表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
彼の娘  作者: 大島 有
30/83

13話 ささやかだけど大事なこと

電車のつり革につかまりながら、

(初めてだな。出勤時間ぎりぎりの電車に乗るなんて。)

結局、朝飯を食べた。しっかり自分で作って。

焦げた目玉焼きを、隆博はひっくり返しながら、

「やっぱり、悟、料理駄目だね。」

とつぶやいた。

ふたりで顔を見合して笑った。

だって、あいつの顔を見たら、会社へ行く気力が失せた。


いつも始発に近い電車に乗っているので、満員電車なんて経験した事がなかった。だから、自分の肩先にすぐ人の顔があるとか、電車が揺れるごとに俺の前に立っているお姉ちゃんのピンヒールがつま先にめり込むのを我慢するとか、新鮮といえば新鮮なんだけど、毎日これで出勤している人たちがいるなんて信じられない。

クーラーはかかっていても夏の出勤時間のむっとする人いきれや、あたり一面に漂う年配男性のポマードの匂いとか、まったく快適な状況ではないんだけど、何だか今までに感じたことがないくらい自分のテンションは上がっていた。


結局、出勤ぎりぎりの時間になってしまい、慌ててネクタイを結びなおし、玄関で靴を履いていると、

「いってらっしゃい。」

玄関であいつが見送ってくれた。

乃理子と別れて以来、誰かが朝、俺を見送ってくれるなんて何年ぶりだろう。

「ああ。」

日常の風景。

ごくささやかなこと。

何だろう。それがすごく嬉しかった。

「明日から数日有給取ってくるよ。」

「わかった。」

そう言って、オートロックの合鍵を渡す。


こういうことをずっと望んでいた。

あいつが昨日言ったこと。

自分だけ幸せになれない。ここへ来てはいけなかった。

それを思うと、複雑な気持ちになる。

でも、実際一緒にいて同じ時間を過ごす。朝、起きてきた姿を見る事や、歯ブラシの場所を教える事、コーヒーをわかして一緒に飲む事。オートロックの鍵を渡す事、いってらっしゃいと言ってもらう事。

ごく普通の日常。ささいな出来事の積み重ね。

こうしていてもいいんじゃないだろうか。それを望んではいけないんだろうか。

そんな日々を一緒に過ごしたいと思う相手なんてどこにでもいるわけではない。

これは俺のエゴなんだろうか。あいつの気持ちを、あいつが抱えているものを無視して。

そう思っても喜びで胸が締めつけられるような、くすぐったいようなこんな感触を味わいたい。


そこにいてくれるだけで、この世に存在してくれるだけで、ありがとうと言いたくなる。

毎日、その声を聞いていたい。その身体に触れていたい。何にもしなくていい。普通に、何の特別なことなんてなくていい。たわいもないことをしゃべったり、一緒に歩いたり、一緒に飯を食べたり、それだけで満足する。心が満ち足りてくる。そんな相手の存在が教えてくれる。自分は生きているんだな。ここに現実、存在しているんだなと改めて認識する。相手の存在そのものが、そしてその相手が自分を望んでいるという事実が、自分のアイデンティを確かめることにつながるんだと実感する。


一緒にいると、

朝、目を覚ます事が楽しみになり、夜、緩やかな波に揺られているかのような心地良い安らぎの中で眠りにつくことができる。

どこかへ置き忘れて見失ったものが、又、自分の手の中にある。あるかもしれないという期待。

たとえ、また、このまま遠くへ手の届かない場所へと離れたとしても、魂は覚えている。この感覚を。それを思うとひどく安心する。もう何も心配する事なんてないんだって。あいつがいるだけで、空気の色までが変わるみたいだ。こんなふうに思える相手は、もう、たぶん、どこにもいない。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ