10話 病室
「…ちゃん、お兄ちゃん。」
かすかに人の声が聞こえた。必死にその声に答えようと目を開けた。
ぼんやりとした視界の中に映ったのは妹の葉月だった。
「…葉月…。」
「大丈夫?私よ。わかる?」
「ああ。」
心配そうに覗き込む妹の丸い顔が、顔に触れるほど目の前にあった。
が、すぐには自分の置かれている状況がわからなかった。
「ここは?」
「病院よ。」
彼女が耳元で囁いた。
「何でお前がいるんだ?」
葉月が病院にいる?
東京から離れた葉山にいる葉月がすぐ俺の目の前にいる。その事が理解できなかった。
俺どうかしたんだろうか?
「お兄ちゃん事故にあったのよ。わかる?」
葉月はもう一度わかる?と繰り返した。
事故…。あの銀色のバンパーが脳裏に浮かんだ。雨の中でくるくると回り続ける赤い傘。
咄嗟に、
「絵梨香は!」
起き上がろうとする俺を葉月が抑えた。天井がぐわんと音を立てて回った。
「大丈夫よ。ちょっと腰の辺を打っただけ。軽い打撲で済んだわ。」
そうか。俺たち事故にあったんだ。そうだ。思い出した。
でも、ああ、絵梨香は大丈夫なんだ。
それを聞いて全身から力が抜けるようで、また意識が朦朧とした。
そうだ、乃理子は?
「乃理子は?」
問いかけると、葉月が困ったような顔をした。
「義姉さん、たぶんすぐに来ると思うんだけど。」
「たぶん?」
(何で?すぐ来ない?)
「俺はいいから、お前、絵梨香についていてやってくれ。」
「絵梨香ちゃんは大丈夫よ。お母さんとお父さんが病室についているわ。」
(親父も?)
「親父が…。」
「そう。だから、お兄ちゃんは何も心配しなくていいからゆっくり休んで。」
(親父が。)
もう一度頭の中で反復した。
彼は子供を自分の思い通りに、自分の敷いたレールの上を歩かせたい人だった。
親父の言う事に反発するとよく殴られた。従順で大人しい一個違いの弟とは違って、負けず嫌いで頑固な俺は親父の言う事に従う事が出来なかった。親父は暴力で俺をねじ伏せようとした。子供の頃のそのことがあって、俺は親父を憎んでいた。でも大人になって、絵梨香が産まれて自分が親になってみると、初めて親父のことを肯定的にみられるようになっていた。本当に少しずつだったけど。
今なら親父が何故あんなに厳しかったのかも、何故暴力で支配しようとしたのか、すべてを肯定して受け入れる事は決して出来ないけど、それでも少しずつ親父の事がわかってきたような気がしていた。それにそんな親父のお陰で、俺は同年のやつらに比べて早く自立できたしいろんな事も習得できた。今の仕事にもそれが役立っている。厳しかった、辛かったことが後になって、それが自分にプラスになることだったなんて、それを乗り越えてみないとやっぱりわからないことなんだろうな。
お袋はそんな親父に口答えもせず、従っているようなおとなしい人だった。もちろん俺のことをかばってはくれたが、子供心にも何故あんな親父と別れもせず一緒にいるのだろうと不思議に思っていた。が、男と女の事情なんて当人同士にしかわからないもんなんだと最近は思うようになった。
絵梨香が産まれると2人とも絵梨香のことを可愛がり、あの厳しくいかめしい親父でさえ絵梨香には優しい一面を見せていた。だから、親父が駆けつけてくれたのは意外でもあり、最もであった。
あの当時、葉月はまだ葉山の自宅に両親と一緒に住んでいた。急を聞いて葉山から駆けつけてくれたんだろう。
その後、乃理子のことをもう一度聞いた覚えがある。
葉月は、お兄ちゃんは心配しなくていいから眠りなさいと繰り返した。
麻酔のせいか意識が何度も朦朧として、葉月の声が段々遠くなった。自分の記憶に在るのはそれだけだ。
その後、2日程して意識を取り戻した。
横断歩道に突っ込んでくるトラックから絵梨香を守り、代わりに俺が跳ね飛ばされたらしい。本当だったら死んでいた。その間ずっと、葉月が俺を看病してくれた。
あの後、葉月から聞いた。
乃理子は連絡がつかなかったんだって。自宅にもいなかった。携帯に電話してもつながらなかった。乃理子が病院へやってきたのは翌日の朝だった。
俺が一番最初に思ったのは、絵梨香の側についていてやって欲しかったということだ。あんな大きな事故をして、おまけに俺は死にかけているし、いくら叔母である葉月がいても心細かっただろう。だから、母親がすぐに来て、あいつについていてやって欲しかったんだ。
俺がだいぶ元気を取り戻し、ベッドに座って葉月から食事の介護を受けていた時に、彼女は言いにくそうに俺にこう言った。
〝お兄ちゃんたちうまくいっていないの?〟
あんな時間まで、普通の主婦である乃理子と連絡が取れないなんて、おかしいと葉月は思ったみたいだ。昔から感受性が高く、勘がよく働くやつだった。飛んできた乃理子の格好を見てぴんときたらしい。俺もたぶん、いや、あまり考えたくないことだけど、もしかしたらとは思った。
事故の後、だいぶ経ってからあいつに問い詰めた。そのままにしておくことも出来たが気になって仕方がなかった。
やはり、そうだった。また、よりが戻っていたんだ。あの男と。あの男と出かけていて連絡が取れなかった。それが直接の離婚の引き金になった。やはりあの時、心細い思いをしているだろう絵梨香の側に母親なら何故側にいてやれなかったんだという思いはどうしても消えなかった。