3話 絵梨香の鼓動
「絵梨香。これ。」
定期入れに大事にしまってある物。いつも持ち歩いている。
「・・何これ?」
その端が擦り切れた紙片を彼女が広げる。
「これ、ひょっとして私?」
「そうだ。」
絵梨香は小さな紙切れを穴が開くほど見つめていた。
それは、17年前、あの雪山へ行く前に乃理子と病院へ行って、撮って貰った胎児の超音波写真。その次の月には予定日が迫っていた。
もう、目も鼻もしっかり映っていて、指の一本、一本まではっきり見える。
「どうしてパパ?これ。」
「絵梨香がいらない子なわけ、ないだろ。」
その写真をずっと持っていた。あの時の気持ちを忘れないように。
絵梨香に話した。正直に。
あの時まで、俺は迷っていた。子供と嫁さんに縛られて、人生が変わってしまうような気がしていた。じたばたしていた。
今から思うと、なんて無責任なと自分で自分のことを呆れてしまうけれど、若かったんだな。夢みたいな事ばかり考えていた。責任から逃れようとしていた。あの逃避行のような旅行。
行く3日前に、珍しく乃理子が検診の為、病院に行くからついて来て、と言った。いつも母親がついて行っていた。頼み事をしたり、甘えたりしないやつだった。どこかしら俺に諦めていたのかもしれない。でも、あの時の乃理子の何かにすがるような表情。病院へついてったその時に、あの映像を見せられたんだ。胎児の心音も聞いた。
そう絵梨香の鼓動。
あの時の衝撃は今でも忘れられない。涙が出た。この子、生きているんだ。そう、自分の子なんだって実感した。バカな考えは捨てようと思った。この子の為にこれからは生きていこうって、そう思った。その写真を先生からもらい、大事に胸ポケットにしまった。
その次の日、彼を迎えに行った。その時あいつの顔を見て、泣きそうになった。それを慌てて隠した。最後だって。もう、決めていた。気持ちに嘘はないけど、それでも、自分はそこでもう自分の人生を決めていた。
折りたたんだ線から端々が擦り切れて今にも破れそうになっているその写真。
絵梨香はその写真を手に持って、いつまでも凝視していた。
薄暗い入り組んだ路地に連なるほのかな明かり。
乃木坂に来ていた。
要から電話がある。
「おまん、最近また全然見ぃへんけど何しとるんや。一回、店に顔出せや。」
気乗りしない。要の店へ出向いて、あいつと話をしたり、飲んだりする気になれない。
が、そんな俺の様子を全く無視して、明日来いや、絶対やで。そう言って一方的に電話が切れた。
そう言われて素直に乃木坂くんだりまでやってくる俺も俺だな、と思う。
店の重厚なドアノブを押す。飲み屋の店を選ぶ時は、ドアに金をかけている店を選べ。絶対間違いない、なんて何かのコラムに書いてあった。
なるほど。一番金かけてるだろうな。
押すのに結構な力が要る鉄板で出来た重厚な造りのドアを押すと、店の中にはお客がちらほらいるだけで、案外空いていた。
「儲かってないから、俺呼んだわけ?」
カウンターに座ると、要が相変わらずのあのたわしのような頭をかきながら、
「何言ってけつかんのや。身内から儲けようなんて思うておらへんわ。」
と呆れたような顔をしておしぼりを出してくれた。
「それに心配してくれへんでも、儲かってまっせ。今日は週の真ん中で空いてんから、おまんとゆっくりしゃべれるかしらん思うて呼んだだけや。」
「ロックでええやろ。」
客の注文も聞かず、かってにオールドパーのボトルを開ける。
グラスを置くと、
「何か、しけた顔してんな。」
と聞いてきた。そんな顔してるか?返すと、意味ありげにふうんと首を振る。
あれこれとたわいもない話をしていると、要が急に、
「おまんさあ、再婚する気あれへんの?」
と聞いてきた。
何で、今このタイミングでそんな話を?
「だってさあ、絵梨香ちゃん今月末には行ってまうんやろ。おまん又ひとりやん。俺、心配やねん。ええ子おんねんで。」
とまくし立てる。
「だからどうしてそんな話、急に。」
おっせかいなやつめ。世話好きなところのあるやつで、大学の時も、取り持ち役で引き合わせたカップルも結構多い。が、自分の事は結構後回しで、友人間の間でも結婚したのは一番要が遅かった。
「だって、こないだ来た時、絵梨香ちゃん、心配しとったもん。」
〝パパ、ひとりになっちゃうし、大丈夫かなあ。〟って。
「絵梨香が再婚しろって?」
「いや、そんなことは言ってへんけど。」
だろうな。隆博のことが頭に浮かんだ。
が・・
ため息をついた。考えても仕方ないけど。
空になったグラスを引いて、新しくお変わりを作ってくれた。
ウィスキーは嫌だ。ジンをくれ。そう言うと、やっぱり?という顔をして、俺にはジンをロックで、レモンスライスを入れてくれ、自分にはオールドパーをグラスに並々と注いで、ミネラルウォーターで割る。
オールドパーって親父っぽいよ、と笑うと、そうかあ、スタンダードっていつの時代も一番やで、と返す。
そんなやり取りをして笑っていても、どこか心の中は沈んだままだ。
絵梨香もあの時、あれ以上何も言わず、次の日は遊びに出かけて行ってしまった。母親と会うことにはまだいいとも悪いとも、返事をしない。乃理子に電話をしないといけないのだが、気が重い。隆博にも連絡は取れず、相変わらず、何も事が進んでいかない。停滞したままだ。
そんな俺の気持ちを見透かすように、要は、
「何かうまいこといってへんのやろ。」
と核心を突いた。
「そんなことないよ。相変わらず仕事が忙しくて、疲れてんだ。」
そうごまかす。
「それだけか?」
「そうだ。それだけだ。」