2話 しまってあるもの
彼女はやはりあの時の事を深く胸の中に残したままだった。
あの事は彼女にとってやはりショックだったらしい。
もちろん、自分にとってもだけど。
乃理子に寂しい思いをさせたのは自分のせいだと思っている。だから、ああなったのだと思っている。だけど、それでも、この親子3人の生活を続けていきたいと思い、やり直そうとした。彼女だって本当はそう思っていたのかもしれない。でも、結果的には離れてしまったものはもう2度と同じ位置には戻らなかった。
「・・あれは、パパが悪いんだ。」
「そうやって、自分のせいにしないで。事実、ママが浮気して、パパじゃない人と一緒になったのは事実でしょ。」
それでもママにとっては、絵梨香はたったひとりの子供だし、自分も、絵梨香とママが和解して欲しいと思っていることを告げると、
何回も同じ事を聞いた。だけど、嫌なものは嫌なんだから、無理強いしないで。
と彼女は怒ったように横を向いた。
その時ふと、前から考えていた事を話そうと思った。
自分をさらけ出す。
「こんな話をすると、絵梨香はパパを軽蔑するかもしれない。でも、本当にパパが悪いんだ。」
絵梨香はクッションを胸に抱えてじっと、話を聞いていた。
「何?」
「ママと結婚する前、いろんな女の子とつきあっていた。ママはそのうちの一人だった。」
絵梨香がはっとして俺の方を振り返った。その目と真正面から向き合うことに躊躇した。それでも話を続けた。
「ママから子供が出来たと聞いたとき、つまり絵梨香のことだけど。俺は正直、動揺した。」
絵梨香は黙っていた。
「次の年には卒業で、今の会社に内定はもらっていたので、結婚しても何とかなるだろうとは思っていた。そのことで心配をしたわけではなく、パパはその時・・・」
言いにくいな、と思った。でも、ここで言わないと。
絵梨香は、
「他のガールフレンド?それとも。」
「他の女の子とは別れた。だけど、どうしても気持ちの中で整理されていない事があって。」
「・・隆博さんのこと。」
「・・そうだ。」
思い切って絵梨香に話した。
前から気になっていたこと。彼と会っている時間が楽しくて、東京へ行く時間、ママのところで過ごす時間が惜しかった事。そのことをママがいぶかしく思っていたこと。
ママの側にもっといてやらないといけないと思いながら、気持ちがどうにもならなくて、苦しかった事。ママがそのことを察して、悩んでいた事。
だいぶ昔の話。だけど、そのことが結果的には自分たち夫婦の溝になってしまったこと。
「ママはつきあっていたころから、パパには何も言わなかった。自分が我慢している事。それにパパは甘えていたんだ。何もなかったようにうまくいっていた。でも、それはママが自分の我慢している気持ちをパパに言わず、黙っていたからなんだ。」
「それがあの時まで?」
7年前のあの事件。
「そうだ。ママはきっと我慢していた事が一杯になってしまったんだ。そして、自分の中で、それがいろんな形に変わっていった。
「本当はパパとママがふたりでいろんな話を、きちんと、腹を割って話さないといけなかったんだ。それをないがしろにしたままで結婚生活を続けた。それがいけなかったんだよ。」
「だから、ママのせいじゃない。ママだけが悪いんじゃない。原因はパパにあるんだから。
だから、そのことで絵梨香がママを誤解したままで、こういうふうに話もしない、会わないままでいるっていう事が、パパにはとても苦しいんだ。お願いだから、ママと会って話をしてくれないか。絵梨香が思っていることをママに話して、ママの気持ちも聞いてやって欲しいんだ。」
じっと、聞いていた絵梨香がぽつんと呟いた。
「・・絵梨香のせい?」
「えっ?」
絵梨香が口をぎゅっと、一文字に結んで、下を向いた。
「絵梨香のせいって?何が?」
彼女の顔を覗くと、泣きそうになるのをじっと我慢していた。
「何で?」
「だって。だって、絵梨香がいなかったら。そうしたら。」
彼女が何を言っているのかわからなかった。
「何言ってんだ?」
彼女は堰を切ったように早口でまくし立てた。
「だって、絵梨香がいなかったら、絵梨香が産まれなかったら、うまくいってたんでしょ。パパは隆博さんと一緒にいれたし、ママはママで辛い思いをしなくたって、他の誰かと結婚して幸せになったかもしれないじゃない!絵梨香がいたから、絵梨香がママのお腹に出来たから、だからパパもママも、隆博さんも。」
「絵梨香はいらない子だったんだ!」
「何をバカなこと言ってるんだ!」
絵梨香を怒鳴りつけた。
「だって、そうなんだもん。隆博さんがああやって帰っちゃったのも、絵梨香のせいなんだもん。絵梨香が変な話しをしたから。絵梨香が余計なことをしたから。」
「関係ない。あれは俺たちの間の問題で、絵梨香のせいじゃない。絵梨香には関係ない。」
それは本当だ。絵梨香のせいじゃない。確かに黙って帰ったあいつが悪い。絵梨香には何らかの形できちんと言っていくべきだ。それは思っていた。話をしたくても連絡が取れない。いらいらしていた。絵梨香も可哀想だ。
絵梨香は下を向いたまま、黙り込んでしまった。
どう声をかけて慰めたらいいか。途方にくれてしまった。
その時、ある事をふと思いついた。
スーツの上着を取りに部屋へ戻った。
クローゼットにかけてある、さっきまで来ていた上着のポケットを探る。
あった。
定期入れの中にいつもしまってあるもの。
定期入れごと持ち出し、また彼女の部屋へ戻る。