13話 その思いは消せない
〝君にそんな思いをさせていたことをすまないと思っている。自分が出来ることで何かの罪滅ぼしになるなら、絵梨香ちゃんのために何でもするよ。だけど、ひとつだけわかって欲しい。君のお父さんは、僕にとって大事な人だ。今の僕があるのは君のお父さんのおかげなんだよ〟
「そう隆博さんは言って、パパと出会った頃の話をしてくれたわ。」
「今の自分があるのは俺のおかげだって?」
隆博は高校生の時、好きだった同級生の女の子がいた。
でも、その子はほどなくして事故で亡くなった。
彼女にもらったプレゼントの中に洋書が数冊あった。その彼女は翻訳家か通訳になりたいと言っていたらしい。隆博はその子の夢を抱えて大学に入ってきた。頭もいいし、才能も文才もあった。目をかけてやりたかった。大学生になった頃からアルバイトでずっとやっていた実務翻訳の仕事をあいつに押し付けた。
当時、担当だったコーディネータの森田さんにやつの世話をお願いした。そしてほどなくして俺は卒業し東京へ出てきた。
そのことを言っているのだろうか。そのアルバイトが、あいつの翻訳家兼作家という肩書きのベースになったとでも?
「もちろん、仕事のことも言っていたけど、隆博さんは〝君のパパとの付き合いは本当に短いものだったけど、いっぱい大事なものをもらったんだ。たとえ一緒にすごした時間が短いものだったとしても、僕が得たものは何物にも代えられない。その思いは消せない。消せば僕が僕でなくなるんだよ。〟って。〝だから絵梨香ちゃん、ごめん。許して欲しい。〟って。」
「その時の隆博さんの目を見たら、何も言えなくなっちゃったの。」
絵梨香はため息をついた。
「じゃあ、何故俺に会えって言うんだ。」
「隆博さんのあの目を見たら、私・・・。」
「目?」
絵梨香は思い起こすように宙に目を漂わせた。
「純粋に人を好きになれる人の目。そういう目だわ。私はまだ本当の恋を知らない。ガイがいるけど、だけどあんなふうになんて思えない。隆博さんのことが憎いんだけど、それとは反対のところで私はあの人のことが好きだなって、思ってしまったの。優しいし、とても綺麗な目をしている。私に会えて嬉しいって、すっごい笑顔見せて、帰り際にぎゅって。」
絵梨香は自分で自分を抱きしめる仕草をした。
「そうか。」
絵梨香は思い直して、あの後何度も隆博に手紙を書いたらしい。パパと会ってくれって。
だけど、隆博は頑として会わないって、会うべきじゃないって。
絵梨香はそれからも手紙を書いたり、電話をしてみたりもしたけど、隆博に連絡は取れなかったらしい。彼の本が出ている出版社まで電話したらいい。
「それでどうしたんだ。」
「半年前にパパが帰国準備で日本へ数日帰国した時あったでしょ。」
「ああ、あれ。お前が無理やり学校サボってついてきたやつな。」
「うん。」
絵梨香の中学時代の友人。真奈美ちゃん。
彼女が入院しているから、お見舞いに行きたいと駄々をこねて、無理やり俺の帰国にくっついてきた。
「あ、あの時か!」
真奈美ちゃんのお見舞いに行ってその後、中学時代の友人の所へ行くと夜遅くまで帰ってこなかった。
「真奈美ちゃんの入院って。」
「うそ。」
「は。」
〝隆博さんのオフィスまで行って、夜中まで居座った。説得して説得して、何とかパパに会う約束を取り付けたの。〟
呆れた。
その行動力、やはり思い立ったらいてもたってもいられないところは俺譲りか。
俺の娘は、いつの間にこんな大人になったんだろう。俺の知らないところで自分の考えで行動し、自分の言葉で自分の考えを話し、それに親のことを心配するようになったなんて。
彼女は今まで思い煩っていたに違いない事柄について話が出来たことで、ほっとしたような表情を見せた。でも、強い意志を感じさせる薄い唇をぎゅっと結んで、俺の次の言葉を待っていた。
絵梨香があいつに何と説得したのかはわからない。会ってもいいと言ったらしいが、それがどんな意味を持つのかわからない。あいつが今どんな生活をして、どんな考えで俺たちに会おうとしてくれているのかはわからない。それに第一に絵梨香のことを考えた。心配してくれるのは嬉しいけど、そのことで娘に迷惑などかけることなんて出来ない。会えば会ったでどんな展開になるかわからない。それが一番自信がない。それにこんなことを娘に言われて当惑しない父親なんていない。
あれこれ思いをめぐらせていつまでも口を開かない父親にじれて、絵梨香は続けた。
「パパ。」
問いかける娘に、慎重に慎重に言葉を選んでいる自分がいた。
「絵梨香、パパはこのままでいい。この生活に満足している。絵梨香が成長して、自分のやりたいことや夢を叶えて、いつか素敵な人と出会って結婚して、それまで絵梨香と一緒にいれればいい。それがパパの望みなんだ。」
絵梨香は腑に落ちないと、不服そうな顔をして口を開いた。
「パパ、私ね、どうしてこんなことを思うのか、自分でもよくわからないんだけど、このままパパとあの人が離れているのが嫌なの。どうして?って聞かれてもわからない。
あの人のことが好きなの。今でも憎いと思っている部分はあるけど、でも何故かわからないけどこのままでいいと思えないの。隆博さんは、きっとパパにとって必要な人じゃないかと思うし、それって、きっと私にとっても必要な人なんじゃないかと思うの。」
絵梨香が戸惑いながらも、ことの本質を見抜いているような気がした。
シンプルだ。実にシンプルだ。
世間体がどうの、今さら会ってどうなるとか、そういったことじゃなく、自分が望んでいるもの、それだけを見ればいいって。
だけど、俺はそんな自分を見たくない。だけど、本心は・・・。
娘はそれを、そんな父親をごく自然に察している。そして、それを受け入れようとしている。
「パパ。」
絵梨香の呼ぶ声で現実に引き戻された。
座っているベンチに覆いかぶさるようにして茂る木々の間に、風が通り抜け葉が音を鳴らした。
急に、絵梨香に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「絵梨香。」
絵梨香の顔を覗きこんだ。絵梨香もまっすぐに俺の目を見た。
「いろんな事を思い起こすと、ママに寂しい思いをさせたのはパパだ。そのことも含めて・・」
自分の中でゆっくりと復唱した。
そう、その事も含めて、原因を作ったのは自分だ。それだけではないといえば、そうかもしれないけど。
「結果的には離婚してしまい、絵梨香にも寂しい思いをさせている。すまないと思っている。
だから、そんなこと考えられない。自分の事など考えられない。とても・・・。それに絵梨香が隆博のことを憎む気持、それはパパに向けられるべきものなんだよ。」
絵梨香が口を開いた。
「私の中にくすぶっている気持はやはりまだあるんだけど、いつまでもそれを見ていたら先に進めないもんね。隆博さんは絵梨香のこと、強く抱きしめてくれた。あの暖かさ、あの気持は本当なんだと思う。だから私も物事をもっといいふうに考えていこうと思っている。」
「それと、ママのこと、そう、仲良く元通りに暮らせたら、それがいちばんだと思っていたけど、そうすることは、パパもママも両方が嘘をついていることになる。きっと、どこかで苦しくなっちゃう。」
「うまく言えないんだけど、パパが望んでいること、叶えて欲しいの。」
「いろんな事がすっきりして、今すぐにでもゴーサインが出るとは限らないけど、過ぎてしまったら取り戻せないものがあるような気がするの。今なら・・・今しか・・・」
彼女が芝生の上に、視線を泳がせるようにして、言葉を探していた。
絵梨香が本当はこのことを、戸惑いながらも決心し、そして今でも戸惑っていることがわかった。だけど、一生懸命な娘の気持ちがひどく嬉しくて、涙が出そうになった。
そうだな。ここに戸惑ったままではいけないんだな。
「絵梨香。ありがとう。会ってみようか。日本に帰ったら。」
真夏の陽光にきらめく木々の葉の間からもれる光が、彼女の顔に当たって彼女の表情を輝かせているように見えた。
絵梨香は笑った。風が吹いて、彼女の着ているコットンのサンドレスの裾を大きく膨らませて、そして通り過ぎていった。
何だかほっとした。長年胸につかえていたものがやっと取れたような気がした。