええねん。時を待たないかんのなら待てばええ。ここまで待ったんやろうし。でも、まず行動してみななんもわからへん。)
高速を乗り継ぎ、見慣れた街のインターに降りる。
大学を卒業するまでここにいた。
懐かしい。
あれから一度もこの街に降り立ったことがなかった。
あいつと過ごした街。
彼はあの後、あの会社に入社し、作家としてデビューしてもかたくなに自分の生活を変えようとはしなかった。必要があれば上京したが、それ以外は地元の地で自分のペースで仕事をし、そこから離れようとはしなかった。
結婚し、実家から程近い場所に家を構え、そこで嫁さんと娘と何年かを過ごした。彼は娘を亡くした後、思い出を精算するためか、離婚の際、妻に家を残し、市内の中心部にあるマンションの一部屋を買った。その場所へは一度も行った事がなかった。だけど、何年かを過ごした土地。だいたいはわかっている。すぐにそのビルを見つけることが出来た。
市内の大通りをバスと、今は珍しい路面電車が走り、2車線の道路には車が行き交う。街路樹が町の風景を彩り、通りには飲食店やおしゃれなブティックなどの店が並ぶ。この街でも一番便利のいいにぎやかな場所にそのビルはあった。
25階建てのビルの18階。
エントランスに入り、その部屋の番号が彼の住居であることを確認する。インターホンを押しても反応がない。携帯を取り出して、電話をしてみる。応答はない。留守なのだろうか。何回か同じことを繰り返してみたが、あきらめて通りに出る。
ふと思い立って、市内の中心部に続く道を歩いてみる。何年ぶりだろう。あの角にあった店は?いつも友人たちと一緒に飲んだ店。今は大手のドラッグストアに変わってしまっている。いつも立ち寄った本屋。決まって土曜日の朝にコーヒーを飲んだ店。あの角には高校生の時、学校の目を盗んでアルバイトをしたパブがある。
通りをどんどん歩いていくと、大学の2年まで住んでいたアパートが見えてきた。壁が剥げ落ちて、どんどん近代的に変わっていく街並みに置いていかれるように、西日しか当たらない3階建ての木造の建物がそこにひっそりと佇んでいた。
あの頃お金がなくて、奨学金とアルバイトで食いつないでいた。なるべくなら隆司叔父に頼ることはしたくなかった。少しでも率の良いバイトを・・と思い、翻訳のアルバイトをし始めたのもあの頃だった。
2年の秋、どこでどうしたのか親父が俺の居場所を嗅ぎつけてきた。実家とは連絡を経っていた。かろうじて妹の葉月にだけは場所を教えていたこのアパートの一室までやって来て、もっとらしい所に住めとお金を置いていった。
それを、そうだ。この部屋を出たコンクリートの欄干から、親父の車めがけて投げつけたら、それを拾って悲しそうな顔で振り向いた。その時の親父の顔が忘れられない。
今から思うと、どうして俺たちは離れていたんだろう。昔の傷はもう昔の傷だ。親父が後悔をしていることを知った時、自分の中で何かが崩れた。
あの時の親父の顔。泣きそうに顔をくしゃくしゃにして、セダンに乗り込み消えていった。夕方だった。日が暮れかかっていて、親父の表情ははっきり見えなかったのに、何故か泣きそうな顔だったことをひどく覚えている。
そんなことを思い出しながら、アパートの前を通り過ぎ、もう少し歩いてみた。
その次に移り住んだアパートが見えてきた。マンションと言ってもいいくらいの立派な建物だ。それ以前まで自分が住んでいた場所のことを考えるとな。
親父が手配して借りたマンション。卒業するまでの短い間、乃理子と住んだ場所。
あの駐車場の水銀灯の下。あいつにキスをした場所。覚えている。乃理子がここに立っていてそれを見ていたことも。