12話 腹の傷
そんなある日。
夜遅く居間の方で親父の怒鳴り声が聞こえた。それに続いてお袋の空を切るような細い悲鳴のような叫びを聞いた。
それを寝つかれなくて、2階のベランダから夜空を眺めていて偶然耳にした。
いぶかしく思って、ふたりに気づかれないように階下へ降りた。
弟も妹もぐっすり眠り込んでいた。
細く空いた居間のドアから明かりが漏れている。
何やらふたりで言い争いをしているみたいだ。
「・・・いつから・・・。」
「・・・だって、あなたは・・・。」
内容がわからない。
お袋は結婚して以来ずっと専業主婦で、外に出たことがなく、家では刺繍やパッチワークなどの手芸や、生け花などをたしなみ、おっとりとして優しく、親父にさからうこともなく控えめに生きてきた人だった。
その母親が珍しく親父にはむかうように大声を上げていた。
ただならぬ雰囲気を察して、息を殺すようにしてゆっくりドアに耳をつけてふたりの会話を聞き取ろうとした時だった。
バシッ、という音と同時にお袋の
「ああっ。」
という叫び声が聞こえた。
親父がお袋に手を上げた。
そう思った俺は居間に飛び込んでいった。
そこには殴られて倒れた母親の襟首を掴むようにして、さらに殴りかかろうとした親父の姿があった。
反射的にお袋の前に立ちはだかると、そこに親父の鉄拳が容赦なく顔面を直撃した。
歯が折れたかと思うくらいの衝撃に目も開けられずにいると、
「悟はひっこんでろ!」
親父の怒鳴り声が聞こえた。
母親が俺を抱きかかえて狂ったように泣き始めた。
口の中が切れて、床に血が滴り落ちた。
「悟、悟。ごめんね。ごめんね。」
お袋が俺を抱きしめて離そうとしないのを、無理やり親父が引き離し、こう言った。
「母さんはな、他の男と会っていたんだ。俺とお前たちを裏切っているんだ。」
浮気?
お袋が?
それを聞いた時、心臓が大きな音を立てて息苦しくなり涙がぽたぽたと床に落ちた。
「ごめんね。悟、ごめんね。」
俺の傍に駆け寄り、お袋がうわごとのようにそれだけを繰り返した。
そのお袋の襟足を掴むようにして、引き離して殴りかかろうとした親父の前にもう一度、体ごと親父にぶつかっていった。
親父はそれをあのでかいグローブのような手で、俺の体を思い切り突き飛ばした。
体が宙をふわりと舞ったかと思うと、すぐ耳元でお袋の狂ったような絶叫を聞いた。
何が起こったのか全くわからなかった。
「早く、水を!早く、誰か!」
次の瞬間、鼻をつーんと抜けるような衝撃があり、腹の辺りが焼けるように熱くてたまらなかった。母親の叫び声がひどく遠くに聞こえた。
その後の記憶がない。次に目を覚ましたところは病院だったからだ。
あの頃のことを思い出して、うずくように腹の辺りに違和感を覚えた。
が、それをすぐに意識の外へ追い出した。
「母さんはつらかったんだよ。あんたのせいだ。」
母親が浮気をしたのは、子供を意のままに操ろうとした、今から思うとそれが愛情の裏返しだったのかと、親父の中の一片の善意を感じることもできるが、当時はそんなこと思いもしない。そう、母親が浮気をしたのは、そんな暴君である夫に愛情を感じられない時期があったんだと、そう理解している。
お袋はそんな親父に逆らうような強い人ではなかった。それが寂しく、母親としてもっと俺をかばって欲しい、見て欲しいという思いがずっと子供の頃の思い出と重なる。
あの時、冬だった。当時のストーブはファンヒーターより、石油ストーブが主流で、いつも居間にあるストーブの上にはケトルに湯がかけてあった。
親父が俺を突き飛ばした先に運悪くストーブがあった。それに激突するような形で、俺がぶつかっていき、ケトルの湯を運悪く被った。ただ、それだけの事だ。
腹には消えることのない蚯蚓腫れのような傷跡が残った。
それを母親が悔いて悔いて悔やみぬいた。自分のせいだと。
別に女じゃあるまいし、体に多少の傷が残ったとしても別段気にする事はない。思春期の頃は体育の時間に着替えをする時、友人に何それ?と、いつも聞かれることが嫌だった。それだけだ。
親父がそんな昔のことを今も悔いているとは知らなかった。