13話 ささやかだけど大事なこと
電車のつり革につかまりながら、
(初めてだな。出勤時間ぎりぎりの電車に乗るなんて。)
結局、朝飯を食べた。しっかり自分で作って。
焦げた目玉焼きを、隆博はひっくり返しながら、
「やっぱり、悟、料理駄目だね。」
とつぶやいた。
ふたりで顔を見合して笑った。
だって、あいつの顔を見たら、会社へ行く気力が失せた。
いつも始発に近い電車に乗っているので、満員電車なんて経験した事がなかった。だから、自分の肩先にすぐ人の顔があるとか、電車が揺れるごとに俺の前に立っているお姉ちゃんのピンヒールがつま先にめり込むのを我慢するとか、新鮮といえば新鮮なんだけど、毎日これで出勤している人たちがいるなんて信じられない。
クーラーはかかっていても夏の出勤時間のむっとする人いきれや、あたり一面に漂う年配男性のポマードの匂いとか、まったく快適な状況ではないんだけど、何だか今までに感じたことがないくらい自分のテンションは上がっていた。
結局、出勤ぎりぎりの時間になってしまい、慌ててネクタイを結びなおし、玄関で靴を履いていると、
「いってらっしゃい。」
玄関であいつが見送ってくれた。
乃理子と別れて以来、誰かが朝、俺を見送ってくれるなんて何年ぶりだろう。
「ああ。」
日常の風景。
ごくささやかなこと。
何だろう。それがすごく嬉しかった。
「明日から数日有給取ってくるよ。」
「わかった。」
そう言って、オートロックの合鍵を渡す。
こういうことをずっと望んでいた。
あいつが昨日言ったこと。
自分だけ幸せになれない。ここへ来てはいけなかった。
それを思うと、複雑な気持ちになる。
でも、実際一緒にいて同じ時間を過ごす。朝、起きてきた姿を見る事や、歯ブラシの場所を教える事、コーヒーをわかして一緒に飲む事。オートロックの鍵を渡す事、いってらっしゃいと言ってもらう事。
ごく普通の日常。ささいな出来事の積み重ね。
こうしていてもいいんじゃないだろうか。それを望んではいけないんだろうか。
そんな日々を一緒に過ごしたいと思う相手なんてどこにでもいるわけではない。
これは俺のエゴなんだろうか。あいつの気持ちを、あいつが抱えているものを無視して。
そう思っても喜びで胸が締めつけられるような、くすぐったいようなこんな感触を味わいたい。
そこにいてくれるだけで、この世に存在してくれるだけで、ありがとうと言いたくなる。
毎日、その声を聞いていたい。その身体に触れていたい。何にもしなくていい。普通に、何の特別なことなんてなくていい。たわいもないことをしゃべったり、一緒に歩いたり、一緒に飯を食べたり、それだけで満足する。心が満ち足りてくる。そんな相手の存在が教えてくれる。自分は生きているんだな。ここに現実、存在しているんだなと改めて認識する。相手の存在そのものが、そしてその相手が自分を望んでいるという事実が、自分のアイデンティを確かめることにつながるんだと実感する。
一緒にいると、
朝、目を覚ます事が楽しみになり、夜、緩やかな波に揺られているかのような心地良い安らぎの中で眠りにつくことができる。
どこかへ置き忘れて見失ったものが、又、自分の手の中にある。あるかもしれないという期待。
たとえ、また、このまま遠くへ手の届かない場所へと離れたとしても、魂は覚えている。この感覚を。それを思うとひどく安心する。もう何も心配する事なんてないんだって。あいつがいるだけで、空気の色までが変わるみたいだ。こんなふうに思える相手は、もう、たぶん、どこにもいない。