4話 ええやん、別に
ふうん、そう鼻を鳴らして、カウンター越しに俺の肩をぐっと掴んだかと思うと、顔を間近まで寄せ、じゃあ、ええ子がおるで会ってみいへんか?とつきつけた。
要の顔を手で押し返し、
いいよ、別に。
眉間に皺を寄せると、
何や、何かつきおうてる子がいてんのかあ。とにじり寄る。
「要、気持ちは嬉しいけど、今そんな気になれないんだ。」
ごまかそうとすると、要は、
「おるねんやろ。」
「おらんよ。」
子供のように何回かそんな問答を繰り返しているうちに、要は諦めたように、グラスを磨きにかかる。
それをぼんやり眺めながら、店内に流れるジャズの音色に耳を傾ける。
今日はほんとに客足がぱったりだな。アルバイトの男の子が時折、店内に数人いる客のオーダーを聞いたり、灰皿を変えたりしているくらいで、時間がのんびり店内を流れている。
少し経って、要が、
「俺、こないだおまんら来た時、気になったことあんねん。」
「何かあった?」
聞くと、絵梨香がステージに上がっている間に、俺と隆博が隅の方で深刻そうに話をしていたから、気になってと言った。
「ああ、あいつもいろんなことあってな。家族のこととか聞いてたから。」
あの時の氷のような表情。小刻みに震える手で持つグラス。思い出して胸の内が又曇った。
それで、何か言った要の言葉を聞き逃した。
「ごめん。何?」
「おまんさあ、誰かをほんまに好きで、一緒におりたいって思うたことあるんか?」
ギクッとした。
だって、乃理子が・・・
言いかけると、違うやろと畳み掛けられた。これだから関西の人間は。
「昔からもてるやつやったわ。おまはんは。ひとりでもええから分けて欲しいねんって、いつも思うとったわ。ほやけど、ほんまに好いた子っておまん、おったんか?」
そう聞かれた。
また、隆博のことを考えた。
振りきるように、
「お代わり。もうちょっとジン多めにしてくれ。」
グラスを差し出す。
「言ってみい。」
背中をこちらへ向けたままで、要がつぶやいた。
(言ってみい。)
その背中はすべてを許容するように思えた。
ふと。
ばかな考えが浮かんだ。
要に話してみようか。
いや。ばかな。
彼がグラスをこちらへ差し出す。
それを受け取る。
要がにっと笑った。人懐こい笑顔。昔から見慣れた同じ表情。
「悟。」
「うん?」
「違ごうてたらごめんな。」
にっと笑ったあのファニーフェースをちらりとも崩さずに要が言った。
「おまん、好きなやつおんねんやろ。」
やつ?
「ごめん。かまかけて。言えよ。」
「何を?」
やつの笑顔につられて笑う。
「堀江くんやないんか?」
グラスが手を離れた。
かしゃーんと音がして、グラスが床に飛び散った。
要は真剣な表情に変わっていた。
は、膝が震えた。
アルバイトの男の子が、タオルを持って飛んできた。
俺のスーツに飛んだしぶきを拭いてくれ、箒と塵取りですばやく床を掃除してくれた。
要が替わりのグラスを俺の手に持たせてくれた。
俺の手は震えていたかもしれん。
要はにこにこ笑って、
「昔からおまんは何でも自分の中へ抱え込んでまって、強がって、弱みをみせまいとして。えらいやろ。ほんとは。」
そう言った。
それを聞いて、目尻に涙が浮かんだ。こんなことで。
「ええやん、別に。」
要がカウンターを出て、俺の隣に腰掛けた。
「こないだ、おまんら来た時、ふたりを見とって、何やろ・・・。何か思うとこがあってなあ。もし、それでおまんがえらい思いをしとるんやったら・・と思って。」
あはは、相変わらずおせっかいですまんなあ、とおどけてみせた。
それから、タバコに火をつけてひとくち吸うと、そのタバコを俺にくわえさせた。子供をあやすみたいに、優しく、ゆっくりとした手つきで。
又、目尻に涙がにじむのを感じた。
「ええやん、別に。」
又、要が繰り返した。
「だって、変だろ。」
(何がや?)
おどけたように目を見開く。
「だって・・」
ようは俺たちふたりのことだ。
「変な固定観念に縛られてんな。おまん。」
(ヘンナコテイカンネン・・・)
「まあ、周りより本人の方が気にするらしいみたいやけんどな。」
要は・・
言いかけると、
「おまんが幸せになれるんやったら、相手は宇宙人でも原始人でもなんでもええねん。」
思わず吹きだした。良二さんと同じような事をいう。
「ようやっと、笑ったな。」
「だけど、自分で自分を肯定しな、自分を認めてやらな、何も始まらん。おまん、自分で自分のこと否定しとる部分があるんちゃう。」
「そうだろうな。」
俺は要に素直に話した。これまでのこと。大学生の時からの事。あいつと知り合った頃の事から現在に至るまでのこと。それについての絵梨香の思いや、母親との関係。乃理子に対する思いも。
「いろんな人の状況や、思いや考えや、そういうことをあれこれ考えとると、自分が何を求めとるんか、ようわからんくなる時がある。何が大事なんか、何を欲しいと思っとるんか、ようわからん時が。」
タバコの煙を目で追いながらぼんやり独り言のように要が呟く。