二 隔たり
それから二週間ほどかけて、家具や日用品を揃える一方で様々な場所を探索した。
颯吉と海鈴のどちらかの部屋に集まり、その日に見たものについて翠を含めた三人で意見を交換する。
この世界の人々と本格的に関わることになった際にボロを出さないために、テレビで流される番組やニュースについても積極的に見るようにしていた。
そんな生活の中で、颯吉には一つだけ気がかりなことがあった。
◇
二〇〇九年五月一日。
午後二時を少し過ぎた、三時のおやつにはまだ早い時間帯。
傾けないように注意して運んだ白い箱を、颯吉が自身の部屋のテーブルへと置く。
「ケーキ、冷蔵庫に入れておく? ……いや、今から食べようか」
翠と海鈴に確認を取ろうとして、きらきらとした表情で箱を見つめる二人の姿を目撃した颯吉は、すぐさま方向転換する。
「本当かい!? いやー、悪いね!」
「私も手伝う!」
「ありがとう、海鈴ちゃん。まあ、すぐに食べた方が美味しいだろうし。飲み物はなににする?」
きっかけは、生活用品を買い足しに行った帰り道だった。
隠れ家のような場所にある洋菓子店を見つけた翠が、目を輝かせ期待に満ちた顔で颯吉たちを見たことで、色とりどりのケーキの購入は決定したというわけだ。
「私はコーヒーかなー。スイさんはどうする?」
「じゃあ、僕もコーヒーにするよ。お願いできるかな?」
颯吉は「了解」と返して、さっそく海鈴とともに準備に取りかかる。
鳥から小石、またその逆へと。翠は自由に姿を変えられるらしい。
公共交通機関を利用したりお店に入るときは、深緑色の小石に変化して颯吉の服のポケットに入っていることが多かった。
「そういえば……神室さんの結界って、私たちじゃどうしようもないの?」
「現状だとそうなるかな。僕の管理権が数パーセントしか戻ってないのもそうだけど、颯吉くんと海鈴ちゃんの祝福の鍵――その性質と能力が、まだわかっていないからね」
ギフトキーに関しては、肌身離さず持っていた方がよいというのが翠の見解だった。
そのため、出かけるときは二人とも鍵と同じ銀色のネックレスチェーンに通して首から下げ、服の下に隠すようにしている。
「それがわかれば、俺たちの能力で結界を破壊できるかもしれないのか?」
深緑色の嘴を軽く合わせた翠は少しばかり悩んでいる様子で、
「……ごめん、はっきりとはわからないんだ。結界との相性もあるだろうし、神室くんたちの力がどの程度なのかもまだ把握できていない。仮に彼の管理権が弱まって僕の管理権が戻るなんてことがあれば、破壊自体は可能なんだけどね」
「私たちの性質は、スイさんにもわからないんだよね? 本人が自覚するのを待つしかないって、前に言ってたし」
海鈴の指摘に、「そうなんだよねえ」とうなずいた翠がぽふりとクッションに座る。
「要は本人の可能性だからね。推測できるといっても、人間の可能性なんて無限にあるわけで――管理者であっても、ワタリビトの性質を特定することは難しい」
完成したコーヒーと食器類をテーブルに配置しながら、結界とギフトキーについては保留になりそうだなと判断する。
その考えを裏付けるかのように翠は湯気が立つコーヒーを見つめて、
「まあ、今日の議題は、この二週間を踏まえての今後の動きについてなんだ。ギフトキーの性質や能力については、時間が解決してくれるはずさ」
ティラミスを皿にのせながら、颯吉は探索したお店や建物、すれ違いざまに聞こえた人々の会話などを思い起こしていた。
「……年代が昔ってこと以外は、特に違和感はなかったと思う。そりゃ、知らないコンビニがあったりとか、細かいところは違ってたけど」
二週間を過ごした感想としては、そんなものだ。
とはいえ、二〇〇九年の颯吉はまだ小学生ですらなかったため、もとの世界と比較するのは難しいかもしれない。
小さな嘴をめいいっぱいに開けて、翠はフルーツタルトをつついていた。
その味がお気に召したのか、花が飛んでいるような雰囲気になってから視線をこちらに向ける。
「まあ、確かにね。僕たちが見た限りだと、なにか争いごとが起こっているだとか、危機に瀕しているだとか。そういうのはなさそうだったかな」
「治安が悪いとかでもないし、」
言いかけて、選んだショートケーキを見つめたまま沈黙を保つ海鈴の姿が目に入る。
料理や食べることが好きだという彼女は、いつもなら美味しそうにケーキを頬張っているはずだが、今はどこか思い詰めた表情をしていた。
「――海鈴ちゃん」
思わず声をかけると、考えごとをしていたのか「颯吉さん、どうしたの?」と遅れて反応する。
その様子にようやく決意を固めた颯吉は、ずっと気になっていたことを確かめることにした。
「答えたくないなら、無理に答えなくていい。でも、この世界のことで……なにか、気になってることがあるんじゃないか?」
こちらを見返す瞳が、大きく揺れる。なにかを言おうとして、けれど迷っている。そんな表情だった。
海鈴は一度大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出し――決意したかのように、唇をぎゅっと引き結ぶ。
それから、ようやく颯吉の顔を見返すと、
「颯吉さんの世界ってさ。平均寿命は、どれぐらいなの?」
質問を投げかける声からは、いつもの明るさは微塵も感じられない。
両手のこぶしを強く握りしめるその顔は、いまだに強張ったままだった。
「寿命? えっと、確か……世界全体だと七十歳ぐらいで、俺の暮らしてた日本だと八十代半ばぐらいかな。もちろん、国によって偏りはあるけど」
突然尋ねられた内容に少し驚きつつも、脳内にある情報を思い出しながら答えて、
――そのときの海鈴ちゃんの表情は、この二週間で初めて見るものだった。
驚愕、悲痛、あるいは諦念。そうした感情が、ごちゃ混ぜになったかのような。
その表情を見てしまった颯吉は、彼女の心のなにか触れてはいけない部分に触れてしまったのではないかと狼狽える。
「ごめん、俺、」
「ううん、大丈夫。颯吉さんの様子を見て、予想はしてたんだ。でも、やっぱり……実際に聞いてみると、違うんだなあって」
力なく笑ってこぼす姿に、普通ならありえない、ただし異なる世界ならば考えられる可能性が浮上する。
この二週間、海鈴が道行く人たちとすれ違うとき。決まって、一定の範囲の人たちのことをその目で追っていなかっただろうか?
もしも、それが無意識であるのなら――、
颯吉たちのやり取りをそれまで黙って聞いていた翠がクッションから立ち上がると、
「僕は管理者で、颯吉くんと海鈴ちゃんの世界の管理者たちとも面識はある。だから、ごめん。二人の事情も、大体は把握していて……その上で、僕はあの空間に君たちを呼び込んだんだ」
「そっか。私の世界のことも知ってたんだ。……って、スイさんは管理者なんだし、知っててもおかしくないよね!」
明らかに無理をして笑う海鈴に、翠が申し訳なさそうに「今まで、黙っててごめんね」と返す。
慌てた様子で「大丈夫だから、気にしないで!」と手を振った彼女は、今度こそ颯吉の顔をまっすぐに見つめる。
「私の世界はね。どの国の人もみんな、六十歳を迎えることはできなくなってるの」
「――え」
なにか、鈍器のようなもので殴られたのではないかと錯覚を起こす。
それほどまでに、彼女が口にしたことは颯吉にとって理解しがたい内容だった。
「……ここに来るまで、私はそれが普通のことだと思ってた。私が生まれたとき、日本で一番長生きしてる人は六十五歳ぐらいだったらしいの。でも……それからも、世界中でどんどん寿命が下がっていって」
「僕も管理者と知り合いだから、話には聞いているけどね。原因が本当に不明なんだ」
「不明って……っ、じゃあ、なにもわからないまま、寿命が減っていってる……?」
情報を処理しきれないでいる颯吉に翠はゆっくりとうなずき、
「海鈴ちゃんの世界は、もともとは颯吉くんのいた世界とそれほど変わらない平均寿命だったんだよ。それなのに、あるときから――人も生物も、どんどん寿命が下がり続けてる。アイツいわく、世界がその状態が最適だとでもいうかのように、増えすぎた命の数を間引こうとしてるんじゃないかってね」
声に影を落としながらも、彼は淡々と情報を口にする。
翠の言葉を静かに聞いていた海鈴の視線が、徐々に下がっていく。
それまで強く握っていたこぶしを開いて、彼女は手元のコーヒーを一口飲んで軽く息をついた。
「六十歳より先を生きられていた人たちはね、今はもう誰もいないの。今まで大きな病気なんてしたことのない元気な人でも、六十歳になる前にみんな……。周りの大人の人たちは、電源が……切れたんだって。そう例えてた」
「は……? 電源って、そんな……っ! それ、その世界の管理者にはどうにもできないのか!?」
翠の言い方からして、それは管理者であってもどうしようもないのだろうということぐらい、わかっているはずだった。
それでも、口にせずにはいられなかった。納得することができなかった。
気づかわしげなそぶりで、翠が目を伏せる。
「それは……ごめん、難しいと思う。なにか特定の病が原因だとか、そういう訳じゃないんだ。原因がわからないというのも、もちろんあるけどね。僕たちは決して万能ってわけじゃない。根本的には、その世界の行く末を見守るしかないんだ」
「……そうか。いや、俺の方こそ声を荒げたりしてごめん、翠さん。海鈴ちゃんは……だから、いつも年齢がずっと上の人たちのことを見てたんだな」
「ふふっ。やっぱり、気づかれてたんだね。私の世界では、実際にその年齢の人たちを見かけたことがなかったから。ちょっと、信じられなくて」
コーヒーカップの水面から目を離した海鈴は、颯吉と翠の顔をしっかりと見て告げる。
「私ね、手がかりが欲しかったの」
「手がかり?」
翠の空間で、なぜ彼女があんなにも別の世界に行くことに積極的だったのか。その理由が今明かされようとしていた。
「そう。違う世界の自分たちと会えば、なにか寿命を延ばすヒントが見つかるかもって。気にしないようにしてたけど、本当は……っ、いつ、お母さんやお父さんが亡くなっちゃうのかって、ずっと怖かったんだと思う」
絞り出すような声音で、言葉は震えていた。だが、唇を強く噛んで泣くまいとしているのか、その瞳から涙が落ちることはない。
先ほど冷静に海鈴の世界について説明していた翠は、その様子に痛ましげな表情を浮かべている。
「……」
彼女を励まそうと言葉をかけようとして、颯吉はなにも言うことができなかった。どんな言葉も、気休めにしかならないと感じたのだ。それどころか、明かされた内容をどう受け止めればいいのかすら、わからない状態だった。
そのまま誰も言葉を発することなく、少しの時間が経過して――唐突に海鈴が明るい声を出したことで、場の空気が変わる。
「ええっと、二人とも、湿っぽい話になっちゃってごめんなさい! 暮らしてた世界が違うんだし、気にしたってしょうがないよね! ……それに、さ。こっちの世界の寿命が、私のいた世界よりもずっと長いなら……この世界にいる私と家族にとっては、いいことだろうし!」
自分自身を励ますように明るく振る舞おうとするその姿に、
――そうだ。海鈴ちゃんはあんなにも、こっちの世界の自分とその家族のことを気にしてたじゃないか。神室さんとその仲間にも今のところ遭遇してないし、そろそろ動くべきだ。
「海鈴ちゃん、翠さん。この世界の俺たちの様子を、そろそろ確認しに行かないか?」
二人の顔を見据えて、少し緊張した面持ちで颯吉は切り出した。
すると、この世界に来た目的の一つを持ち出されたことで、影が差していた海鈴の榛色の瞳に光が灯る。
「そうだね、行こう。この世界でなら、私もその家族も……ずっと長生きできるはずなんだから」
颯吉たちは、翠の返答を静かに待つ。
こちらの気持ちが固まっていることを感じ取ったのか、真剣な様子で彼はうなずき返した。
「わかったよ。明日、まずは海鈴ちゃんの家に三人で行ってみようか」
◇
その日の夜。
あれから、テレビを見ながらとりとめのないことを話したり、一緒に夕食を作って食べたりと――笑顔で「また明日ね!」と手を振る海鈴は、いつもの調子を取り戻していたように思う。
「……全然、寝れない」
窓からの月明かりだけが差し込む部屋の中、翠の方へと視線をやる。
先ほど「おやすみ」と挨拶を交わした彼は、テーブルに用意した寝床であるバスケットの中で眠っていた。
翠いわく。颯吉たちが眠っている夜の間は、こちらの分身の姿はスリープ状態になっているらしい。
彼には、この世界の日本以外の管理業務がある。非常事態が起こればすぐに対応できるようにしつつ、それ以外の機能については省エネモードにしているとのことだった。
ベッドに寝転んではみたものの、昼間の内容がずっと頭から離れない。
「六十歳より先の人生が、存在しない世界……」
誰かに聞かれているわけでもないのに、小さな声で口にする。
颯吉の世界では六十五歳以上と定義される『高齢者』の概念は、ひょっとしたら海鈴の世界にはないのかもしれない。
海鈴とは、まだ出会って二週間やそこらだ。
彼女の世界に関しては部外者も同然で、異なる世界で生きてきた自分がどんな言葉をかけようと意味をなさないことは、颯吉自身が一番よく知っていた。
――そもそも。海鈴ちゃんの世界が正しいのか間違ってるのかすら、俺には判断しようがない。
それでも、彼女は困っている人がいれば迷わず手を差し伸べることができる、まっすぐで優しい子だった。短い期間であっても、一緒に行動していればそれぐらいはわかる。
そんな子が自身や周囲の人々の明確な命の期限を意識して生きていることに、なにも思わないはずがなく。
そうして、答えが出るはずのないことを考えているうちに――窓の外から見える空は白み始めていた。