4話 Don’t fence me in
Just turn me loose
(私を自由にして下さい)
Let my straddle my old saddle
Underneath the western skies
Oh my Cayuse
(西の空の下、私のカイユースの古いサドルにまたがっていたいのです)
Let me wander over yonder
Tilll I see the mountains rise
(聳える山が見えるところまで遥か彼方をさまよいたいのです)
自由な空の下、それはここでなく遥かなもっと遠いところ。
胸いっぱいに精錬された透明な空気を吸い、誰にはばかることもなく大きな声で歌い、馬で見渡す限りの草原を駆ける。それは自分を足元から縛るすべてのものから解き放ってくれる、そうsenses、五感全てが自分の感覚でなくなるような夢の境地だ。それをピアノの音が俺の五感のすみずみに教えてくれる。
ピアノを弾き、歌っていると楽しくなる。魂が自由な風の中に溶けてしまいそうになる。歌いながら絵梨香の顔を見る。彼女もキイから一瞬目を上げて、俺を見て微笑む。彼女も同じだ。今、俺と同じことを彼女も感じている。それを絵梨香の輝く目の奥を見て確信する。そしてまた夢を見ているかの如くうれしくなる。
Don’t fence me in
Don’t fence me in
(堀の中に閉じ込めないで。)
手拍子を打ってくれていたお客さんが、曲が終わると拍手してくれた。
ほっとして、席を離れようとすると、背の高い若い男が楽器のケースを抱えて店を入ってきた。
「すみません。遅れてしまって。」
要に頭を下げている。それをほっとした顔で要が応対している。
要の側に行くと、
「ベースの北島さん。」
背の高い男が軽く会釈した。
「よかったな。間に合って。じゃ、俺たちはこれで。」
そう言って、席に戻ろうとすると、
「いや、それが来たんは北島ちゃんだけなん。彼だけ何とかひとりでもって駆けつけてくれたんやけど、他のメンバーはまだ来れへんのや。」
「じゃあ、そのベースの人とお前のサックスで何とか場を持たせとけよ。」
そう言って絵梨香の腕を取ると、要に反対方向から引っ張られた。
「わかった。でももうちょっと絵梨香ちゃん貸して。」
「え?」
「絵梨香ちゃんええ声やねん。もう1曲やってもらってもええか?」
「俺はかまわないけど。」
彼女は自分を指差して戸惑った顔をした。
要は笑って彼女の腕を取り、奥の方で3人で打ち合わせを始めた。
まあ、いいか。
「要、俺カウンター入って店番しとるわ。」
言葉を投げると、
おお、ちょっとだけ頼むわ、手を挙げて合図した。
それでカウンターに入って
「ちょっと店番だって。待たして悪かったな。」
隆博に笑いかけると、
「今度は3人でやるって?」
「ああ。」
「しかし、ふたりともうまいよ。昔を思い出したな。」
そういうこともあったな。あいつが言っているのは、在学中、あいつがバイトしていた澤崎さんの店。彼に頼まれて嫌と言えずピアノを弾いたことがあった。あれ以来だ。人前で歌うなんて。
「絵梨香ちゃんはいい声をしているね。いいシンガーになれるよ。」
「それにしても妬けるね。」
何が?
聞き返そうとすると、ベースの音で曲が始まった。
ベースのソロの前奏の後に絵梨香の歌が入る。
That certain night.the night we met
There was magic abroad in the air.
There were angels dining at the Ritz.
And a nightingale sang in Barkeley Square
3人が選曲したのは、
「バークリースクエアのナイチンゲール(A nightingale sang in Barkeley Square)」
これもジャズのスタンダード。結構歌うには難しい歌だが。
途中から要のサクスフォーンが入る。
「難曲だね。」
「そうだな。」
「でもうまいよ。それにはりがあって深みのある声だ。あの年であんなしっとりした音程が出せるなんて、先が楽しみだね。」
褒められて素直にうれしいと思った。
「さっきの妬けるって?」
「ああ、本当に仲がよくてうらやましいよ。凄く息も合ってた。左のパートは彼女がやったんだろ?」
「ちょっと指がうまく動かなくて。」
そう言うと、彼はうなずき、
「あの事故の後遺症?」
絵梨香から聞いているのだろう。それ以上詳しくは話さず、うんまあとだけ返す。そうなの。とあいつもそれ以上聞かなかった。
曲と曲の間。間奏は要のサクスフォーンのソロだ。
聞かせるなあ。
しっとりとしてムーディな演奏にうっとりする。うまくなったなあ。大学生の頃に比べたら数段だ。
要のソロにリズムを取りながらステージに立つ絵梨香に、隆博はじっと優しいまなざしを向けていた。
「17歳だっけ?」
「ああ。」
「和可もあんな感じになったのかなあ。」
彼が娘のことをふと口に出したので、思い切って聞いてみた。
「さっき和可ちゃんのこと口にしようとしたら、お前の様子が変だったので、口をつぐんだんだが…何かあったのか?」
彼はグラスに目を落として苦しそうな表情をした。でも、娘の名前を口にしたのは俺に聞いて欲しいと思ってのことなのかと察した。
「死んだんだ。」
表情を変えずにあいつがぽつりと呟いた。びっくりして俺は持っていたグラスを落としかけた。