12話 絵梨香の傷
俺は黙った。
絵梨香はそれに構わず続けた。
「私はあの時に聞いた話がとてもショックで、パパもママも不潔で汚い。一緒にいたくないって思ってた。パパが私に話したことは、ほんとのことを隠したことばかりだった。ママには他につき合っている恋人がいて、パパには忘れられない人がいる。しかもその人は男の人だった。でもあの事故の後、私パパにほんとに愛されているんだって思って、パパのこと少しでもわかりたくて、あの人の本を読んだの。どんな人なのか知りたくて。あの時のママが破り捨てたパンフレット、こっそり拾って持っていたの。」
「あの人の書いた本を読んで、私とても感激したの。綺麗で美しい言葉で書かれていて、そのお話には繊細で優しい愛情があふれていたわ。そして、それが何なのかよくはわからないんだけど、消えない悲しみみたいなものを感じたの。どの作品にもそれを感じたわ。この作品のままのような人なのか、だといいと思ったけど。」
絵梨香はそこまで言って言いよどんだ。娘の顔を覗き込むと、
「でも、私は隆博さんのことを憎んだわ。隆博さんという存在がなかったら、今もパパとママと私と変わらず3人で暮らせていたかもしれない。パパの気持の中に隆博さんがいなかったら、あの受賞パーティの時、パパが隆博さんに会わなかったらこんなことにならなかったかもしれないって。」
胸が痛かった。絵梨香が負った傷は俺が負わせたものなのだ。
「パパが悪いんだ。」
娘の肩を抱くと、絵梨香はうつむいたまま言葉を続けた。
「パパを責めたかった。ママを責めたかった。だけどパパにもママにも何も言えなかった。苦しくて、どうして自分がこんな思いをしなければいけないのかつらくて、その気持をすべて隆博さんに向けたの。」
「きっかけはどんな人なのか知りたかった。この作品のような人なのか、そうじゃなくてもっとだらしくなくて、非常識で、嫌な人なのか。でも読んだ本から想像するには心の綺麗な繊細な人に思えて。その反対の気持を持っていることが苦しくて、本の内容を批判するようなことを一杯書いて送ったわ。もちろんパパの娘だとわからないように偽名を使って。一通だけじゃなくその後も何通か手紙を送ったの。きっと彼の目に留まったのね。長いスタンスだったけど、忘れた頃に返事をくれて、そういうことが何回かあって、どこで彼が感づいたのかはわからないんだけど、いつかの手紙に〝ひょっとして、君は絵梨香ちゃんなの?〟って書かれていたわ。
それから、隆博さんに本当の事を話したの。手紙でね。隆博さんは絵梨香のこと嫌な子だと思ったと思うわ。」
「どうして?」
「ひどいことを書いたの。」
「どんな?」
絵梨香は困ったように口元を曲げて、泣きそうな顔になった。
「パパに言えないわ。そのくらいひどいことをよ。一杯。」
「それいつ頃のこと?」
「一年くらい前。」
俺たちの間に沈黙が流れた。
絵梨香は芝生に目を落とし、じっとしていたがやがて口を開いた。
「パパに内緒で彼に会ったの。」
びっくりして隣に座る絵梨香の横顔を見た。
「一年前に、葉月叔母様のお式に出席する為に日本へ帰ったでしょ。」
「ああ。」
妹の葉月が結婚式を挙げることになり、2週間ほど帰国したことがあった。
「その時に隆博さんに会ったの。」
知らなかった。絵梨香が一日二日いなかった時があったが、友達と出かけているとばかり思っていた。
「隆博さんが、会いたいって手紙をくれたの。会って話がしたいって。」
「私も彼がどんな人なのか興味があった。そして、実際会ったら、あれも言おう、これも言おう、ずっと私が苦しかった思いも彼にぶつけようって思っていた。」
高円寺の駅で待ち合わせしたと言った。
隆博が駅に絵梨香を迎えに来て、近くのシティホテルのロビーにある喫茶店でお茶を飲んだのだと言った。
隆博は絵梨香にこう言ったらしい。
〝絵梨香ちゃんの手紙はすぐに目を引いた。辛辣な言葉、的を得た簡潔な表現、批判的な内容の中に、それでもちらちらと僕の書いたものに対する賞賛や同意みたいなものを感じた。君のパパが書く文章に似ていると思った。すぐに悟の娘だとわかった。〟
クラシック音楽が低く流れる静かなロビーに面した店内で、彼は絵梨香にケーキを頼み、自分はゆっくりとコーヒーを飲んだ。穏やかな表情を崩さず、ゆっくりと言葉を選んで絵梨香に語った。
〝だけど、君が僕に手紙をくれたのは、純粋に僕の書いたものへの自分の気持もあったと思うけど、君は僕がどういう人間なのか知りたがっていると思ったし、それに父親と僕の関係について、絵梨香ちゃんなりに僕に言いたいことが一杯あるに違いない思い、会わなければ、会うべきだとずっと思っていた。〟
「思っていたとおりの人だった。細くて、優しげで、落ち着いたしゃべり方をして、私の顔を見て嬉しそうににこにこして。だけど、私はあの手紙同様、隆博さんにひどい言葉ばかり投げつけたわ。」
絵梨香が苦しんでいるのはわかっていた。直接怒りを俺たち両親にぶつけないのは、そのことによって溝が深まることを彼女は恐れたのかもしれない。だけど、怒りや苦しさはどこかへ向かうべきなのだ。隆博がそれを受け止めた。
「そう、言ったの。あなたが私たちの家庭駄目にしたの。苦しくて、でもパパもママのことも好きだから私は何も言えない。パパにもママにも何も言えない。何年もずっと会わなくても、パパはあなたのことを思っている。私にはわかる。パパがあなたの書いたものをずっと読んでいた。昔から、だいぶ昔からよ。でも、私はパパにそんなことして欲しくなかった。あなたのことなんかすっかり忘れて、ママと私だけのパパでいて欲しかったのよ、って。」
隆博はテーブルに手をついて、深々と頭を下げて、こう言ったらしい。
〝絵梨香ちゃんの言うことはもっともだ。悪いのは僕だ。すまない。〟って。
だけどあいつが悪いのではない。ちゃんと家庭を保てなかった自分が悪いのだ。絵梨香にそんな思いをさせた自分が悪いのだ。




