17話 言い出せない言葉
「さっきさあ、何か嫌な予感がするって言ってただろう。」
「えっ?」
考え事をしていてふいをつかれた。
裕樹と絵梨香が話し込んでいるのを見て、ふと隆博に漏らしてしまった事だ。
「ああ、いやに気が合うみたいだし。」
俺どんな顔してるんだろう。隆博が俺の顔を見てにやにやした。
「お父さんとしては、娘が心配でたまらないって顔してるよ。」
「別にそうじゃないけどさ、絵梨香さ、う~んと年上で、頭のいい男が好きなんだ。前のボーイフレンドだって・・・」
ガイの話をすると、
やつは笑いながら、
「大丈夫だよ。いくらなんでも娘ほど年の違う子に手を出すほど、節操のない男じゃないよ。裕樹は。」
「だけど、裕樹以前の問題だよ。絵梨香のおじさん趣味。」
「それは絵梨香ちゃん、パパ好き、好き、だから。しょうがないんじゃない?」
また、鼻に皺を寄せて俺をからかうように、口の端に笑みを浮かべる。
ファザコンってこと?と聞くと、
そうなんじゃない?悟が悪いんだよ。娘をそういうふうにしちゃったんだから。
と笑みを浮かべながら、俺をからかう。
「もう。」
ふふ、いいんじゃない?いずれ、誰かに盗られるんだからさ、娘なんて。
そう言って、あいつは新しい煙草に火をつける。
自分の娘のことを思い出しているんだろうか?
ふと、気になる。
娘の話題が出た後に、この話をするかどうか迷う。なかなか話をしようとしても、ふたりになる機会がない。ここで、言った方がいいのかと迷いながら、言葉だけが頭の中を行ったり来たりする。
〝一緒に暮らさないか。東京へ出てこないか。〟
すぐに返事なんて出来ないかもしれない。
俺だってあいつに再会するまで、じっくりそんな事なんて考えたことなんてなかった。
望んでも手に入るものではないと思っていたし、まさか、現実こんな日が来るなんて予想すらしなかった。
絵梨香に後押しされて初めて、自分の本当の望みに気がついたようなものだったから。
いろんな事が整理出来ているかというとそうではないかもしれない。
良二さんの言うように、自分の内面と対峙して、本当の自分と折り合いをつけたのかというと、まだかもしれない。
自分の望みを口にするのを、ためらわせる要因はいくつもあった。
後押ししてくれたのは絵梨香だけど、絵梨香のことが気になる。結局、どんな理由があろうと結果、あいつから母親を奪ったのは俺だ。なのに、自分の幸せのことなんて考えていいのか。世間体は?外資系の会社に身を置く立場上、それはあまり考えなくてもいいかもしれない。いろんな人種がいて、いろんなアイデンティを持った人たちの集まりだ。実力、結果主義。厳しいといえば厳しいが、結果さえ出せば、それ以上プライバシーまで詮索されることはない。あいつも同じようなもの。作家や翻訳家なんて普通の会社勤めとは違う。半分以上、フリーでやっているようなもんだし。
最も、自分たちのことはいい。絵梨香にどんな影響を与えるか、それだけが心配だ。
そして、乃理子のこと。まだすっきりしない。別れてから何年も経つが、ああいう終わり方でよかったのか、お互いのことを理解しないまま、どこか尻切れトンボ的な思いがぬぐえない。すまないという思いがまだ消えずにいる。
会いたいという乃理子に対して、絵梨香はまだあれから一度も母親に会っていない。それも気になる。
でも、隆博は明日帰ってしまう。それが最後とは思わないけど。
でも、あいつが明日帰るまでに、気持ちを聞いておきたい。
しかし、和可ちゃんのこともある・・・。あいつの気持ちは・・・。
同じ言葉が頭の中をめまぐるしく、駆け巡る。
言おうかと、言葉を口の端にのせようとするだけで息が止まりそうだ。
そんな俺の心境を知ってか知らずか、あいつは黙って煙草の煙をふかしながら、会場内を歩く人の群れを見ている。
横顔に目をやる。
あの頃に比べると、髪の毛を少し長めに伸ばして、目尻には近くに寄らないとわからないくらいの細かい皺が出来ていて、少しこけた頬に過ぎた年月を実感する。
〝髪の毛少し伸ばした方が似合うんじゃないか?〟
昔、そう言ったことがあった。
いつも短くしていた。それを言うと、
〝やなんだよ。〟
怒ったようにそっぽを向いた。
〝何で?〟
〝コンプレックスなんだ。このまつげ。〟
〝まつげ?〟
〝長いだろ。小学生の頃までよく女の子に間違えられた。だから髪の毛を短くして、野球をやり始めたんだ。〟
〝女の子に間違えられたんだって。〟
笑うと、かなり真剣に怒って殴られたことがあったけ。
今は髪の毛を伸ばして、それを気にすることはなくなったのか。
過ぎた年月のことを考えた。
共有する事ができなかった時間。
この先は?
この先の時間を共有することが出来るだろうか?
どこか遠くを見ている目。いつも嫌だとぼやいていた長いまつげに縁取られた瞳。でもその瞳の上に映っている透明な光はあの頃のままだ。
〝すごい。綺麗だ。〟
初めて雪を被ったあの山々を見た時の、隆博の顔。
美しい自然に触れた心の輝きを映し出したあの時の瞳。
また心臓が波打った。
口を開こうとするが勇気が出ない。いつもの自分じゃないみたいだ。
〝僕だけ、幸せになんかなれない。〟
あの夜あいつが言った言葉。
それが邪魔をする。
でもそんな隆博の横で、言おうか言わまいか悩んでいる、今の俺は〝素〟の自分だ。
絵梨香の前での父親としての顔。乃理子と過ごした夫としての顔。ジェリーやエリンと過ごすオフィシャルでの顔。そのどの顔でもない。
失くすのが恐い。どんな返事をされるかが恐い。失くしたらどうしよう。失くしたくない。でも、言わずにはいられない。今まで感じたこともないくらい、ひどく弱気になって、怖気づいている自分がいる。自分の中にこんな顔があるなんて。もうずっと忘れていた。いや、初めて対面する自分なのかもしれない。
また、自分は恋をしている。
あの時のように。