14話 乾杯
隆博は俺をなだめるように、掴んだ手を解いてそれをぎゅっと握り返してくれた。
「本心はそんなふうには思ってたわけじゃない。だけど実際会ってみるまではやっぱり恐くて。」
その様子を見て、
「パパの思っている事、私はわかっているつもり。だから。」
絵梨香が静かに口を開いた。
彼女がひどく大人びて見えた。自分が保護されている子供のように思えた。
家へ戻ってくる道すがらずっと考えていた。
恐かった。
絵梨香を、乃理子を傷つけてしまったのは、俺たちだ。結果的にはそうなる。だけどその傷に対する思いは、憎しみは、絵梨香は隆博に向けている。その気持を考えれば、こうやって俺が隆博に会うことは、手放しで喜べるようなことじゃない。
そして、隆博の気持。隆博はぎりぎりまで俺に会うべきでないと絵梨香に断り続けていた。でも、絵梨香が説得して、セッティングしてくれた。だけど隆博の本心はわからない。
もし、会ってみて、もし、前と同じように話せなかったら。自分の意識が17年前に止まったままで、でも、あいつはもう俺を置いてずっと先に歩いて行ってしまっていたら。
それが恐かった。あの時と同じ目であいつを見ても、あいつの目がもしどこか遠いところを見ていたら。もし俺だけが置き去りにされてしまっていたら。それが恐かった。それを確かめることが。
握り返してくれた手は暖かかった。相手の体温を感じると同時に思うことは、いろんなことは取り越し苦労だったのかということだ。本当に大事なのはお互いの想いだ。それはどんな相手とも同じことだ。でも、人はそれを確かめることが恐い。
でも、ここまで来てやっと本当にほっとした。
「乾杯しよう。」
絵梨香が言った。
「乾杯。」
隆博がグラスを傾けた。
「チャーミングな絵梨香ちゃんに、そして、おじさんになった悟に会えたことに。」
そう笑った。
「おじさん?」
「本人はまだまだ若いつもりなんだけどな。」
そう悪態をつくと、
「ごめん。でも僕だっておじさんになっちゃたよ。いや、いい意味だよ。うれしいんだ。まさか年を取ったあんたに会えるなんて思わなかったし、ましてやその娘に会えるなんて想像すらしなかったことだからさ。」
昔のことを思い出してみると、どちらかというと口数が少ない隆博が饒舌になっていることが珍しかった。少し緊張しているように見えた。
「隆博は最初から俺の娘だと知っていて、手紙を?」
気になっていた事を聞いてみた。
「いや、最初は全然わかんなかったよ。」
「文体がなんかあんたに似てるな、って思ってたくらいで確信はなかった。」
「どこでわかった?」
「消印だ。悟がニューオリンズにいたのは知っていたからね。」
「え、何で?」
びっくりして尋ねると、
「翻訳、出してただろ?」
仕事の合間に2年に一冊のペースくらいで出していた。
「知ってたのか?」
「最初に知ったのは12年位前の話だ。僕がまだあの会社に勤めだして3年くらい経ったころだったから。あ、先越されたって思ったよ。でも軽々とやってのけるとこなんて、らしいなって思って感心したよ。」
「ああ、あれな。結局、営業に配属されて、全く畑違いになっちまったけど、好きなことは諦めきれなくて。うちの会社、通訳・翻訳の部門もあるからそっちの方で手のすいたときなんかに仕事もらったりして。それで、つてがあってな。ぼちぼち翻訳本出させてもらえるようになって。」
「すごいよ。それで僕はこの業界にずっといるだろ。やっぱ、つてがあって情報が入って来るんだ。訳者のね。で、ニューオリンズにいることは知っていた。あとは勘かなあ。」
「うーん。でも最初は本の感想なんか書いてきてくれたんだけど、こっぴどく批判的な内容ばっかりで。」
絵梨香がばつが悪そうに下を向いた。
「でもまあ、中傷や嫌がらせめいた手紙なんて結構来るもんだし、辛辣で簡潔な表現の仕方が何か懐かしく思えて。あのワークショップで課題を出すと、あんたにいつもこっぴどく批判された。あの時のことを思い出させるような文体だったんで。」
隆博は懐かしそうに笑った。
「え、パパってそんなんだったの。」
「ははは。」
目をかけたい、才能があるって思う後輩にはかなり手厳しかった。中学校から運動系の部活にいたからかもな。
「何か懐かしくて、嬉しくて、それで返事を出して。」
絵梨香は満足そうにうなずきながら俺たちの会話を聞いている。
「全く俺は何にも知らなくてびっくりするよ。いつの間にか成長して、親の知らないところでいろんなことをしてるんだから。」
「あら、パパは仕事ばっかりであんまり私のことなんて眼中になかったんでしょ。」
「ひどいな、そんな言い方。ちゃんと見てるとこは見てるよ。」
「でも、隆博はいつの間にか名前を知られるような作家になっていて、びっくりしたよ。」
10年前に賞を受賞してから、彼の本はよく売れるようになった。結構なペースで書店に彼の本が並び、それがどれもそこそこの評価を受けていた。もちろん、顔も名前も知られるようになって、マスコミやメディアにも時々出ていたことは自分も知っていた。