一 ようこそ
徐々に光の渦が収束して。
反射的に閉じていた目を、ゆっくりと開く。
「……は」
空気とともに、小さな声が自然と口からこぼれ落ちる。
目の前に広がっていたのは、颯吉にとってどこか既視感のある景色だった。
◇
扉をくぐり抜けようとした矢先に膨大な光に包まれたため、なにが起こったのかはわからない。
ただ、先ほどまでいた静謐な翠の空間とは正反対の――様々な音、色、そして空気を内包する世界がそこにはあった。
「海鈴ちゃん、平気? なんか、すごい光だったけど」
「うん、大丈夫! ……ここって、東京だよね?」
「まあ、そうだろうな。『秋葉原駅』って書いてあるし」
喧騒のもとをたどると、それは車がせわしなく通り過ぎる音や通行人の話し声、あるいは店の前で呼び込みをする人の掛け声であったりと、ずいぶんと聞きなれたものだ。
想像していた少しばかり物騒な日本の姿とは異なる、颯吉がよくもとの世界で直接あるいはテレビ越しに目にしていた光景ともいえる。
そして、颯吉と海鈴はというと。
どういうわけか、駅の改札を出た先にある待ち合わせに使われていそうな場所に立っていた。
「……?」
ふと、違和感を覚えて顔を上げる。
一瞬、上空でなにかが強い光を放ったかと思えば、
「鍵……? まさか、あれ」
目を凝らした先には、手のひらに乗る程度の大きさの鍵が二つ。
どちらも淡い光を放ちながら、颯吉たちがいる場所に向かってゆっくりと落ちてきていた。
急いで辺りを見回すが、鍵が空に浮かんでいるという異常な事態に誰一人として気づいた様子はない。
「……普通なら、騒ぎになるはずだけど」
「私たち以外には、鍵が見えてないのかな?」
同じく空を見上げていた海鈴に声をかけると、彼女も状況を把握しきれていないのだろう。
改めて、周囲に視線をやった――かと思えば、なぜか表情を強張らせて颯吉の方へと向き直る。
「海鈴ちゃん? もしかして、急に景色が変わって気分が悪くなったりした?」
「……え、あっ……。ううん、平気! えーと、さっきまでスイさんと話してた場所、すごく静かだったから。ちょっと、びっくりしちゃっただけ!」
そう言って笑う海鈴の表情はまだ少しぎこちないものの、なんとなくあまり追及してほしくなさそうな気配を感じて、それ以上聞くことはしなかった。
そうこうしているうちに、掴める位置まで降りてきた鍵を颯吉たちは手に取ってじっくり眺めてみる。
おそらく、これが翠が言っていた祝福の鍵というものなのだろう。
普通の鍵よりもやや大きめのそれは艶やかな銀色で、彼が描いた絵とほぼ同じ見た目をしていた。
唯一、異なる点があるとすれば――、
「この鍵に付いてる石、俺のは五つとも透明というか……ダイヤモンドみたいだ」
「私のは、橙色だね。スイさんが言ってた通り、人によって魂の色が違うからなのかも?」
「あ、そういうことか! ……いや、でも。それで、透明ってことは」
考え込む颯吉の隣で、なにかに気づいた様子の海鈴が「そういえば」と辺りを見渡す。
「私たち、急に人混みの中に出てきたのに、みんな全然反応してない……?」
「言われてみれば、確かに。というか、さっきまであった扉はどこに消えたんだ?」
すると、颯吉たち以外の聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「あの扉には周囲に違和感を抱かれることなく、指定した座標に転移させる機能があるんだよ。だから、二人が現れた瞬間のことは、みんなの記憶に残らないようになってるのさ」
透き通るようなその声が響くのとほぼ同時に、肩に少しの重みを感じる。
颯吉がそこに目をやると――スズメよりも大きい、二十センチほどの大きさの鳥が乗っているではないか。
「わあっ、綺麗な鳥……って、あれ? ひょっとして、スイさん?」
全体的に薄緑色の羽毛に目の色がまるで翡翠に見えるその鳥は、首周りだけがマフラーを巻いているかのように柔らかな白色だった。
おまけに、薄茶色の革紐に深緑色の石がついたネックレスまで下げている。
「ちょっ、ちょっと待って。一旦、移動しよう。怪しまれる」
「あっ、そっか! さすがに、ここで話すのはマズいかも……!」
流暢に話す珍しい色合いの鳥は、ほぼ間違いなく注目を浴びてしまう。そう判断した颯吉は、翠と思われる鳥を肩に乗せたまま海鈴に声をかけると、人通りが少ない場所へと移動する。
「翠さん、なんだよな? 全体の雰囲気がそっくりだし」
パーカーのポケットに手を入れて確認すると、そこにあったはずの小石がなくなっていた。あの空間で言っていた通り、石から鳥の姿へと変化したのだろう。
翠らしき鳥は、羽を広げて首を軽くかしげてみせた。
「うん? もちろんだとも! この姿は、この日本におけるアバターみたいなものかな」
「スイさんって、神様……じゃなくて、この世界の管理者なんだよね? 私たち以外の人たちにも、見えるの?」
「ちゃんと見えてるよ。なにせ、神室くんが管理する日本になるまでは、たまにこっそり来て周辺を散策してたからね」
鳥の姿をした翠のことを、海鈴は一言断りを入れてからそうっと撫でる。動物好きなのだろうか、心なしかその顔は緩んでいた。
撫でられて気持ちよさそうに目を細めながら、翠が続ける。
「二人とも、祝福の鍵を受け取ったんだね。これで一回目の移動は完了したことになるから、持ち手の歯車の隙間に五つある石のうち、一つは色を失ってるはずだよ」
「えっ、ほんとだ! 一つだけ、透明な色になってる!」
海鈴のギフトキーには、橙色から透明な色へと変化している石が確かに存在していた。
「……翠さん。ちょっと、俺のギフトキーを見てくれないか? 石の色が白、というか透明なんだけど。そもそも、色がないのって大丈夫なのかなって」
漠然と感じていた不安を払拭するため、翠に手元にある鍵を確認してもらうことにする。
彼は颯吉の肩口から身を乗り出すと、ギフトキーに視線を落とし――そのつぶらな瞳を大きく見開いた。
「……そっか。颯吉くんも、そうなんだね」
滑り落ちた言葉に込められた感情がうまく読み取れず、困惑する。
「それって、」
「大丈夫! この石の色は、現時点でのその人物の魂の軸となる要素が色として出ているに過ぎないんだ。色がないように見えても、魂の状態はなにかのきっかけで変わるものだ。そのまま変わらないこともあれば、変化することだってある」
自身のギフトキーにある石を見て、海鈴がぽつりとつぶやく。
「そっか、ずっとその色だとは限らないんだね。私を構成する要素……」
「僕から見ても、颯吉くんの魂の一部はちゃんとここに存在している。よく見てごらん。五つの石のうち、一つだけ輝きを失っているだろう? それこそが世界を渡った証だよ」
柔らかい口調で羽を少し広げ、ある一点を指し示すような仕草をする翠。
促されるように、改めてギフトキーの歯車に挟まっている五つの石をよく見る。
すると、一見わかりづらいが――透明ではない、くすんでいる石が一つあった。
「あ、確かに。ちょっとくすんでる。そっか、ちゃんと正常に動いてたんだ」
「でも、透明ってなんかかっこいいよね! なににも染まらないぜって感じで……!」
落ち着いた口調の翠の説明、そして海鈴の心配そうな表情でありながらもこちらを励ます言葉に、ようやく無意識に強張っていた肩の力を抜くことができた。
ひとまずこの鍵のことは保留にして、今後のことについて切り替えようと手のひらに置いていたギフトキーを握り直す。
颯吉のもう大丈夫だという視線を受けた翠はうなずくと、
「これからのことだけど、僕もこの分身の姿を通じて神室くんのいる今の日本の状況を把握したい。外から結界に触れて読み取れた情報は、ほんのわずかだからね。もちろん、この姿を通じて君たちと会話することもできるから、わからないことや不安なことはどんどん聞いてほしいな」
「それじゃあ、まずは……今さらだけど、ここって現代で合ってる? 俺、周りの景色になんとなく既視感があるんだけど」
彼は翼を大きく広げて颯吉と海鈴に向かって一礼すると、深緑色の嘴を開いて澄み渡る声でその答えを口にする。
「ああ、そうだよ。颯吉くんに、海鈴ちゃん。ようこそ、二〇〇九年の日本へ!」
そのセリフに、颯吉たち二人はあっけにとられる。
――二〇〇九年って、俺がいた二〇二九年より二十年も前ってことか。
街の雰囲気に関しては、そこまで大きな違いはない気もするけど。
「だいぶ前の時代になるのか。今日って、何月何日なんだろう。春だっていうのはわかるんだけど」
着ていたスウェットの袖を、少しだけ捲る。
そこまで気にしていなかったが、晴れ渡った青空に日差しもそれほど強くない昼間であろう時間帯である。通行人はみんな薄着の服装をしていて、今の颯吉の姿であれば少し暑さを感じるぐらいだった。
改めて辺りを注意深く見ると、颯吉たちがいる場所の近くには桜の木が何本か植えられている。それらが咲いていることから、こちらの世界の季節が春であることは間違いないだろう。
「今日は四月十六日だね! 日本だと、新生活が始まってから少し経ったころかな?」
「俺も海鈴ちゃんも、さっきまでいた世界の季節とは違うってことだな」
「そうだね、ちょっと慣れないけど……違う世界の日本でも、桜があるってだけで安心するかも。私の家の近くに公園があってさ。そこにも、大きな桜の木が植えられてたの」
海鈴の視線の先にある桜の花は満開ではなくすでに散り始めていて、葉桜が見え始めている。アスファルトの地面に落ちた花びらはまるでピンクの絨毯のようで、そよ風に吹かれて時折ふわりと浮き上がっていた。
毎年春になると見ることができる慣れ親しんだ光景に、確かに安心感を覚えていることに颯吉は遅れて気づく。
――なんか。別の世界って割には、そこまで違和感がないような。同じ日本だからなのか?
すると、彼女はなにかに興味をひかれたようで、
「颯吉さん、あの人たちが持ってるのって……携帯電話、だよね?」
「ん?」
そこには、駅前で待ち合わせをしているであろう人々がいた。
彼らのほとんどが手に持って操作している――それは、いわゆる『ガラケー』というものだ。
「ああ、そうか。この時代だと、まだスマホは普及してないんだ。俺も初めて買ってもらったのはスマホだったし、実際にガラケーっていうのは使ったことがないな」
「なっ……!? そうか……! これが、ジェネレーションギャップってやつかー。まあ、颯吉くんと海鈴ちゃんからすれば、未知のアイテムだもんねえ」
驚いた様子の翠が、薄緑色の羽毛を軽く逆立てて大げさに慄くそぶりをする。
「……あれ? スイさんの世界って二〇〇九年なんだよね? スマホもそうだけど、この先の未来の電子機器とかってわかるの?」
不思議そうにする海鈴に対し、翠は翼で腕を組んで(鳥の姿でなぜ組めるのだろう)、大きくうなずいた。
「もちろん! 管理者だからね。それに、渡り人の手続き関係だとかで、ほかの世界の管理者とも普段から交流はしているんだよ」
「そうなんだ。色んな世界のことが知れるのって、楽しそう!」
興味津々といった様子の海鈴のことを、翠はどこか微笑ましそうに見ていた。
今の彼は鳥の姿だが、あの空間で話していたときの人の姿と同じく感情表現が豊かに感じられる。
「ああ、それから。しばらくの間、颯吉くんも海鈴ちゃんも、外を出歩くときは僕と行動してほしい。なにか非常事態が起こったときにこの分身を通じて、さっきまでいた空間に転移させることができるからね」
「ワープもできるんだ……」
思わず感心したようにつぶやいてしまったが、そういえばこの世界の管理者だったなと気を取り直す。
「これから生活するにあたって色々と揃えた方がいいだろうし、まずは僕が用意した住居に案内しようと思う。二人とも、いいかな?」
軽やかな口調で投げかけられたその提案に、颯吉たち二人は特に迷うことなくうなずいた。
◇
先ほどまでいた秋葉原駅から、電車に乗ること約二十分。
翠が用意してくれたという場所は、東京の千代田区内にある、高さが十階建て以上の――どう見ても、値の張りそうなマンションだった。
「嘘だろ……? ここ!?」
淡い水色と白色を基調とした外壁を見上げて、思わず固まる。
駅から徒歩で数分の物件、加えて一目見て築年数も浅いであろうことから、家賃は相当高いはずだ。
焦る颯吉だったが、翠はのほほんとしている。
「そうだよー。色んな場所へのアクセスがいい方が、行動しやすいからね。ちょうどお隣さん同士で二部屋分空いてたから、手続きしておいたんだ」
「……って、あれ? 翠さん、この物件って動物は、」
「もちろん、ペット可の物件さ。僕も入居できるから、安心だね!」
「いやこれ、家賃本当に高いんじゃ……!? 俺、働いても絶対払いきれないし……!」
顔面蒼白になっている颯吉に対して、翠は穏やかな表情でなだめるように、
「そこに関しては、本当に気にしなくて大丈夫だよ。そもそも、僕が君たちをこの世界に呼んだわけだしさ。ここに住んでいる間の家賃、それから生活費は僕の方ですべて受け持つからね。神室くんの件に巻き込んでしまったことへの、お詫びとでも思ってほしいな」
「ありがとうございます、スイさん。私、マンションで暮らすのって初めてで……!」
しばらくマンションを見上げていた海鈴が、目を輝かせながら翠へと向き直る。
本当にここに住んでもいいんだろうかと遠慮する颯吉に、翠がその手を嘴で軽くつつく。
疑問に思いながら手を広げた颯吉は――彼が押し付けてきた鍵を見て、観念した。
――そっか、よく考えたら部屋をすでに契約しちゃってるんだもんな。
「これが、二人のそれぞれの部屋の鍵ね! それから、身分証明書や保険証、通帳とキャッシュカード、携帯電話に関しては、部屋に入ってから渡すよ。ここには、君たちが最終的にどちらの世界を選ぶかを決めるまで住めるようになってるから、安心してほしい」
「ええっと……ありがとうございます。これから、お世話になります」
お礼を言って、渡された部屋の鍵をポケットにしまう。
そこで指先に当たったもう一つの感触に、それまで意識の隅に追いやっていたギフトキーの存在を改めて思い出す。
――神室さんたちに見つからないように、なにか細工とかした方がいいのかな。
また後で、持ち運びについて翠さんに聞いてみよう。
「翠さん。ちょっと気になったんだけど、俺の職場って決まってたりする?」
「おや。行ってみたいのかい?」
「いや、行ってみたいというか……この世界の日本のことを知るのに、それが一番手っ取り早いかなって」
颯吉は、なにも仕事が大好きな人間というわけではない。
ただ、こちらの世界の日本と颯吉が今までいた世界の日本との違いは、同じような生活をしてみないとわからないと考えたのだ。
――まあ、当面の生活費は保証してくれるみたいだし。
まずは、生活に慣れるっていうのもありかもしれないけど。
「あっ! じゃあ、私も学校に行ってみたい! 颯吉さんやスイさんに出会ったときは夏休み中だったから、久しぶりなんだー」
どうやら、海鈴はこちらの世界の学校に行くことに乗り気らしい。
目を閉じた翠は少しの間考えるそぶりをみせると、
「うん、それなら行ってみても大丈夫だと思うよ。ただし、事前に僕が調査してみて、安全を確認してからになると思う」
「それって……私と颯吉さんが、神室さんたちに出会わないように?」
「そうだね。それから、この世界の颯吉くんと海鈴ちゃんがそこに在籍していないことも、確認しておきたい。そっちに関しては、おそらく年齢がズレてるだろうから、大丈夫だとは思うんだけどねー」
彼は、そこで広げかけていた薄緑色の翼を閉じる。
「とにかく、まずは生活の基盤を固めよう。会社や学校について考えるのは、ここでの生活に慣れてからでも遅くはないさ」
そうして、颯吉たちはまだ見慣れていないマンションの入り口へと向かったのだった。