2話 部屋に来た彼
受賞セレモニーがあって、審査員のコメント、記念撮影、マスコミの取材があった後、お祝いのパーティが催された。そのパーティの間中、俺はジェームス氏の傍らで通訳をしていてほとんど自由な時間はなく、隆博と話をするひまなどなかった。それでも、盾を授与され、他の受賞者と並んでマスコミのフラッシュを浴びているあいつを、多くの人に囲まれお祝いの言葉をかけられているあいつを、まるで自分の身内か兄弟、いや、分身のように誇らしげに思い見ていた。ああ、幸せなんだ、うまくやっているんだと思い、あいつの成功を心から喜び、安堵した。
その夜は、パーティが終わった後、ジェームス氏を交えて会社の連中と飲みに行き、部屋へ彼を送り届けた後、自分の部屋に戻れたのは深夜の12時を過ぎていた。
隆博は来たんだろうか?そうは思ったが、彼も受賞者の1人である故、周りの連中から早々に帰してもらえるはずがない。いや、それとも。又、自分の中に迷いと後悔が交差した。彼が来ない方がいい。本当はその方が。自分の言ったことを又頭の中で復唱した。
発してしまった言葉は取り消しようすがない。
でも、後悔していると同時にどこかで期待をしている自分がいた。
気を取り直して部屋に入り、ライトをつけ、窓にかかっている分厚いカーテンを開けて外を見た。ビルの群れ、夜中を過ぎても光々と明かりがともる街並み。はるか下方を、車の列がまるで蛍光灯の灯りを背負った虫のようにのろのろと、町の喧騒の中へ吸い込まれていく様子をじっと見つめた。スーツの上着のポケットから携帯を取り出し、そのまま上着をベッドの上へ投げ捨てる。携帯の画面を開くと、乃理子からメールが来ていた。そのメールを見て、一気に現実に引き戻された。
〝エリカは先程寝ました。パパがいないと怒る人がいないもんだから、夜更かしをして困ります。明日はいつ頃帰宅ですか?夕ご飯は家で食べる?〟
絵梨香は今年で10歳になる。夜更かしが好きで困っている。
〝明日は夕方には帰れる。家で飯を食べるのでよろしく。〟
手短に返信する。絵梨香の顔を思い浮かべる。10歳になってますます大人びてきた。真っ黒な髪を長く伸ばして、おしゃれな娘。はきはき物を言い、快活で、どことなく大人びたような考え方やしゃべり方をする子で、時々こちらがたじたじになる事もある。
それでも、時々甘えたようなしゃべり方をし、側に寄ってくるのが可愛い。どちらかというと父親っ子で、俺の側にいることの方が多い。周りからもよく言われる。絵梨香はお父さんっ子なのねって。
あいつが好きなのはデージーコーナーのチーズケーキだっけ?買って帰るかなあ、などと思っていると部屋をノックする音が聞こえた。
その音に反応するように反射的にベッドから飛び起きた。
あいつだ。こんな時間に訪ねてくるなんて。
相手も確かめずにドアを開けた。
「…ごめん。遅くなった。」
隆博だ。やつの顔を見た瞬間、10年前に時間が戻ったような気がした。
まだ先程のスーツ姿のままで、いままで引っ張りまわされていたことがわかった。
「入れよ。俺も今戻ったところで。」
彼はちょっと戸惑ったように迷った表情を見せたが、それでも部屋に入ってきた。
「何か飲む?今まで引っ張りまわされていたんだろ?」
彼は落ち着かない様子で、言葉をかけても俺の目を見ない。迷い、迷い来たことが手に取るようにわかった。俺はたまらなくなってあいつの肩を掴んだ。
肩を掴まれて反射的に隆博は俺の顔を見た。目が合った。その次の瞬間には、あいつを壁に押しつけるようにしてキスをしていた。
こうなることがわかっていた。
10年前と同じだ。自分たちの間では何の時間の流れもなかったかのようだった。
何も感じていなかったわけじゃない。半身をもぎ取られたような喪失感。どこかに大事なものを置き忘れてしまったような居心地の悪さ。それは絵梨香が産まれて、乃理子と家庭を築いても、どうしても拭い去ることが出来ない事実だった。
あいつが幸せでいるならそれでいいと思った。そう思って別れた。
あの会社に入社したことも、書店にあいつの訳した書が並んでいるのも、作家として成功を収めたこともずっと見ていた。それでいいと思う反面、自分の中にある喪失感は消えなかった。日々の営みに没頭して、仕事にも熱中した。家庭ではよき家庭人であり続けることに心を砕いていた。
でも…。
隆博は俺を拒まなかった。長い長いキスの後、俺に身を任せて緊張が解けたのか、部屋の壁にずるずると崩れ落ちた。それを起こそうと抱きかかえようとした俺の耳元で、うめくように小さな声で囁いた。
「…会いたかった。」
その時気づいてしまったんだ。
あいつのとのことは終わった事なんだと、過去の事なんだと思っていた。
終わってなんかいない。
ずっと、自分の内の中では続いていたことなんだって。
気づいてはいけない、気づいてはいけない。
ずっと心の底を見ないようにしていた。鏡に映った自分を通り越して、はるか彼方の先にある自分を見ていた。現実、鏡に映っている自分の姿を見ることを避けていた。
でも、その時見てしまったんだ。真実の自分の姿を。
朝まで一緒にいた。あの時と同じ側にいるだけで心から安堵した。柔らかい優しい空気を感じた。
でも、それはまた同じ時間を共有する約束を前提としたものではないことをお互いわかっていた。
そう、次なんてないんだ。偶然の、ほんと偶然の…時間。
あの時の、手に乗せると一瞬にして消えた雪のように。
そして、あの時感じた思いを、見てしまった自分の真実の姿を、再会した夜から、今日までの7年間、自分の内でずっと継続して引きずってきた。
そして今日、またそれに向き合わなければならない…。