6話 取り越し苦労
リビングに戻ると、
「お先に。」
隆博がワインをあけていた。
「絵梨香ちゃんが後はやるから、先にパパと飲んでてって言ってくれたから。」
そう言って俺にグラスを勧める。
キッチンを見ると、絵梨香がオーブンから何やら取り出している。
「何て言っていいのか。絵梨香がいろいろ…。」
言いよどむと、
「いい娘さんだね。明るくてしっかりしていて。僕も悟に会うのすごく緊張してたけど、おかげで…。」
「ああ、俺も、どんな顔して会っていいのかわかんなかったけど、絵梨香のおかげだな。」
「会えて嬉しいよ。」
隆博が俺の目を見てそう笑った。
ああ、まるで小学校の時、密かにいいなあと思っていた隣の席の女の子に告白された時のように心臓が波打った。初恋を経験したばかりの子供みたいだ。
「ああ。」
そう言うのが精一杯だった。照れくさくて何としていいかわからず、
「絵梨香、手伝おうか。」
席を立ってキッチンへ向かった。
「あら、もう手伝うことなんてないわよ。このローストビーフを盛りつけて終わり。」そう言って、彼女は皿に料理を盛りつけ対面キッチンのカウンターから顔を出した。
「すごいな。お前こんなもの出来たっけ?」
「ううん。これは隆博さん。でも、こっちのポテトサラダとマリネは私よ。」
「だろうな。絵梨香はまだそんなにレパートリーないもんな。」
「失礼な。いつも誰に食事作ってもらってると思ってんの?」
絵梨香が負けじと返す。最近は口が達者になって太刀打ちできない事もしばしばある。
隆博がその様子を見て、
「仲いいんだね。」
とうらやましそうな顔をする。
「喧嘩ばっかりさ。」
「でも、絵梨香ちゃんは料理の手際もいいし、何でも出来そうだ。」
「うーん。家事全部やらせて悪いと思ってるんだけど。何せ他に…。」
言いかけて、あ、絵梨香から聞いてるのかな、とあいつの顔を見ると、
「ああ、絵梨香ちゃんから大体聞いてるよ。残念だったね。」
察したようにそう返された。
乃理子の事だ。離婚して3年になる。
絵梨香が14歳のときだった。あと1年で中学校を卒業だった。
彼女が10歳から14歳までの間、俺たち家族は日本に帰ってきていた。その間に隆博と偶然再会して、それと同時に乃理子の浮気が発覚して、俺は何とか修復しようとして努力したつもりだったが、乃理子は一度は別れたようだったが、依然つき合っている男と別れようとせず、絵梨香が12歳の時あの事故があった。それが決定打になった。
彼女が中学を卒業すると同時に又海外へ赴任した。アメリカ南部ニューオリンズだ。
乃理子はそれについてくるとは言わなかった。
「まあ、馴れたよ。娘と2人暮らしってのも悪くないよ。」
「そうでしょ。パパは何にもしないんだもん。私が全部面倒みてるんだもん。快適だわよね。」
と、鼻に皺を寄せる。
「だって、俺は仕事が忙しいし、家の事なんてなかなか出来ないし。どこでもそんなもんだろ。隆博ンとこだって娘が…」
がしゃん。
かすかな音を立ててグラスが床に転がった。
隆博が倒したグラスが割れて床に散らばった。
「ごめん。手が滑った。」
「大丈夫か。絵梨香、拭く物。」
隆博の顔を覗きこむと真っ青だった。
「大丈夫か。」
もう一度聞いた。
「ああ。」
(何かあったのか。)
あいつの娘の和可ちゃんの事を話題にしようとしただけだった。
7年前、受賞パーティのホテルで会った時、嬉しそうに娘の写真を見せてくれたあいつの笑顔を思い出した。
大学を卒業した後、隆博は、すぐに友人の紹介で知り合った女の子とつきあい、結婚したと言った。
あっという間に子供に恵まれ、女の子が産まれた。それが彼が溺愛する娘、和可だ。
あの写真を見せてもらった時、8歳だと言っていた。細い顎にくりっとした目が可愛らしい少女だった。よく覚えている。
「何?パパ。隆博さんとこって子供さんいないんでしょ。」
床にこぼれたワインを拭きながら絵梨香が無邪気そうに言った。
「ああ。」
戸惑いながらも話を会わせようとそう答えた。
(何かあったのか。絵梨香には子供がいないって言っているみたいだが。)
隆博の目を見ると、そのことには触れて欲しくないと目で訴えていた。
(どうしたんだ?)
口には出せない言葉を目で伝えた。それをあいつは見ようとしない。
割れたガラスの破片を拾おうと伸ばした手が少し震えているように見えた。