三 ワタリビト
「それで、説明してくれるんですよね? なんで、俺たちをゆ……この場所に連れてきたのか」
「うん、誘拐って言うのやめてくれてありがたいけど、本当にちゃんとした理由があるからね!?」
少女へ簡単な事情を説明した結果、颯吉たちはなんとか彼女の誤解を解くことに成功していた。とはいえ、誘拐ではないことと男が人ではない存在らしいということぐらいで、肝心なことは颯吉もわかっていないのだが。
落ち着いて話をするため、ひとまず先ほどの和風の雰囲気が漂う場所へと戻る。
神様から座布団をすすめられ、颯吉たちは履いていた靴を脱いで畳の外に揃えてからそのスペースへとお邪魔することにした。
「それじゃあ、まずは挨拶からかな? 颯吉くんがさっき言ってくれた通り、僕は二人が暮らしてた世界とは別の世界の管理者をやってるんだ。よろしくね!」
典型的ではあるが、神様といえば白髪で髭の長いご老人をなんとなくイメージしてい颯吉は、脳内の情報が上書きされるような感覚になる。
とはいえ、今までの一連の流れやこの空間の異質さからして、まずは彼の言っていることを信じるしかないのだ。
「今居颯吉といいます。一応、今は社会人をやってて……この状況には全然理解が追いついてないんですが、よろしくお願いします」
二人に向かってお辞儀をすると、柔らかく微笑んだ男――神様がぱちぱちと拍手をしていて、少女は颯吉に向かって同じように一礼する。
「日向井海鈴です。今、高校二年で、それから……座右の銘は、『思い立ったが吉日』かな? 詳しいことはまだわかってないですけど、よろしくお願いします!」
身長が百六十センチに少し届かないぐらいであろう海鈴は、人懐っこそうなぱっちりとした目が印象に残る可愛らしい顔立ちをしている。夏の向日葵を連想させる明るく透明感のある声からは、先ほどまでの警戒心は感じられない。
その自己紹介に元気な子だなと思いつつも、
――あれ? 今ってもう十一月のはずで、
半袖のシャツにショートパンツという彼女の服装に、先ほどまで寒いと感じていた颯吉は少し違和感を覚える。
だが、楽しそうな表情で相槌を打っていた神様が弾んだ声を出したことで思考が引き戻された。
「おっ、いいね! 僕、そういう意味合いの言葉、好きなんだー」
「よろしくね。座右の銘か。俺、なにかあったっけ……?」
なんとも緩やかな空気が流れる中、神様はヒノキのちゃぶ台に置かれた和菓子の入った籠を颯吉たちへと差し出す。
「さてと。お互いに簡単な挨拶も終わったことだし、本題に入ろっか! なにから話そうかなー」
どら焼きを選んだ彼からの「二人とも、どうぞ遠慮しないで!」という言葉に、「いただきます」と断りを入れてから、颯吉はういろう、海鈴はいちご大福へと手を伸ばす。
いつの間にか用意されていた白地に金の細工がされた人数分の湯飲みからは、湯気が立ち上っている。
「それじゃあ、最初に――君たちがいた世界は、それぞれ年代や細部が異なる並行世界なんだ。これが大前提なんだけど、理解できるかな?」
「えっと……?」
「それって、パラレルワールドですか? SF小説とかに出てくる」
突拍子もない言葉に固まる颯吉とは対照的に、海鈴は驚いてこそはいるものの興味の方が上回ったのか、好奇心に満ちた視線を神様に向けていた。
どら焼きの包装を開封しつつ、彼はうなずく。
「そうそう。颯吉くんの暮らす世界が今二〇二九年の秋で、海鈴ちゃんの方は二〇二五年の夏だったかな? どちらも、僕とは違う管理者が管理していてね。といっても、よっぽどの事態にならない限り、僕らが世界に介入することはないんだけどさ」
――ああ、だからあの格好だったのか。
納得して湯飲みを手にした颯吉は、温かい茶を一口飲む。
この不思議な空間は暑くも寒くもなく、まさしく快適な空間だった。
それでも、先ほどまで冷たい風が吹きすさぶ屋外にいたこともあり、体からほっと力が抜けるような心地になる。
――それにしても、このお茶。
多分ほうじ茶だろうけど、香りがいい上にコクがあってすごく美味しい。もしかして、かなり高級な代物だったりするんじゃ? いや、そうじゃなくて――、
「……それって。今、なにかよっぽどの事態が起こってるってことですか?」
「おっと、颯吉くん察しがいいね? その通りだよ。でも、なにも全世界でことが及んでいるわけじゃない。僕の管理する世界のうち、日本という国だけで起こっていることだ」
質問に答えた後、神様はどら焼きを一口頬張る。
一方、海鈴は話をしっかりと聞きつつもいちご大福を食べ進めていて、その顔はこの上なく幸せそうにほころんでいる。
つられて手元のういろうを食べた颯吉も、その味に思わず「……美味しい」とつぶやいていた。
颯吉たちの反応に満足そうに口元を緩めて、神様が続ける。
「僕の世界の日本は、遠くない未来に破綻する可能性があるんだ。神室唯我という一人の男によってね」
「……? 誰なんです?」
首をかしげる海鈴と同様に、颯吉も気になったことを口にする。
「その人、神様かなにかなんですか? 日本がどうこうって」
「いいや? もともと、彼は君たちとは別の並行世界の人間だったんだ。日本限定とはいえ、今はもう管理者みたいになっちゃってるけど」
そうして、神様はほんのわずかに目を伏せる。
颯吉は彼のことをまだよく知らない。だから、確かなことは言えない。
ただ、その声には、どこか後悔にも似た感情がにじんでいるように思えた。
「人間が神様……いや、管理者になるって、そんなこと可能なんですか? それなら、俺たちだってなれちゃうんじゃ」
「いやあ、普通は無理だよ。たとえ一国分だけだとしても、管理権が人間に移行するなんて本来ならありえない。だけど、彼は僕から日本の管理権のほとんどを奪い、結果として今の日本の管理者といえる存在になった」
しかしそれも一瞬のことで、彼はまた話し始めたときの声音に戻っていた。
げんなりとしたその様子から、どうやら好き好んで神室という人物に日本の管理権を与えたわけではないらしい。
「その神室って人が、神様……の管理する世界の日本を乗っ取ってる? のはわかったんですけど。それと俺たちをここに連れてきたのと、なにか関係があるんですか?」
颯吉は一般人のはずで、神室という男と知り合いというわけでもない。
海鈴も、彼については知らないという反応をしていた。
わざわざ神様が颯吉たち別世界の人間をここに呼んだ理由は、いまだに謎に包まれたままなのだ。
こちらの発言に対して「やっぱり、そうなるんだね」とつぶやいた神様に首をかしげると、彼はあいまいに笑ってみせた。
「ああ、気にしないで。そうだね、そのことだけど……突然こんなことを言われても困るっていうのは重々承知の上で、君たちに頼みたいことがあってさ」
手にしていた湯飲みを置くと、彼は少しの間目を閉じ――再び姿を現した翡翠の瞳には、真剣な色が宿っていた。
まとう雰囲気からして、颯吉たち二人に本気でなにかを頼もうとしていることが伝わってくる。
「神室くんから、僕の管理する世界の日本を取り戻したい。そのために、颯吉くんと海鈴ちゃんの力を借りたいんだ」
ただでさえ情報量の少ないこの空間からわずかな音さえも消えた気がして、
「えーっと、大丈夫かな? 二人とも」
――とりあえず。可能性はかなり低そうだけど、これだけは聞いておこう。
「そもそも、俺たちってもとの世界に帰してもらえるんですか?」
「ん? もちろんさ! なんだったら、今からでも帰れるよー」
「普通に良心的だった……って、荷物は神様が預かってるんですよね? そこまでしてるのに、なんで……突然この空間に連れてくるぐらいだし、こっちの要望は聞き入れてもらえないと思ってたんですけど」
疑心から眉をひそめて神様の方を見やると、彼は安心させるように微笑んでみせる。
「ごめんね。颯吉くんと海鈴ちゃんの荷物、特に電子機器や身分証明書は、もとの世界から移動させることはできないんだ。並行世界の文明レベルにも差があって、持ち込めばどんなバグが起こるかわからないからね。まあ、身分証明書は別の意味でだけど」
その説明を聞いた海鈴はハッとした表情になると、
「ごめんなさい! 私、神様が荷物を盗んだんじゃないかって、さっき疑っちゃって……!」
「気にすることはないさ。あの状況だと、そう考える方が自然だろうからね」
なんてことのないように笑って手を振る神様の様子に、彼女の表情が安堵へと変わる。
「……なるほど。神様の世界は、必ずしも俺たちのいた世界と同じ時代ってわけじゃない。だから、存在しないはずの技術とかがあるとマズいってことですか?」
「その通り。向こうの管理者たちとも話をつけていてね。どちらの世界を選ぶかは、あくまでも君たち渡り人の意思にゆだねる。それが、どの並行世界にも共通する決まりなんだ」
どら焼きをすでに食べ終えていた神様はおもむろに座布団から立ち上がると、指を鳴らしてスケッチブックと黒の油性ペンを出現させる。
――この空間って、ほんとになんでもありなんだな。
ん? いや、ちょっと待ってほしい。
「はいっ、神様! 『ワタリビト』ってなんですか?」
海鈴も同じ部分が気になったのか、勢いよく神様に向かって挙手をした。
その勢いの良さに少々面食らいながらも、彼は待っていましたと言わんばかりの表情で、
「よくぞ聞いてくれました、海鈴ちゃん! ワタリビトっていうのは、異なる並行世界の間を行き来する人のことでね」
スケッチブックの表紙をめくって颯吉たちの方へ向けると、神様は後ろから油性ペンで簡単に図や矢印を描きながら説明を始めた。
「ワタリビトには計五回、自分が暮らしていた世界から狭間を通じて引き寄せられた世界へ渡る、または逆に戻る権利があるんだ。僕のような管理者のいる空間をスタート地点ないし中継地点として、異なる並行世界を行き来し――どちらの世界で暮らしたいかを選ぶことができるんだよ」
紙面に両方向への矢印が描かれたかと思えば、ぐるぐると塗りつぶされていく。
「でもそれって、別の世界を選ばない人の方が多いんじゃないですか? 家族や友だちとか、知り合いだってもとの世界にいるわけですし」
神様の描く絵を眺めている海鈴は、どうやらあまり納得がいっていないようだった。
その顔にちらりと視線をやった神様はほんの一瞬だけ目を細めてから、
「いやあ、そうでもないよ? そもそも、ワタリビトになる人たちは、もとの世界に魂が完全に定着しきっていないんだ。表面上は世界や周囲の環境に適応しているように見えて、魂の奥底では違う。だからこそ、ハザマを通じて別の世界に魂が呼応しやすい」
すらりとした指先で描かれた図を軽く叩いた彼が、「まあ、本人たちにその自覚はないんだろうけどね」と補足する。
なにか言葉を紡ごうとして、しかし海鈴は迷うようにしてゆっくりと口を閉じる。
――なんか、話のスケールが大きくなってきてるけど。
要するに、俺は魂が不安定になってたからこの空間に呼ばれたってことなのか?
考え込む颯吉だったが、どこからか緑色の急須を取り出し二人の湯飲みにお代わりを注ぐ神様によって、思考が中断される。
屈託のない笑顔で「まあまあ、お茶でも飲んで!」とすすめられ、颯吉と海鈴はお礼を言うと再び温度を取り戻した湯飲みへと手を伸ばした。
湯飲みのお茶を一口飲んでから、神様が続ける。
「僕は今回、疑似的な――要は本物とは違うけれどよく似たハザマを作り出して、そこから颯吉くんと海鈴ちゃんを引っ張り込んだ。でも、これは例外中の例外」
「えっと……本当なら、ワタリビトは別の形でここに来るってことですか?」
小さく首をかしげる海鈴に「その通りだよ」と返した彼は、真面目な空気を崩すことなくちゃぶ台に湯飲みを戻すと、
「渡り人というのは、本来彼らの前に自然に発生するハザマを通じて別の世界に……まぁその前に管理者のもとにだけど、迷い込む人間のことでね。その中の一人が、神室くんだったのさ」
「その人、日本を乗っ取ってなにをしてるんですか? 破綻する可能性って言ってましたけど」
颯吉からの質問に、神様は指を顎に当てて自身の考えを整理している様子だった。
「彼は管理権を利用して、日本全土を覆う薄い膜――結界といえるものを展開していてね。なにかしらの概念が刻まれたそれに、みんな適応しているようなんだ」
――結界? 概念? よくわからないけど、それが相当ヤバいってことなのか?
続きを聞こうと颯吉は居住まいを正すが、眉を下げた彼は瞳に影を落とすと、
「結界の詳細については、僕もはっきりとはわからない。本来の管理者である僕に情報を読み取らせないように、彼が細工をしているみたいでね」
「その、結界? 私も具体的にイメージできてるわけじゃないんですけど。それって、壊せないんですか?」
「今の僕が有する管理権では、ちょっと無理かな。外側から飛行機や船で入国しようとしたけど、日本の範囲に入る前に弾き飛ばされたし」
「いや、それ大丈夫なんですか……?」
明かされた内容に表情を引きつらせる颯吉に対し、「まあ、そこは予想してたからね」と軽い調子で答える神様。
神室という男は、文字通り神様の世界の日本を管理しているらしい。
結界に刻まれた概念の詳細が不明である以上、今の日本の状況についてもわからないということなのだろう。
すると、いちご大福の包み紙を手にしていた海鈴が不思議そうに神様の方を見やる。
「あれ? じゃあ、この和菓子って」
「日本の有名な和菓子店がハワイにも進出していたからね。今回はそこで買わせてもらったよ」
――そういえば、そんなことを言ってたような。
あ、そうか。日向井さんはいなかったんだった。
「どっちにしろ、今のままじゃ手を出せない状態でね。ワタリビトの力を借りたいと思って、君たちを呼んだわけさ」
神様の説明にうなずきかけていた颯吉だったが、
「……って、そんなよくわからない結界? を敷いてる人から、どうやって日本を取り戻すんですか?」
真剣な頼みだということは伝わってきたが、やはりどう考えても無茶だというのが正直な感想だった。
言外にこちらは一般人なのだがと示すと、神様はなぜか落ち着いた様子で――というよりも颯吉のそのセリフを待っていたかのように、
「そこに関しては大丈夫! 丸腰でどうにかしろだなんて言わないよ。なにより、僕も全力で颯吉くんと海鈴ちゃんのことを守るつもりだからね。ワタリビトには、渡った先の世界からあるものが与えられるんだ」
改まった様子で、ほんの少しいたずらっ子のような笑みを含めて――彼は答えを口にしていた。
「祝福の鍵っていう餞別がね」