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彼の娘  作者: 大島 有
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12話 朝

翌朝。アラームがなる前に目を覚ました。

すぐに時計に手を伸ばしてアラームを解除する。あいつを起こしたくないからだ。

あのまま、あいつが寝息を立てるまで、ずっと腕を貸したまま起きていた。気持ちが落ち着いて眠りにつくのを見届けようと思った。

そっと、ベッドから離れる。起こさないように。

静かな規則正しい寝息をたてて眠っているあいつの顔を見た。

やっぱりあの頃のままだ。

名を知られるような作家になって、翻訳界でも活躍しているような立派な先生には、俺にはどうしても見えん。もちろん、あいつの功績を認めているに決まっているけど、それを離れたプライベートのあいつは、知り合ったばかりの頃の、子供っぽい一面をストレートに出す純粋な子供と一緒だ。


音を立てないように寝室をそっと出る。

仕事に行かなければならないからだ。

本当は休みたいところだけど、今日はどうしても出勤しなければいけない重要な仕事があった。昨日の晩の状況のあいつを置いていくのも忍びない。でも、明日から数日有給を取ろう。昨日聞いたところによると、まだ数日東京にいられるみたいだし、絵梨香が例の如く、3人で温泉旅行にでも行こうと言い出したからだ。でも、昨日の話しを聞くと、本当は、隆博は絵梨香と一緒がつらいんじゃないのか。絵梨香に和可ちゃんの成長した姿をどうしても重ねてしまうだろう。そうして夢見たいとういう気持ちと、現実に向き合い辛い思いを確認してしまうのとの、あいつが望んでいるのはたぶんどちらもだろう。


キッチンに入り、キリマンジャロかサントスか、迷ってキリマンジャロにする。コーヒーメーカーに挽いた粉を入れる。その間にシャワーを浴びる。浴室を出て、洗面所でひげをそる。毎朝同じ手順を繰り返す。

コーヒーを飲みながら着替えを済ませる。朝食は食べない。昔から朝食の習慣がなかった。

いつも出勤時間の1時間ほど前に会社に着くように出かける。皆が出勤してくる前に、メールをチェックしそれに対する返信を打って送ったり、経済紙や新聞などに目を通す。雑事を朝のうちに済ませておくと、すぐに仕事に取りかかれるし、朝の空いた時間を自分の勉強の時間にすることも出来る。誰もいない閑散としたオフィスはいろんな事に集中できる。入社して以来、それをずっと習慣にしている。3年前に課長に昇進すると、社での仕事や雑事は数段に増えた。それに対応するためにも、早めにやっておかなければならない仕事はいくらでもある。

電車の時間を気にしながら、鏡の前でネクタイを締めていると、


「早いね。」

ふいに後ろから声をかけられた。

「隆博。」

隆博が起きてきた。

「まだ寝てればいいのに。まだ早いよ。」

「ああ、でも目が覚めちゃったから。」

「それにしてもいやに早いね。まだ出勤時間には間があるだろう。」

そう言われたので、1時間前に出社する癖をつけているのだと説明する。

「そうやって人の見えないところで努力してるの変わらないね。」

努力とは思ってはいないけど、人から秀でるためには、人より長い時間何かに費やさなければならないと思っていた。

仕事で使用する資料などをブリーフケースにつめながら、昨日の晩のことを思い出しちょっと心配になった。

あいつの精神状態のことだ。でも、そんなふうに思っているのを気づかれないように、自然に話を続けた。

「キッチンにコーヒーが沸いてるし、絵梨香が食材なんかをあれこれ買っておいてあるみたいだし、マンションの下にもカフェがあるから。」

世話をやくと、

「僕のことはかまわなくていいよ。僕も打ち合わせがあるから出かけないといけないし。」

「ああ、悪いな。今日くらいは休みたいんだけど、はずせない仕事があるから。」

ようやく顔を上げてあいつの顔を見ると、泣いたせいか目が腫れている。

絵梨香が用意しておいた俺のブルーのパジャマを着ていたが、そのシャツのボタンが入れ違えになっていることが気にかかった。

出かける準備をする手を止めて、こっちへ来るよう手招きする。

ソファに座らせて間近で顔を見ると、

「何?」

怪訝そうな顔をする。

「大丈夫か?」

「ああ。」

「行ける?」

そんな顔で打ち合わせなど、大丈夫かと聞いたつもりだった。

「大丈夫だよ。」

そして、母親が子供をなだめるような落ち着いた目をしてゆっくり笑った。

「まだ、僕のこと、子ども扱いしてる?もう大学生じゃないんだけど。」

「いや、そうじゃないけど。」

昨日あんなに激しく泣いたのが嘘のように、ひどく落ち着いた顔をしている。

目は腫れてるけどな。

「シャワー借りるよ。悟は会社に行けよ。」

隆博はソファから立ち上がった。


遅れるよ。

後ろ手にドアを閉めようとした彼の手を掴んだ。

「何だよ。」

隆博は腫れた目で、俺を見上げる。

「いや。あの。」

俺は口ごもった。

(置いていくのが忍びない。)

言うと、あほか、また僕のことを子ども扱いして。何歳だと思ってるんだ。いいおじさんなんだよ。お互い。

そうやってクールに突き放されるのは目に見えている。だけど、何だか彼が心配だった。

いや、自分がもう少し隆博といたいと思い出したのかもしれないけど。

「やっぱり、朝ごはん食べていくよ。今日はそんなに早く出社しなくてもいいんだ。」

朝、食べないんじゃなかったっけ。

隆博が怪訝そうな顔をした。

いや、たまには食べたい時もあるんだよ。

そう言って、彼の背中を押した。

「パンでも焼いて、作るからさ。シャワーして来いよ。一緒に食べよう。それから出かけるからさ。」

ふうん。

隆博は肩をすくめて、ちょっと呆れたような視線で俺を見て、浴室へ消えていった。


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