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彼の娘  作者: 大島 有
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5話 喪失

「え?いつ?」

すべての感情を奥深くに閉じ込めてしまったように、能面のような表情を動かさないまま、彼は続けた。

「7年前。」

「あの後?」

「そうだ。あの後すぐだった。小児がんで。あっという間だった。」

かける言葉が出ない。あまりにも意外な事実で、何と返していいかわからない。

もし、それが自分の立場だったら。子供を先に亡くすなんて。

彼が絵梨香を優しく見つめるわけがわかった。そこに自分の娘を重ねているのだろう。


「和可が死んで3年くらいたった頃だった。絵梨香ちゃんから手紙をもらったのは。年もそんなにかわらない悟の娘。これが自分の娘だったらと思った。でも、自分の和可はもういない。複雑な思いが絡まって、彼女があんたの娘だとわかった時は、すぐに返事が出せなかった。でもそんなこと絵梨香ちゃんには言うべきでないと思ったし、だから彼女は僕に娘がいたことなんて知らないんだ。」

表情をなくしたまま一気にそう吐きだした。息も継がないくらいの速さでまくし立て、彼が倒れてしまうのではないかと心臓が波打った。

「自分がその事実を客観的に見ている時はいい。そこに感情を向けてしまうと自分が壊れそうになる。何年経っても僕はそこから動けないでいる。その事実を受け入れてしまう事が恐くて、恐くてたまらないんだ。」

沈黙が続いた。

「じゃあ、今は奥さんとふたりで?」

彼は首を振った。

「別れて1年になる。」

「何故?」

どうして別れたりしたんだ。つらいことばっかり自分から選んで。


「和可が死んでから、ずいぶん僕たちはいろんな話しをした。ふたりで立ち直ってまたがんばろうって思った。ふたりでいればいつかその悲しみは乗り越えられるって。だから休みの日は一緒に出かけたり、共通の趣味を持ってスノーボードをしに行ったり、一緒に花壇を作って花を植えたり、旅行に行ったり。レナは明るくて素直でいつも僕のことを考えてくれて、支えてくれて、でも、それがいつのころからか辛くて悲しくてたまらなくなってきたんだ。もちろん和可のことを忘れない。いつもお墓に参って仏壇の花も欠かさないようにして。でもいつまでも同じところにいてはだめだって、レナとよく話し合って次の子供をつくろうって思ってがんばってたんだけど、なかなか出来なくて。そういう日々を重ねているうちに何となく、お互いそれぞれの仕事に没頭するようになっていたんだ。もともとレナは自立心が高く結婚してもずっと仕事をしていたし、自分の仕事に誇りを持っていた。そんな彼女だから好きだったんだ。すれ違っていたとは思わないけど、どうしても和可のことがしこりになってしまっていたのかもしれない。僕たちは前向きにそれに対処しようとしていたと思うんだけど、そうやってがんばっていくことにどこかで疲れてしまったのかもしれない。何故そうなったのかって人に聞かれてもうまく説明できないけど、僕たちはお互いの事が嫌いになったわけではないんだが、何故かお互いひとりずつになりたいってどこかで思うようになってしまった。それがお互いにも何となくわかるような形で見えてくると、僕らはお互いが新しいスタートを切るために別れた方がいいのかなと、そう、決断したんだ。」

「ひとりになったほうが悲しみが癒えると?」

「わからない。」

隆博は首を振った。

「たぶんこの悲しみや喪失感みたいなものは自分の中でずっともち続けていくものだと思うし、和可を忘れないためにも、それがどんな風に形を変えていったとしても、それは僕の一部にしていくものだと思うんだ。僕はそれを文章にした。悲しい思いを文章に昇華しようとしたのかもしれないし、書くことによって自分を癒そうとしたのかもしれない。それによってレナの悲しみに対しても何か答えが出せるんじゃないかと思ったんだ。」


(それでもどこか消えない悲しみのようなものを抱えている人。)

絵梨香が隆博のことをそう表現した。そうか、だからなのか。

表情は無表情のまま、それでも話している途中、途中、声が震え、グラスを持つ手が小刻みに揺れた。その手を包み込むようにして握った。

あいつは顔を上げなかった。その横顔が一瞬、ひどく疲れて年を重ねた老人のようにみえた。


長い長い年月。離れていた間に悲しみが降り積もる。その悲しみをお互い知らない。今までずっと知らずに来た。その間にお前がどんな思いをし、何を考えて、どうやって時を過ごしてきたのか。俺は知らない、知る由もない。川の流れの広さを思った。対岸にいるお前。俺の声は届かない。その姿を確認することも出来ない。いつも思うのはそう、あの時だって、何もしてやれない自分の無力さだけだ。


ロマンチックな愛の歌。低く流れるサクスフォーンの音がひどく寂しく聞こえた。

I know ‘cause I was there.

That night in Berkeley Squea.


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