五 向こう側の世界
神様が管理する世界に行くことが決まり少し気が抜けたことで、今まで無意識にスルーしていたこの空間へと意識が傾く。
――この場所って、寝てるときの夢みたいな感じなんだよな。
現実感がないのもそうだけど、なんかちょっと違和感があるというか。
気にするほどではないはずのその感覚に、なぜか引っかかりを覚える。
上手く言い表せないが、まるで本来そこにあるはずのものがないような――、
「それじゃあ、二人ともこっちに来てもらえるかな?」
颯吉たちの話がまとまったと判断したらしい神様が手招きしているのが見えて、
「それ、」
あっけにとられた様子でつぶやく海鈴につられて、颯吉もそちらへと視線をやる。
いつから、そこにあったのだろうか? 神様のすぐ隣には、人一人分ほどの大きさの深緑色の扉が立てて置かれていた。
取っ手や鍵穴がある部分は、くすんだ金色をしている。
この白一色の世界で、アンティーク調で重厚感のあるそれは、独特の存在感を放っているように思えた。
「……?」
ふいに、颯吉と目が合った神様がすっと手のひらを差し出してくる。
その行動を不思議に思っていると――いつの間にか、颯吉の手には扉と同じ深緑色の小石がのせられていた。
「この石を君たちに渡しておくよ。これには、僕の魂がほんの一部だけど込められていてね。僕の分身を作り出せるんだ」
「あれ? でも、結界のせいで日本に入れないんじゃ」
海鈴からの指摘に神様が「そのことなんだけどね」と前置きをしてから、
「今、別世界の日本からの渡り人は、僕の空間を通さずに神室くんのいる日本に直接渡るようになっているんだ」
「……なるほど、俺と日向井さんは疑似的なハザマで来てるからですね。もし通常のルート通りなら、今ごろ俺たちは神様に会うことなく、その神室って人がいる日本に出てきてるはず」
合点が言った様子の颯吉に対してうなずきつつ、彼は再び口を開く。
「ただ、例外として――僕はわずかに残された管理権を行使して、颯吉くんと海鈴ちゃんをここに呼び込んだ。つまり、彼はまだ君たちの存在を認識できていないってことになる」
颯吉に渡した小石に向かって手をひらりと振りながら、「そこを突こうと思ってね」と神様は笑みを深める。
「あ、もしかして! 私たちと一緒に、神様もこっそり神室さんが管理する日本に入るってことですか?」
「そういうことだね! 僕はどうやら神室くんに偽の管理者かなにかで登録されているみたいで、このままの姿では日本に行くことはできないんだ。だけど、颯吉くんと海鈴ちゃんはワタリビトだ。管理者である以上、彼は君たちのことを結界で拒否することはできない」
そうして扉を一度見やってから、彼は自信たっぷりに宣言する。
「分身である石の状態で君たちと一緒にという条件でなら、結界をすり抜けられるはずなのさ」
「なるほど……! それなら、神様の分身も私たちと一緒に日本に行けますね!」
感心した様子の海鈴に、「本来の管理者は僕だからね。いつまでも、彼の思い通りにはさせないよ!」と神様が力強く胸を張る。
「もちろん、この扉に細工をして神室くんに気づかれないようにした上でだけどね。向こうに着いたら鳥の姿に変わるつもりだから、それまでは二人にこの石を預かっててほしい」
和やかな雰囲気の神様と海鈴をよそに、形にならない不安が押し寄せてくる。
――あんまり、考えたくないけど。一割未満の管理権でそこまでできるなら、九割以上の管理権を持ってるその人、かなりヤバいのでは?
颯吉の内心とは裏腹に、神様はというと――扉の取っ手を何度か回してみたり鍵穴の部分を覗き込んだりと、なにやら作業をしているようだった。おそらく、それが今しがた説明していた扉への細工なのだろう。
かと思えば、なにかを思い出したのか彼が颯吉たちの方へと勢いよく振り返る。
「そうだ、言ってなかった……! 当然だけど、颯吉くんと海鈴ちゃんの戸籍や住居、あと当面の生活費は僕の方で保証するからね! そこは安心してほしい」
「えっ、用意してもらえるんですか!? ありがとうございます!」
「あ、ありがとうございます……?」
考えごとをしていた颯吉は、心の中の動揺がそのまま声に出てしまう。
「……とりあえず、この石って俺が持っておいてもいいのかな?」
「はい! 念のためにポケットに入れておけば、バッチリだと思います!」
複雑な心境になっている颯吉に対し、海鈴は不思議そうにしながらも眩しい笑顔で返事をする。その言葉に背中を押され、石をなくさないようにパーカーのポケットに入れておく。
向こうの世界での生活のことはさておき、颯吉には確認しておきたいことがあった。
「あの、神様。そもそも、神室さんたちのいる場所ってわかってるんですか?」
「いいや? まあ、彼ならきっと東京にいるとは思うんだけどね。正確な場所までは、まだわかってないかな」
――つまり、お互いに居場所がわかってない状況になるのか。
よし。神室さんとその仲間にはまだ見つかっていないわけだし、それなら――、
「ちょっと、相談なんですけど……この石は神様の分身で、あっちの世界では鳥の姿に変わるんですよね? それだと俺たち、道端で鳥に向かって神様って呼びかけてるかなり怪しい二人組になるというか。変に目立つんじゃないかと思うんです」
神様は少し考えると思い当たる節があったのか、顎に手を添えたまま軽くうなずく。
「確かに、そういう懸念もあるだろうね」
「あれ? そういえば、私たち、自己紹介のときに神様の名前を聞いてないですよね?」
「ん? 僕に名前はないよー。管理者っていう役割ならあるけどさ」
なんでもないような顔をして、からりと笑う神様。
彼にとって、自身に名前がないということは特に不思議なことではないらしい。
――思い返してみると、最初に出会ったときから『世界の管理者』としか言ってなかった気がする。
「そうなんですか!? うーん……。でも、今居さんは私たちが神室さんたちに見つからないように、目立つのを避けたいんですよね?」
「うん、そうなる。管理者って呼び方だと、どこにいるかわからない神室さんやその仲間に聞かれたらマズいんじゃないかなって。神様、なにか俺たちにこの呼び方で呼んでほしいとかありませんか? できれば、管理者とか神様以外で」
「……そっか、なるほどね。名前、ねえ」
颯吉の提案に神様はしばし考え込んでいたが、最適な案は思いつかなかったらしい。
緩く眉を下げてどこか困ったような笑みを颯吉たちに向けると、
「なにせ、僕たち管理者には役割以外の名称がないからねー。……そうだ! 二人とも、なにか思いつかないかな?」
明るい調子で提案する神様に、颯吉と海鈴は思わず確認し合うように顔を見合わせる。
少しの沈黙を経て、最初に結論を出したのは海鈴の方だった。
「……考えてみましたけど、神様や管理者に関連した呼び方ぐらいしか思いつかなくて。今居さんは、どうですか?」
そう聞かれて、颯吉の頭の中には自然と思い浮かんだ名前があった。
「じゃあ、『翠』っていうのはどうかな? 漢字で一文字なんだけど」
「それって、もしかして宝石の翡翠からですか? 神様の目って、すごく綺麗だし」
「ちょっと安直かもしれないんだけどさ。神様と初めて会ったときから、なんか印象に残ってて」
どうだろうか? と颯吉が当の本人である神様の反応をうかがえば――彼はその翡翠色の目を大きく見開いたまま、無言で身じろぎ一つしていなかった。
――どういう反応なんだ、これ!? もしかして、なにか気にさわったとか?
自分から提案しておいてだけど、いくら人間とは別の存在だったとしても、その姿から思い浮かんだ名前は失礼だったんじゃ、
「あの、すみませんでした! やっぱり、」
「その名前で、呼んでくれるってこと?」
狼狽えていた颯吉は、聞こえてきた言葉につられて神様の姿を再びその目に映す。
気分を害したのではないかという懸念とは裏腹に。
彼はそのかんばせをこれ以上ないくらいにほころばせていた。
「いやあー、ごめんね! 僕、神様とか管理者って意味合い以外の呼ばれ方なんて初めてでさ。なんだか……不思議な感覚というか。僕が思ってた以上に、名前っていいものってことなのかなあ。まあ、ともかく! 僕のことは、これから『翠』って呼んでほしいな」
その様子を見守っていた海鈴は、「よろしくお願いしますね、スイさん!」と嬉しそうな表情になる。
一方で、颯吉は自分のせいで嫌な思いをさせたわけではないと知り、内心でほっとしていた。
「あっ、呼び方といえば……!」
ハッとした様子で、海鈴が勢いよく颯吉の方へと振り向く。
その拍子に肩に少しかかっていた色素の薄い栗色の髪もふわりと舞って、
「私も、日向井さんじゃなくて海鈴でいいですよ?」
「えっ? でも、俺たち会ったばっかりで……」
「だって、名字呼びってどこか他人行儀に感じますし。なにより、私、もっと颯吉さんと仲良くなりたいです!」
なんの含みもないまっすぐな笑顔に、思わずたじろいでしまう。
しかも、すでに名前の呼び方が変わっている。
「そうそう! 僕たち、運命共同体なんだしさ! 僕なんて、最初から君たちのことを名前で呼んでるからね?」
おまけに、神様――改め、翠が横から援護射撃をしてきた。
二人の勢いに圧倒されつつも、考えを改めることにする。
――まあ、二人がそう言うのならいいか。
ん? ちょっと待て。運命共同体ってなんだ。
「わかった。じゃあ、海鈴ちゃんでもいい? 呼び捨ては、なんか気が引けるというか」
「はい! よろしくお願いしますね、颯吉さん!」
「それと、別に敬語じゃなくてもいいよ。他人行儀って言ってたけど、敬語だとそうなっちゃうし。上司や先輩ってわけでもないからね」
大きく目を見開いた海鈴は、「いいんですか!?」と声を上げる。
颯吉がうなずくと、彼女の表情は花が咲いたかのような笑顔になった。
その様子を間近で目にして、この子は本当に表情がよく変わるなあと改めて思う。
「僕も敬語はいらないかなー。管理者っていったって、そんな畏まられるような存在じゃないからね」
「いや、それはさすがに」
先ほどまで神様呼びをしていたこともあり少し遠慮気味な颯吉だったが、
「わかりま……わかった、スイさん!」
海鈴は、あっという間に翠への敬語を取っ払ってしまった。
――まあ、これからは俺も神様呼びをやめるわけだし。本人がそう望んでいるのなら、それでいいのかもしれない。
◇
いよいよ、向こうの世界に行く準備が整ったらしい。
この先の旅路を祝福するかのように、柔らかな微笑みを浮かべた翠が颯吉と海鈴に向かって軽く手を振る。
「それじゃあ、扉の先の世界でまた会おう! ……颯吉くんと海鈴ちゃんの進む道に光があることを、心から願うよ」
優しい色をしたその言葉を聞き届けると、彼に促されて設置が完了した扉の取っ手へと手を伸ばす。
最終確認の意味を込めて、颯吉は隣に立って静かに扉を見つめている海鈴の顔を見やる。
視線に気づいた彼女は、颯吉の顔をしっかりと見返して大丈夫だという意味を込めてうなずいた。
そうして、扉を開けてくぐり抜けようとした瞬間。
颯吉たちを飲み込んだのは――目を開けていられないほどの白い光の渦だった。