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彼の娘  作者: 大島 有
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第3章「関係」 1話 帰郷

翌日。

「何かいる?」

前方からワゴンを押して、紺色の制服に白い小さなエプロンをつけた車内販売のお姉ちゃんがやって来た。

「…ああ、ううん。」

窓の外を眺めているのかと思って声をかけたが、どうも眠っていたみたいだ。ぼんやりした声で返事が返る。

静かな車内を音も立てずにワゴンが脇を滑りぬける。

客もまばらな平日のN700系のぞみの新幹線の車内。

周りはスーツに身を包んだビジネスマンが殆どだ。

朝の10時過ぎ、中途半端な時間もあってか客が少ない。

通路を挟んで向かいの席のビジネスマンが、ノートパソコンを広げて打つキーボードの音だけがかすかに聞こえる。

最新の車内。携帯やパソコンを使う人のために、電源が各席に備えられ、足を伸ばしてもゆとりが感じられる充分なスペースを確保した座席。


「やっぱり最新型だな。乗ってて気持ちいいな。」

隣の座席に話しかけると、

「…ああ、うん。」

またうとうとしていたみたいだ。

「ごめん。起こした?」

「いや、昔から乗り物に乗ると眠たくなる習性があるんだ。眠いわけじゃないよ。」

起き出して、彼はUターンしてもう一度通りかかった車内販売のお姉ちゃんを捕まえる。

「コーヒー。」

飲む?と目で聞いてきたので、俺も同じ物を注文する。

ワゴンに乗せたポットから、紙コップにコーヒーを注ぎ、ミルクとシュガーをつけて手渡そうとする彼女に、ブラックでいいよと、彼は手を振る。

「乗り物に乗ると、眠くなる?」

ずっと一緒にいると知らないことも出てくる。

よく考えてみれば、俺たちが一緒にいたのは、大学を卒業する前のほんの1年足らずのことだ。

いろんな癖や細かい出来事なんて知らないことも多いだろうし、ましてや離れていた17年間の事なんてぽっかり穴が開いてしまっている。

別次元からやってきた昔の恋人。ただ、それに違和感を感じることもない。新しい発見が次から次へとやってきて、空白の歳月を埋めようとする。知らないことも過ぎてしまった年月も、考えてみたって仕方ない。今こうして一緒にいることだけが大事なことだから。


「今の新幹線や電車なんかは静かだけど、昔の電車って、ゴトン、ゴトンって、振動や揺れもひどかっただろう。あれがいやに心地良くて、一定のリズムを聞いているとしだいに眠くなってしまうんだ。」

一度、終点まで気づかずに眠りこけていて、誰もいなくなった車内で、掃除のオバサンに起こされたことがあったと、彼は笑った。

学生の時のずいぶん昔の話だけどね。

前方の案内板の電飾に、次の停車駅がアナウンスされた。

「もうすぐだ。」

「何?」

「富士山。この駅を過ぎると、すぐ富士山が見えてくるよ。」

出張などで新幹線に乗る機会も多い俺が楽しみにしているのは、この新富士駅を抜けて数分走った頃に、裾野からうっすらと現れる富士山を車窓から見ること。

それを言うと、

「相変わらず子供っぽいとこがあるんだから。」

あいつは鼻で笑った。

「そうかな。」

海外生活が多いせいもあって、富士山を見ると日本にいるんだよなあと、ひとり感慨にふけってしまう。でも、日本人だったら誰でも富士山を見るだろう。新幹線の車内でも、飛行機の中でも、前方に富士山が見えます、なんてアナウンスが入ると、我先にとみな車窓に鼻を押しつけるだろうと言うと、それおのぼりさんだよ、とクールに返される。こういうとこも昔とまったく変わらない。

「あ、見えてきた。」

「え、どこ、どこ。」

車窓に鼻を押しつけるやつを見て、お前だっておのぼりさんだよと、心の中で悪態をついた。


富士の裾野に広がる街並み。工場や家や建物が小さいミニチュアに見える。裾野を悠然と着物の裾のように優雅に翻し、富士は聳え立っていた。その広い裾野を見ると、富士山は日本一の山だなあと改めて思う。車窓の上の方に、小さく、遥か遠く富士のてっぺんが見える。が、今日は曇っていてはっきりとは見えない。一瞬見えた頂が、また白い雲の中に消えかかる。

「ああ。」

残念そうにつぶやき、後方へ飛び去る富士を諦めて座席に座りなおすと、

「一瞬だったね。」

頂がみえたのは。

「でもあれを見ると、日本に帰ってきたんだなあって実感するよ。」

嬉しい?

日本に戻れたことをやつは聞いた。

「ま、どこでも順応するようになってるからいいけどね。でも、やっぱり生まれた国が一番いいよ。」

当分、日本にいれるの?

聞かれたことに答える。

「今のところその予定。ただ、いつまた海外行けって言われるかわかんないけどな。サラリーマンだからしょうがないよ。」

そして続ける。


「お前みたいにフリーランスはいいよ。」

「でも、その分不安定だよ。30年後の自分がどうなってんのかわかんないしね。保障も何もないから。会社の方だって今は嘱託だし、もっとも自分がそうしたくてそうしたんだから何も言えないけど。そのまま定年まで普通にあそこでサラリーマンしてたってよかったんだからね。」

それでも、自分の人生だから自分の生きやすいように生きた方がいいんじゃないかって、言うと、

「最もだな。なかなかそれが、みんなしたくでも出来ないんだから。僕は恵まれてるよ。」

良くても悪くてもひとりだからね。負わなければならない責任も、養っていかなければならない家族もないからね。

そう言って窓の外を眺めたあいつが、少し寂しそうに見えた。

絵梨香がいる俺は幸せだ。また、彼の亡くした娘のことを思った。


あの晩からずっとそのことばかり考えていた。絵梨香はいずれ自立して離れていくだろう。それはもうそんなに遠い未来の事ではない。

そしてお互いひとりになった俺たちはどうするんだろう。一緒にいよう、そう言ったことをあいつはどう受け止めただろう。そのことについてあいつは何も言わない。

30年後、俺たちはどうなっているだろう。どういう状況になっていたって、ひとりよりはふたりでいた方がいい。もう離れていくのは2度とごめんだ。

あの雪の日、家に帰るあいつを、じっとその姿が見えなくなるまで見送った、あの寒い雪の日の夕暮れのことを思い出した。水銀灯の下で舞っていた雪のかけらの形まで、今でもはっきり思い出すことが出来る。


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