4話 後悔
〝あなたに私のことを責める権利なんてあるの?〟
乃理子が言った。ひどく冷静に、俺を見下ろすような冷たい視線で。
〝どういうことだ?〟
ちょうどあれは7年前だった。
あの日、乃理子が他の男とホテルのエレベーターで降りてきたところを偶然見てしまった。
全く、何かのドラマのワンシーンみたいでありきたりな話なんだけどな。
会社の取引先の接待で、都内のあるホテルの最上階にある料亭へ来ていた。取引先の重役をタクシーのレーンまで送り、荷物を取りにフロントへと向かって歩いていた時だった。
見覚えのあるベージュのコート。彼女は俺に気づかずその男とエレベーターを降り、タクシーのレーンへ向かった。乃理子の少し上気した赤い頬と、嬉しそうに緩めた口元を見て、一瞬にして状況を悟った。
その半年程前から彼女の様子がおかしいとは気づいていた。結婚してからずっと専業主婦だった乃理子は、家を留守にすることはあまりなかった。
でも、その頃は度々出かけている様子だった。それは、見覚えのないコートやワンピースから推測できた。だけど、そのことに関して俺は気づかないふりをした。知らなければ知らないで、それでも良かったのかもしれないが、見てしまった。事実を突きつけられて、そ知らぬ顔でやり過ごす事が出来なかった。ホテルで見た男の事を問いただした俺に、乃理子が投げかけた言葉がそれだった。
質問には答えず、彼女はベッドの上に何かを投げ捨てた。
何かのパンフレットと雑誌や資料だった。
手に取り眺めてみると、それは半年程前に行われた例の小説の受賞パーティの事が書かれていた。会社で配布された資料には、自分がその当時通訳を務めたコリン・ジェームス氏のスケジュールとプロフィール、それと受賞作家のプロフィールなどが書かれていた。雑誌には当時の受賞パーティの様子が。
「これは半年程前に行われたやつだな。うちの会社がスポンサーになっていたから。」
「だから、これが何?」
乃理子が言わんとしていることはわかってはいたが、そ知らぬふりをした。
「とぼけないでよ。私、知らなかったのよ。」
「会ったんでしょ。あの人に。」
誰のことを言っているのかすぐにわかった。
「…そりゃ、会ったよ。向こうは受賞作家でパーティの主役のひとりだし、俺は仕事なんだから。」
「大学の後輩だって、お前だって知ってるだろ。」
「それがどうかしたのか?」
そう答えながら、背中を汗が流れて落ちるのがわかった。
ついに来たか。そう、思った。もう、ごまかしきれない。
でも、何もない。あの日一度きり会っただけで、しかも偶然に。この10年、ずっと乃理子に対しては良い夫で、絵梨香に対しては良い父親であろうとしてきた。
「私、知っていたのよ。ずっとあなたが隠してきたこと。あなたは私に対して良い夫だったわ。絵梨香のことも大事にしてくれて。でももう嫌なの。」
「10年前、私あの日見たのよ。何のことかわかるでしょ。酔ったあなたをあの人が送ってきた日のことを。ただの先輩と後輩の仲じゃないってすぐにわかったわ。だけど知らないふりをしたの。絵梨香のために。そうよ。絵梨香にはパパが必要だもの。」
10年前、俺は大学を卒業間近だった。
隆博はその2個下の後輩で、翻訳家や作家を目指すワークショップの仲間のひとりだった。学部は違ったが、そのワークショップや他のサークルで会う機会が度々あり、親しく口を聞くようになった。
隆博が入学してきた頃から俺はあいつのことを知っていた。そして、見ていた。そう、乃理子の言うような感情。ただの後輩としてみていたわけじゃなかった。
その感情を無視し、押し殺し続けながら、乃理子とのつきあいは続いた。卒業間近になって乃理子が妊娠した。今の会社に就職も決まっていた俺は、乃理子と入籍を済ませ、卒業後は東京に移ることに腹をくくった。
だけど、隆博への感情は消すことが出来なかった。
あの日、入籍の祝いをしてくれた仲間に飲まされ、意識をなくした俺を隆博が自分の車で送ってくれた。当時、すでに一緒に住み始めていた乃理子が俺を迎えにマンションの階下へ下りてきて、あのシーンを見たんだ。
俺を起こそうとシートベルトに手をかけた隆博を、抱きしめた。
酔ったふりをしてキスした。いや、酔ってなんかいなかった。もう。
それを乃理子は今まで気づかないふりをして、一緒に生活を共にしてきてくれていたんだ。
「あなたの心がどこにあるのか、本当はわかっていたの。」
「もし、そうだとしても、いや。そうだったとしても、それはもう過去のことだ。」
乃理子の目が俺を見据えた。
「過去?過去なんかじゃないわ。あなたはあの人のことが忘れられないのよ。私と絵梨香のために自分の気持を封印した。今もずっとそう。」
「封印?どうして?俺はお前の夫で絵梨香の父親だぞ。それ以外に何がある?」
「私、わかっているのよ。どんなに距離が離れていたって、時間が過ぎていったって、あなたの心がどこにあるのか本当はわかっていたの。それでも、あなたがあの人と会わなければそれですんでいくんだって、納得していたの。でも、偶然でも何でもあなたがあの人に会ったという事実が我慢できないの。」
つらかったあの時期を思い出した。
隆博は俺の気持を受け入れてくれた。つかの間の夢のような時間。
だけど、乃理子のお腹はどんどん大きくなっていき、東京へ行く日にちも近づいてきていた。
大学を卒業し、隆博に心を残しながら、東京へ向かった。絵梨香も産まれ、実生活が肩に錘のように押しかかってきた。そして、慣れない仕事に忙殺される毎日。
心の中にはいつもあいつがいた。その感情が日々の雑多の営みの淵から時折顔を出し、俺を苦しめた。だけど乃理子にはそれを感づかれまいと、気を張って毎日を過ごしてきた。
そして10年が経った。
「何年経ってもあなたが好きなのはあの人だけなのよ。私でもない、他の女性にもあなたは心を奪われたことなんてなかったのよ。もう、つらいの。あなたと一緒にいることが。」
そこまで一気にしゃべると、緊張の糸が切れたかのように乃理子はベッドに突っ伏して激しく嗚咽した。それを俺は一言も弁明する事が出来ず、黙って見ているしかなかった。
つらい思いをさせたのだ。自分が。乃理子を責める事なんて出来るわけない。他の男に走ったといって自分に何が言えるだろう。乃理子の言った事は真実だ。認めてはいけない事だと封印して何年も過ごした。それを自分自身ではない。他の人間に、一番知られたくない、知ってはいけない人に言わせたのだ。そう、自分がだ。
優しく暖かい思いやりを持つ女性、その反面、引っ込み思案で新しい環境に適応できず苦労をしていた。そんな彼女は海外赴任の多い俺との生活に疲れていたのだろう。あまり英語が出来ず言葉がうまく操れない。外国人とのコミュニュケーションを図ることは彼女にとって得手とすることではなかった。ブリュッセルからヘルシンキに移動になった時に、あと半年だからその後は日本へ帰れるとわかっていたから、ちょっと欝気味になった彼女を療養のためひとりで先に日本へ帰した。
実家で親とのんびり生活できれば、またきっと元気になってくれるだろうって。
絵梨香も一緒に帰せばよかったのだが、学校がまだ残っていた。進級までには半年あった。その離れていた半年の間にたぶん彼女は…。
ベッドに突っ伏して泣き続ける彼女の側に寄り添おうとした時、部屋の外に人の気配を感じた。
「絵梨香…。」
絵梨香が見ていた。一部始終聞いたのだろうか?
真っ青な顔をして、薄い唇を震わせていた。長い黒髪が涙に濡れた頬に張りついているのを見た。もうすぐ11歳の誕生日を迎えるところだった。