2話 ぬくもり
「次の駅で降りるんだよな。」
案内板の電飾の文字を目で追うようにして、あいつが言った。
「ああ。」
その時、メールの着信音がなった。絵梨香だ。
メールを確認する。
「何?絵梨香ちゃん?」
「ああ、17時ごろ着くから駅に迎えに来いって。」
「そう。」
友達と用事があるという絵梨香を東京において、先に俺たちがやって来たのは、温泉旅行も兼ねて、文さんの墓を参りたいというあいつの希望に沿ってのことだ。
17年前、最後の春休みを利用して2人で雪山のトレッキングに出かけた。
出かけた先のG県には、俺の後見人の隆司叔父の別荘があって、そのすぐ側には、子供の頃からよく叔父と遊びに訪れた、良二さんと文さんの家があった。良二さんは叔父の勤め先の同僚だった人だ。
別荘に数週間滞在したのだが、その時もふたりはよく面倒をみてくれて、特に文さんは隆博のことが気に入ったみたいだった。文さんは子供の頃から俺のことを可愛がってくれて、血縁はなくとも、本当の叔母のようで、いつも暖かく親身になって面倒をみてくれた。
良二さんと文さんの家から少し離れたところに、湯治で有名な温泉街があった。そこの旅館を絵梨香が予約していた。
文さんが亡くなったのは、俺が絵梨香を連れてアメリカへ離れるほんの数ヶ月前だった。
もともと心臓が悪かった文さんは、急に発作で倒れてあっという間だった。
絵梨香を連れて時々遊びに行っていた。突然の訃報に言葉が出なかった。
その話をすると、隆博は自分も仏壇に参りたいと言った。絵梨香は用事があって、後で合流する事は幸いだった。良二さんの所へはふたりだけで行きたいと思ったからだ。
「文さんのことはびっくりした。」
隆博が言った。
「ああ、急だったからな。」
俺の考えていることが読めるのか、急に文さんの話をし始めた。
「僕さあ。」
窓の外に視線を固定したまま、ぽつんとつぶやいた。
「あれからも文さんのとこ、たまに行ってたんだ。」
びっくりした。
17年前に雪山へ行った時、文さんたちに会ったのが最初で最後だと思っていたからだ。
「何で?」
「レナと結婚して和可が産まれて、それはそれで幸せで毎日があっという間に過ぎていった。でも、僕、諦めきれなかったんだ。というか、悟がどうしているのか本当はすごく気になっていて…。東京から一度はがきをもらったことがあったよね。」
「ああ。」
絵梨香が生まれた年のことだ。
「返事を出さなかった。お互いの生活があるんだから、はっきり線を引かないとって思っていた。それでもどこかで、何かし忘れたような、置き忘れたような感覚がずっとつきまとって、悟がどうしているのか気にかかって仕方なくなると、文さんの所へ行った。文さんは、殆ど僕に何を聞くこともなく、喜んでもてなしてくれて、自分たちの事や、里の話や、いろんな事を話して笑わせてくれて。僕がどうして来たのか文さんはすべてわかっていたんだ。そうやって僕をもてなしてくれながら、さりげなく悟の近況を話してくれ、僕が安心したような顔をすると満足そうに笑って。」
「一度彼女は僕にこう言ったことがある。
〝想いや、心は自由だ。それをなくしたら自分が自分でなくなってしまう。大事な想いは胸の中でずっと持っていてもいいものだと思う。それがつらいか?悲しいか?でも失くしたらお前がお前でなくなってしまう。つらいけどそれは自分が好きで背負ったことや。でもうちは、それでええと思うで。〟
僕はその言葉をずっと胸の中に大事にしまって生きてきた。文さんがわかってくれる、それだけで充分癒された気がした。」
あいつはそう言って俺の方へ振り向き、
「だから、あの話も嘘。絵梨香ちゃんの手紙の事。消印と勘でわかったって言ったのは。翻訳業界のつてで、悟のことを知っていたっていうのも全部嘘。全部文さんに聞いたんだ。」
「そうか。」
知らなかった。隆博がそうやって俺の事を気にかけてくれていたことを。
思いもしなかった。文さんはすべて知っていたのか。
俺たちが遊びに行っても、文さんはやつのことなど一言も話したことがなかった。そ知らぬ顔をしながらずっと俺たちの事を見守っていてくれたのか。子供の頃からずっと親のように面倒をみて可愛がってくれた。
なんの血縁もないのに。
文さんの、饅頭を差し出すと嬉しそうに、にっと前歯を見せる愛嬌のあるあの笑顔を思い出した。
「饅頭、買おう。饅頭。」
「饅頭?」
「金虎堂の。」
金虎堂の和菓子は文さんの好物だった。
「ああ、そうだ。栗蒸しようかんとそば饅頭だ。」
「お供えしないと、げんこつが飛んできそうだ。」
「違いない。」
ふたりして一緒に笑った。