15話 今の自分があるのは
「小説を書いてるほうが多い?」
「半々だな。今は。」
翻訳の仕事との割合のことだ。
「もうこっちでの用事は終わりか?」
都合を聞いてみた。
「いや、また明日出版社へ行かないといけない。打ち合わせがあるんだ。その後、雑誌の取材が。」
「有名人だな。」
そう言うと、
「パパが何にも知らなすぎるのよ。」
そう絵梨香が返した。
「ホントは嫌なんだ。あまり人前に出るのは好きじゃない。でも、ある程度は断れないんだ。会社から言われてて。メディアに出ればそれだけ知名度も上がり本が売れるだろ。うちの会社、悟も知ってるだろうけど、出版も兼ねていて、僕の本の出版はうちの会社が独占してるから、その分会社の利益にもなる。でも、個人的にいろんな事情があって、一部は他の出版社からも出して貰っている。だけど、ほんとは売るために書くってどうなのかなって思うし、今は自分が書きたいものが売れてるからいいけど、別に僕は売ろうと思って書いてるわけじゃないし、売れるものと自分が本当に書きたいものって一致しないこともあるしね。」
「隆博は純粋だからな。わかるよ。自分の気持ちを曲げてまでなんて書けないだろうな。」
〝純粋〟と言われて、びっくりしてはにかんだように笑い、彼は続けた。
「でもこつこつ物を書いたり、翻訳したりすることは僕に向いている。今の生活に満足している。あの会社に入社してから、営業もやったし、下訳をやったり、森田さんのようなコーディネーターの仕事もやった。でも何だかしっくりこなくて。人に会うのは嫌いじゃないけど、自分ひとりでこつことやっている方が向いてるみたいで、そのことを上の方の人に言い続けていたら、翻訳を専門にやらせてもらえるようになって。その頃から仕事の合間に書いてた本が賞を取れた。あの10年前のね。」
「ああ、そうだな。」
10年前にあのホテルであった受賞式のことを思い出した。
「でも、会社員との2足のわらじって、だいぶ大変じゃないか?」
そう聞くと、
「自分の執筆の方が結構忙しくなってきたので、今は無理言って嘱託社員みたいな形にさせてもらっている。いまだに森田さんにはずいぶん迷惑かけて、面倒みてもらっているよ。」
「森田さんか、懐かしいな。」
「誰?」
絵梨香が聞いた。
「うん、隆博の会社の上司で、パパも学生の時、その会社でアルバイトしていたんだ。その時世話になった人物だ。」
「そう。」
「ああ、〝森田さん〟なんて楽そうに呼んでるけど、あの人今は常務だよ。」
「へえ、出世したんだな。」
「それから、」
思い出したように隆博はつけ加えた。
「ありがとう。」
「何が?」
何のことか思いつかず、そう尋ねると、
「僕があの会社に入れるように取り計らったくれたこと、後で森田さんに聞いた。」
「ああ、そのことか。」
だいぶ昔のことだ。忘れていた。
親父が当時常務を努めていた会社と、彼の会社の間に取引があって、何とはなしに口添えしておくといいかなと、ふと思って親父に頼んでおいたことがあった。
「それに…。」
はにかんだようにあいつが横を向いた。
「悟が押してくれたから。今の自分があると思う。いつかお礼を言いたいとずっと思っていた。」
「あほか。他人行儀な。」
大学生の時、アルバイトの後釜にあいつを押した事を言っているのだ。
自信がないから、と言うあいつを無理やり森田さんに押しつけたことを思い出した。
「お前はやれるはずだと当たり前のように思っていた。だから、それはきっかけの一部だったかもしれんが、どの道、いずれはそうなっていた。すべて、お前の力だ。お礼なんて言う必要なんかない。」
「でも、役にたってたならうれしい…でしょ。」
絵梨香が口を挟んだ。
「また生意気な口を聞いて。」
どうも、娘の前だと調子が狂うな。
隆博は気にも留めず、素直に自分の気持ちを口にするが、どうも俺は娘の前だと思うと、つい、自分の気持ちを言う事にオブラートをかけてしまう。
昔みたいにじっと俺の目を見て、自分の気持ちを素直に表現するあいつがうらやましかった。
俺はだめだ。絵梨香の前だと思うと気恥ずかしくて、あいつの顔さえまともに見て話をすることが出来ない。
絵梨香はそんな俺の様子を楽しそうに眺めながら、にこにこ顔でローストビーフをばくついている。
いいな。お前は。