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昨今の虐げられ少女は逞しい〜今回の妄想相手は若き騎士団長に決まりました

作者: みのり

 桶に張った水に畳んだ布を浸し、ギュッと絞る。

 ピッと頰にはねた水を肩に擦り付け、小さな手に力を込めて、絞った布の真ん中から端に向かってさらに何度も強く絞った。


 薄暗い食堂にはまだ誰もいない。

 毎朝足元のキシキシと軋む音だけが聞こえる時間に、レイリアはまずテーブルを拭いて回り、次にカウンターを拭き、階段の手すりと扉の取手部分を拭いた。この時できるだけ…いや、絶対に音を立ててはいけない。微かな音が聞こえただけで飛び起きる女主人がいるからだ。


 灯りなんていう便利なものは与えられていない。だから経験と感覚でものの位置を把握するまでに、その女主人には何度も怒られた。その時の怒り具合によって頬や頭を殴られる回数が変わるので、レイリアは位置を覚えるまで毎朝顔を腫らしていた。それももう、ずいぶん前までの話だが。


 最後は(ほうき)に変えて床を掃き、汚れた水を捨てに裏庭へ行った。箒と桶を片付けたら次は洗濯だ。


 ----ふぅ…


 レイリアは月が眠りにつき始めた空を見上げながら心の中で息をつき、キョロキョロと周りに目を向けた。無意識に出た溜息でも主人に聞かれてしまったら、またサボッているのかと大声で怒鳴られてしまう。怒られるだけならばまだ我慢できるが、運悪く相手の機嫌が悪い時だったりすると食事を抜かれる。そうなると、その日の食事はなくなってしまうのだ。たとえカビがはえたパンと変な臭いのするスープであってもレイリアには大事なエネルギー源だ。


 レイリアは壁に立てかけてある洗濯用の大きな桶を両手で抱えて裏庭へ運び、腰掛け用の石の側に置いて、水を汲みに行った。


*


 ゲルディア領の南西部にある小さな村の宿屋。十二歳の少女レイリアはそこで朝から晩まで働いている。


 そこは、もともとレイリアの両親が営む宿屋だった。母親が作る美味しい手料理と父親の親切丁寧な客対応には、誰もが満足げに頷いていたのを覚えている。旅の道から少しそれた場所にある村の宿屋ゆえか特に繁盛していた訳ではなかったが、それでも立ち寄ってくれた客に対する両親の温かいもてなしには幼心にも見ていて気持ちが良かった。そしてそのもてなしに感動した旅人達が流す風の噂のおかげで、宿屋は客足が途切れる事はなかった。


 二年前に両親が事故で亡くなってからは、娘のレイリアではなく父親の弟である叔父のセヴァス・フェネガーが宿屋を引き継ぎ、運営している。レイリアは宿屋と一緒に叔父夫妻に娘として引き取られる事になったのだが、その実はただの下働きだ。両親が健在だった頃はいつもニコニコと笑顔を向けていた叔父夫妻は両親が亡くなった途端に態度を急変させ、レイリアに冷たく接するようになった。


 『なんとまぁ、分かりやすい人達だな』とこっそり呆れた溜息を零すが、彼らが考えつく茶番劇などせいぜいこの程度だったのだろう。彼らよりはマシな芝居ができると自負するレイリアとしては、それも仕方のない事だと頷くしかなかった。


 当時十歳だったレイリアは、その事自体には驚きも嘆きもしなかった。なぜなら叔父夫妻が両親にどれだけの恨みや妬みがあったのかは知らないが、誰にでも親切で優しかった母親が唯一叔父達の笑顔にはいつも嫌な顔をしていたからだ。自分の前で悪口は言わなかったが、幼心に『良くない人達なんだわ』と思っていた。


 だから『やっぱりね』というのが正直な感想だった。自分でもずいぶん冷めた子供だなと思ったものだ。もう少し絶望に打ちひしがれたら良かったのだが、どうにもそういった悲劇のヒロイン感情とは無縁らしい。なので、表面上だけでもオドオドしたりビクビクする事にした。


 何にせよ、幼いレイリアにこの状況を変える力などない。狭い村、変わらない住民の顔、人の往来は旅人のみ、毎日同じ作業の繰り返し。状況を変えたくても変えられる劇的な要素がゼロではどうする事もできず、ただひたすら歯を食い縛って生きていくしか道はなかった。


 それにこの村では十歳にもなれば大人と同じように扱われる。知識と体力と経験が足りないだけの『小さな大人』であり、立派な労働力として多くの事を教え込まれるのだ。なので十歳を過ぎているレイリアには、行き場所のない者が無闇やたらに飛び出したらどうなるかぐらいは分かった。こうして大人しく叔父夫妻の言う事を聞くしかないのも、自分には他に行き場所がないからだという事も理解していた。


 しかし虐げられているからといって、子供が誰でも臆病な性格をしているとは限らない。レイリアのように表面上は臆病で従順でか弱いフリをして、心の中は熱く燃えたぎっている子供もいるのだ。


 『大きくなったら素敵な男性と結婚して自由になる。』


 それがレイリアの将来の夢。今はその時のための花嫁修行だと思えば、少しは辛い気持ちが軽くなった。というより、強く生きていく為に今は少しでも頭を使って考え方を変えなければやってられない。それに叔父夫妻には子供がいないので将来的には宿屋はレイリアの元に返ってくる。それまでの辛抱だ。


 洗濯物を干し終えて、腰を伸ばしがてら空を仰ぎ見た時だった。


 ----やっと終わった。今日は少なくて良かった…あれ?


 深く吸った息を一瞬で重い溜息に変える暗い雲が遠くでうごめいている。雷雨の兆しだ。


 ----えぇ〜!せっかく洗ったのにぃ!


 宿屋を持っていかれるより洗濯直後の雨に気付く方が余程憂鬱な気分になる。せめてもう少し早く分かっていたら洗濯は明日に回せたのに…と嘆いている暇はない。今のうちに取り込んで、畳んで置いておけば洗い直す必要はなくなる。むしろ早めに気付いただけでもツイているというものだ。考え方を変える術はこんなところでも役に立つ。


 レイリアが洗濯物を取り込んですぐに雨は降り始め、瞬く間に豪雨へと変わった。幸いな事に、この村の付近は大雨による災害に見舞われる事が少ない地域だ。それに雨は客を連れてきてくれる。大雨で足を止められた旅人が避難場所として宿屋に泊まりに来るのだ。そんな時、叔父のセヴァスはここぞとばかりに宿代を釣り上げた。


 もちろん、雨が降っても客が来ない事もある。今日のように朝早くから降っていては、余程の理由がない限り元いた場所から移動したりしないからだ。今日がまさにそうだった。人気のない宿屋の受付には、湿気を帯びた空気と暇そうに鼻をほじる叔父の姿しかない。叔母はまだ寝ている。これだけで夫妻の主従関係が分かるというものだ。


 レイリアは洗った洗濯物をカゴに入れて台の上に置き、欠伸をしているセヴァスに声をかけた。


 「あの、叔父さん。」

 「あん?」

 「せっかくの大雨なので、身体を洗ってきても良いですか?」

 「んー?」


 セヴァスは毛むくじゃらの指で瞼を擦り、チラと窓の外を見た。外は客どころか村人すら歩いていない。掃除も洗濯も終わっているのなら特に言い付ける用事もないので、追い払うように手を払った。


 「好きにしろ。」

 「ありがとうございます。」


 レイリアはペコリと頭を下げて物置(自室)へ向かった。そして着替えをベッドの上に置き、身体を拭く布を持って裏口から外へ出た。人目を避ける囲いはないので、服を着たまま頭から雨を浴びる。絡まる長い髪の隙間に無理矢理指を通しながら頭を洗い、顔と身体をしっかり洗った。


 ----気持ち良い…


 こうして洗えるのは何日ぶりだろうか。両親が生きていた頃は客商売だという事もあって、こまめに水浴びをしていたのに。普段は水浴びすらなかなかさせてもらえないので、客のいない日、とくに大雨の日は狙い目だった。


 水浴びのついでに着ている服を着たまま洗い、布で手早く全身を拭いた。肌に張り付いた服は水洗いでは落とし切れない程汚れているが、弱い力ではこれが限界だ。レイリアは急いで自室へ戻って服を着替え、雨水が滴る髪を結び、脱いだ服を裏口まで持っていってギュッと絞った。ちょっと水浴びをするだけでも一苦労だ。


 ----そうだ、叔母さんから繕い物を頼まれてたんだった。


 すっかり忘れていた。『最近お腹周りがきつくなった』と言いながら『袖ぐりを大きくして腕を通しやすくしておきな』という訳の分からない注文と服を受け取ったのはつい昨日の事だ。注文するならスカートの腹周り部分の方ではないのかと思ったが、そういえば一か月前に同じ理由でスカートを直したばかりだった事を思い出した。その時、何度も同じ事をするのが嫌で注文より大きめに作り直していたのだ。という事は、それももうキツくなったらしい。


 ----まぁ、袖ぐりぐらいなら…うん?


 レイリアが『やれやれ』と溜息をつき、絞った服を広げた時だった。

 遠くから雨の音に混ざって何か別の音が聞こえてくる。


 ドド… ドドド…ドドド…


 ----え?何この音…


 ドドドドドドッ ドドドドドドッ


 ----だんだん近付いてない?


 その音は次第に数と勢いを増していき、そして突然鳴り止んだ。何かあったのかと気になったが裏口にいるレイリアには知る由もない。それよりも今は繕い物だと屋内に入った途端、表の出入り口の扉が乱暴に開けられ、武具を身につけた男達が流れ込み、玄関が騒然となった。


 「ここの店主はいるか!?」

 「はぇ!?は、はい、私です!」


 叔父の裏返った声が聞こえてくる。きっと口を開けて寝ていたのだろう。うたた寝をしているところを叔母に叩き起こされた時と同じ声だ。レイリアは服を自室に干しに行き、急いで玄関へ向かった。が、チラと玄関が見えたところで壁の陰に隠れた。


 騎士団だ。

 騎士団だと分かったのは身なりが傭兵やゴロツキのそれとは違うから。村の少女に細かい違いなどは分からないが、鎧とマントにカッコイイ模様が入っているからきっとそうだろうと頷いた。

 レイリアはふと、セヴァスと話している男の後ろで腕を組んでいる背の高い男に目を止めた。


 ----うわ…格好良い…!


 濡れた黒髪を後ろに撫で付けて露わになっている精悍な顔立ちはどうだ。男の美醜に疎い少女の目から見ても、その男の顔が整っている事が分かる。もっとよく見ようと身を乗り出すと、凛々しい眉の下にある漆黒の瞳が鋭い眼光を放って叔父を睨みつけていた(もっと怖がらせてやってほしい)。

 男は黙ったままセヴァスと部下らしき男の会話を聞きながら、広い肩幅に似合うマントからボトボトと水滴を滴らせて…


 ----あっ!皆さん全身ずぶ濡れだわ!布を用意しないと!


 レイリアはハッとして踵を返し、急いで布を取りに行った。ザッと見ただけだが、二十人はいたはずだ。レイリアは少し多めに布を抱えて玄関に戻ると、近くにいた男から順番に布を手渡していった。


 「どうぞ、使って下さい。」

 「あ、どうも、あ、いや、先に…」

 「皆さんの分はちゃんとありますから、どうぞ。」


 男の言いたい事は分かる。最初は黒髪の男に渡せと言うのだろう。しかしここで真っ先に黒髪の男に渡してしまったら、わざとらしい上に明らかに目上の者を優先していると思われてしまう。大人の世界ではそうするべきところかもしれないが、レイリアは心配りは平等にすべきだと思っているので、手渡された男がチラチラと黒髪の男を見ていても知らないフリをした。


 さてここから、少女レイリアの心の中でのみ繰り広げられる一人芝居が始まる。


 ----こんな事でゴチャゴチャ言う男なんて願い下げよ!もう言い寄られても相手になんかしないんだから!


 脳内でしか恋をした事がない少女の中では、もうすっかり黒髪の男と訳ありな関係まで進んでいる。イケメンに毎日告白されて困っているという設定はレイリアの鉄板ネタだ。


 せっかく格好良い男と出逢えたのだから、この出逢いを存分に楽しみたい。みすぼらしい子供など相手にされないと分かっているのだから、心の中でぐらいは自由に素敵な恋愛をしたいのだ。

 レイリアは笑顔の裏でツンとすましながら黒髪の男に布を手渡した。


 「どうぞ。」

 「ありがとう。君はここの娘か?」

 「いえ、姪です。」

 「両親は?」

 「えっと、二年前に…」

 「あっ、すまない。いろいろ事情があるんだな。その…悪かった。」


 レイリアにとってこういった会話は日常茶飯事なので、特に悲しんだり落ち込んだりする事はない。なので申し訳なさそうに目を伏せる男に逆に申し訳ないなと思いつつ、じっくりと男の顔を見つめた。


 ----近くで見るとやっぱり格好良いな。


 遠くからでは分からなかったが、こうして近付いてみるとまだ若いように見える。二十代半ばといったところだろうか。綺麗な肌には旅にありがちな無精髭が伸びているが、整った顔にはそれすら男らしさを魅せる装飾品のように思えた。


 ジッと見つめていたのがバレたのか、黒髪の男が居心地が悪そうに目をそらしている。しかしそんな事を気にするレイリアではない。レイリアは子供である事を存分に活かして満足がいくまで見つめてからニコッと微笑んだ。


 「いえ、大丈夫です。気にしないで下さい。」

 「あぁ…」

 「ゆっくりしていって下さいね。」

 「ありがとう。」


 最後に本音を言い置き、レイリアは軽く頭を下げて布を手渡して回った。


*


 それからは怒涛の忙しさだった。突然の団体客に、寝ていた叔母マデリーンも飛び起きて動き回っている。といっても動かしているのは手と口だけで、実際に動き回っているのはレイリアなのだが。夕方になるとセヴァスとマデリーンはせっせと大量の料理を作り、レイリアはそれを運んで空いた皿を片付けた。


 客が増えれば雑用が増える。忙しさに目が回り出すと苛立ちが生じる。叔父夫妻の口調は次第に乱暴になり、皿を置くようなちょっとした動作が荒くなり、眉間にずっと皺を寄せていた。そしてそのイライラは全てレイリアへと向けられた(叔父は絶対に叔母にはぶつけない)。


 「レイリア!何やってんださっさと運べこのグズ!」

 「はい、すみません!」

 「違う!こっちが先だろう!?見りゃあ分かるだろ、このバカ!」

 「あ、す、すみません!」

 「もたもたすんじゃないよぉぉ!!」

 「はい、すみませ…」

 「いちいち返事してんじゃないよ!口を動かさずに手を動かしな!ったく!!」


 レイリア!レイリア!レイリア!レイリア!

 レイリアァァァァーーーー!!


 耳の奥でこだまする自分の名前に意識が朦朧としてくる。後生だから少しの間だけレイリアという単語を忘れてくれないだろうかと言いたくなる。レイリアはすでに条件反射で動いている足を引きずりながら、キッチンから出されたびしょ濡れのカップを両手に持った。


 外はもう日が落ちかけているというのに、朝からずっと名前を呼ばれ続けていたせいかまだ昼ぐらいの感覚だ。レイリアは低い声が飛び交う隙間を縫うように歩いて酒を運んだ。これが繕い物の縫い目だったら間違いなくマデリーンに殴られているだろう。


 その時、不意に焼いた肉の良い匂いが目を伏せるレイリアの鼻先をくすぐり、忘れていた空腹を思い出させた。


 ----あれ、そういえば今日ってご飯食べたっけ…あっ!


 ガッシャーーーンッ


 「うわっ!」

 「何だ!?」

 「ご、ごめんなさい!!」


 やってしまった。

 一瞬意識が戻った事が逆に集中力を乱してしまった。

 床には落としたカップが割れて散らばり、酒の水たまりが広がった。


 まずい。


 そう思った時にはすでに遅く、頭上からかけられた声に振り向いた瞬間、頬に強烈な痛みが走った。倒れ込んで見上げた先ではマデリーンが恐ろしい形相で鼻息を荒くしている。レイリアは尻から伝わる冷たい感触に酒の上に倒れた事に気が付き、ガックリと項垂れた。せっかく水浴びをしたのにもう酒臭くなってしまった。


 「何やってんだい!!」

 「あ…す、すみません…」

 「お客様にかかったらどうするつもりだ!お前が弁償すんのかい!?」

 「や、あの、それは…」

 「ハッキリ言いな!っていうか、いつまで座り込んでんだ!さっさと」

 「おい。」

 「立って…え?」


 鬼バ…叔母に腕を掴まれ、思い切り引っ張り上げられた瞬間、横から重く低い声が割り込んだ。二人が同時に目を向ける。すると、黒髪の男がここへ来た時と同じように腕を組み二人をジロリと睨み下ろしていた。睨まれる側になるとこんなに恐ろしいものかと背筋が凍りつく。

 二人が動かないまま男を見つめていると、男はその視線をマデリーンへと向けた。


 「その子を離してやれ。」

 「え?あ、いや、この子は…」

 「聞こえなかったのか?俺は離せと言ったんだ。」

 「なっ…なんでそんな事を言われなきゃなんないのさ。この子は私達の娘で…あっ!ちょっと!」


 言うが早いか、黒髪の男はマデリーンの手から無理矢理レイリアを引き離し、レイリアの痩せた小さな身体を抱き寄せた。


 一方で、男の胸元ではレイリアの目がカッと見開いていた。マデリーンに殴られるなど慣れっこなのに、なんというラッキー胸キュン☆シチュだと、叔母とは違う理由で鼻息が荒くなる。ありがとうございます!


 せっかくなのでレイリアはこの雰囲気に浸りたくなり、弱々しくそっと目を閉じてフラリと男に身を委ねた。まるで王子様に助けられたお姫様のように。……か弱い女の子らしくそっと服も摘んでみよっと。


 「何すんのさ!」

 「娘じゃなく姪なんだろう?どちらでも良いが、身内の割には酷い扱いをしているようだな。朝からずっと見ていたがまるで奴隷みたいにこき使っているじゃないか。この村ではこれが当たり前なのか?」

 「そ、そうだよ!」

 「おおおおい、マデリーン、やめておけ」

 「うるさい!あんたは黙ってな!!」


 小心者の夫は妻の怒りにピャッと耳を伏せ、ササッとキッチンの隅に隠れてしまった。なんとも情けない男だと伏せた目の奥で溜息をつく。それに比べたら騎士を相手に胸を張る叔母の方が余程男らしいというものだ。

 マデリーンはフンと鼻を鳴らして豊満な身体をズイッと前に押し出した。


 「そうですよ。この村じゃこれが普通なんです。出来の悪い子供は親がしっかり!厳しく!躾けるのが当たり前なんですよ。ねぇ、あんた?」


 マデリーンはキッチンへ目を向けて、しゃがみ込んでいる夫を声だけで引っ張り上げた。


 「え?あ、あぁ、そう、かな。」

 「ほらね。さ、その子を返して下さい。いくら騎士様でも他人の所有物にまで口を出せないはずですよ。」

 「何…?」


 ----えっ。


 男の胸から伝わる低く冷たい一言に、レイリアは思わず息を止めた。これまで散々叔父夫妻に怒られてきたが、こんな風に身体の芯から恐怖を感じた事はない。怖くて目が開けられない。これが騎士の怒りというものだろうか。いや、それより面倒な事になる前に離れなければ。


 『お姫様ごっこはここまでね』とそっと身体を離そうとすると、男の太い腕にあっさり押さえられてさらに抱き寄せられた。失敗したのに嬉しい。


 「今、所有物と言ったか?」

 「えぇ。まだ何か?」

 「つまりこの子はお前達夫妻にとって()だという事か?」

 「だから、それがどうし…」

 「確かに子は親の所有物として見なされる。しかしそれはあくまで親子関係を示すものとしての表現の一つにすぎない。だがお前達のそれはただの主人と奴隷の関係にしか見えない。」

 「さっきから聞いてれば奴隷奴隷って…いい加減にしてほしいね!」

 「それは俺のセリフだ。さっきから黙って聞いていれば、お前は誰に向かって口をきいている。連行されたいのか?」


 男の殺気を帯びた眼差しが牙をむいた犬の口のようにマデリーンに向けられる。そのビリビリとした空気が部下にも伝わったのか、レイリアが薄く目を開けると無関係なはずの団員達全員が青い顔で固まっていた。確実にあおりを受けると悟った表情をしている。


 黒髪の男はマデリーンが大人しくなったところで牙を収め、レイリアを抱きかかえて立ち上がった。


 「ダンケル。」

 「はい。」


 ダンケルという名の男が立ち上がり、黒髪の男の元へ歩み寄った。最初にセヴァスと交渉していた男だ。


 「誰でもいいからここを片付けさせておけ。それから、お前はこの子の着替えと食事を俺の部屋まで持ってこい。」

 「分かりました。」

 「さ、行こうか。」

 「は、はい…」


 レイリアはちゃっかり声を震わせ、お姫様らしくコクリと頷いた。


*


 黒髪の男はレイリアを部屋へ連れて行き、レイリアを下ろして床に膝をついた。もちろんレイリアと目線を合わせる為なのだが、騎士に誓いを立てられているようで興奮する。そんなレイリアの鼻息など気付く事もなく、男は静かに口を開いた。


 「俺の名はリージェス・マクデラン。領主様の私兵騎士団の第二騎士団長だ。」

 「マクデラン様。」

 「リージェスでいい。君の名前は?歳はいくつだ?」

 「はい。えと、レイリア・フェネガーです。十二歳です。」

 「十二歳…」

 「何か?」

 「いや、何でもない。君はいつもあんな扱いを受けているのか?」


 ----あんな扱い?


 どれの事だろう、と首を傾げる。酷い扱いなどたくさんありすぎてどれの事か分からない。レイリアは単純に『?』となっただけなのだが、それを『これが普通だから酷い扱いだと気付いてない』と受け取ったリージェスはクッと顔をしかめてレイリアの骨張った両肩に手を置いた。


 コンコン


 「誰だ。」

 「ダンケル・ノーマシアンです。着替えをお持ちしました。」

 「入れ。」


 ダンケルは素早く部屋に入って服をレイリアに手渡し、リージェスに向き直った。どこかその表情が硬い。


 「団長、少しよろしいでしょうか。」

 「あぁ。レイリア、俺達が部屋から出ている間に着替えておくように。」

 「はい。」


 リージェスはダンケルを連れて部屋から廊下に出ると、ずっと耐えていた苛立ちを顔に表した。


 ----あれが十二歳だと?


 レイリアから年齢を聞いた時はまさかと思った。リージェスはヘトヘトになりながら動き回っている少女を見て、十にも満たない子供なのにと溜息をついていたのだ。それ程にレイリアの身体は小さく細かった。


 ----まともに食べさせてもらってないのか?あの二人はあんなに太っているというのに…


 手に残った骨の感触に胸が締め付けられる。肉の感触など微塵もなかった。ついさっき抱き寄せた時も、抱き上げた時も、そのあまりの軽さに息を呑んだ。きっと今日のように毎日朝から晩まで働かされているのだろう。世の中にはそんな子供はたくさんいるが、レイリアは放っておけなかった。その理由も十分に分かっていた。


 「団長。」

 「なんだ。」

 「先程、あの子の服を取りに女に部屋まで案内させたのですが…」

 「うん?」

 「あの子の部屋…物置だったんです。」

 「物置だと?こんなに部屋があるのにか!」


 ダンケルは小さく頷き溜息をついた。

 部屋に案内しろと言った時、マデリーンはバツの悪い表情を浮かべていた。その時は特に気にもとめなかったが、扉を開けて部屋を見た瞬間、言葉を失った。


 「はい。それは酷い部屋でした。窓はなく、壁も天井も朽ちている室内は酷い臭いが充満していて埃と蜘蛛の巣だらけなんです。手の届くところは掃除をしているようですが、壊れた小さなクローゼットと泥だらけのベッド以外は全部ガラクタで埋め尽くされていました。」

 「…そうか。」

 「さっきの様子といい、このままではあの子は近いうちに倒れてしまうでしょう。」


 ダンケルはそこで言葉を切り、リージェスの横顔を見た。眉間に寄せた皺がリージェスの怒りを表している。それが少女への同情からくるものだけではないと察しているだけに口を噤んだ。


 「でも連れて行くわけにはいかない。」

 「そうですね。あの子の家はここですし。」

 「そうだ。あの子を見ていると…あの子の俺を見つめる眼差しや、俺にグッタリと身を寄せる姿が…妹の最期と重なってしまって心苦しいが…」


 やはりな、とダンケルは再び小さく息をついた。リージェスとは上司と部下の関係だが元は幼馴染だ。昔、リージェスの妹マーガレットが幼くして病で亡くなっている事も知っている。ちょうどレイリアと同じ年頃だった事と痩せた姿や儚げな笑顔が似ている事が、普段は冷静沈着なリージェスの心を揺さぶっている事に気付いていた。

 そして。


 ----そうだったんだ…。なんか、悪い事しちゃったな…。


 と、男達の会話を盗み聞く少女レイリアもまた、小さく息をついた。

 レイリアとしてはちょっとした恋愛ごっこを楽しんでいたつもりだったが、それが意図せずリージェスに辛い過去を思い出させてしまったのだ。今さらどうにもできないが、申し訳ない事をしてしまったという自責が胸を押し上げ、重い溜息となって零れ落ちた。


 扉を挟んだ反対側ではしばらく考え込んでいたダンケルが、突然『あ』と声を上げた。

 互いに見えないが、リージェスとレイリアは『うん?』と同時に反応した。


 「団長、良い事を思いつきました。」

 「うん?」

 「もしあの子に家事がこなせるのなら、団長が家政婦として雇って差し上げればよろしいのでは?」

 「は?何、馬鹿な事を言ってるんだ。」

 「良いじゃないですか。今まで全部ご自分でなさってたんでしょう?ですがお立場上、これからはもっと仕事に集中しなければならなくなるでしょうし、家を任せられる者がいた方が良いと思うんですよ。」

 「…。」

 「かと言って、ご結婚する気もないんですよね?でしたらちょうど良いじゃないですか。あの子なら一緒に住んでも()()()が起きる事はないでしょうし。」

 「まぁ…でもあの子はまだ子供だ。子供に家政婦なんて…」

 「ここにいたら今まで以上に酷い扱いを受け続けますよ。あ、もちろん無理にとは言いません。私はただ、団長がとても気にかけておられたようですので申し上げたまでですから。」


 ----もっと!引くな!もっと押せ!もっと私を勧めろ!


 レイリアはさらに扉に耳を付け、固く握り締めた拳をブンブン振った。

 なぜなら…


 状況を変えられる劇的な要素キターー!!


 これである。

 リージェスに雇われれば必然的に叔父夫妻から離れられる。同じような仕事をするのならば、意地悪な肉親より優しい他人(イケメン)の方が絶対良いに決まっている。もしリージェスに追い出されるような事があったらシレッと宿屋に戻れば良いのだ。しばらくは叔父叔母から辛い当たりを受けるだろうが、その頃には自分も大人になっているのでどうという事はないだろう。

 ならば。


 ----雇え〜!私を雇うと言えぇぇぇ〜!


 レイリアは両手を扉にかざしてグルグルと手を回し、扉の向こうにいる男に念を飛ばした。

 これまでの十二年分とこれからの数十年分のラッキーをここで全て使い果たしても良い。欲を言うとちょっとは残しておきたいが、今はこっちの方が優先…


 コンコン


 『うぉっ!』と仰け反り、慌てて身だしなみを整える。レイリアは扉からスススと離れ、コホンと咳払いをしてから返事をした。


 「はい。」

 「着替えは終わったか?」

 「はい、終わりました。」


 静かに開いた扉からリージェスが入ってくる。ダンケルは食事を取りに行ったようだ。

 閉められた扉と二人きりの空間、そしてさっきの会話のおかげで妙な雰囲気が漂い、レイリアはソワソワとスカートを摘んで目を伏せた。


 「レイリア。」

 「はい。あ、あの、さっきは助けて下さって、ありがとうございました。まだ、その、お礼を言ってなかったので…」

 「いや…うん…」


 シーーーーーーーン………


 「あの、私もう行きますね。まだ仕事が残ってますので。」

 「待て。今、部下に君の食事を持ってこさせているから、まずはそれを食べろ。」

 「でもこれ以上ここにいると…」

 「ここにいると、なんだ?」

 「えと…サボッてると思われて…怒られるので…」

 「……ッ!」


 嘘はついていない。

 実際に腰が痛くて座った瞬間をセヴァスに見られ、サボるなと殴られた事は数えきれない程あった。それが痛くて怖くて、腰が痛くても洗濯中以外は座れなくなってしまったのだ。だから今も、安全だと分かっていてもこうして立っている。


 ----なんか、もういいや。やめよ。


 スパンと薪を割るように、急に現実に戻るのもレイリアの心の対処法の一つだ。妄想を膨らませてキャッキャ、キャッキャと楽しむのも良いが、そればかりに逃げていては現実の状況に戻るのが辛くなってしまう。この技は早い段階で身につけたものだが、逞しく生きなければならないレイリアにとって最も重宝するものだった。


 レイリアは深く息を吸い込み、フゥッと勢いよく吐ききって、リージェスに向けてニコッと微笑んだ。


 「それじゃあ…」

 「待て、と言ったはずだ。」

 「え?」

 「レイリア。子供の君にこんな事を言うのは間違っているのだが…やはり聞いておく。君は家事全般こなせるか?」


 くる……?


 「はい。掃除も洗濯も、お料理も繕い物も、留守番も買い物も、何でも一通りはできます。」

 「そうか…」


 くるのか……?


 「では、この村を離れる事についてはどうだ?親しい友人や仲間と離れるのが嫌とか…」

 「友達は…。両親が亡くなってからずっと働いてばかりなので、いつの間にか仲間外れになっちゃって…」

 「…。」


 こい、こい……


 「そうか…分かった。では一度だけ聞く。嫌ならハッキリと断ってくれて構わない。」

 「はい?」


 こい……!


 「俺の家政婦にならないか?」


 はい、キターーーーーー!!


 きました。やりました。劇的な要素が確実なものとなりました。

 レイリアはこれでもかと目を見開き、掴んだチャンスと感動に瞳を潤ませた。


 「家政婦、ですか?リージェス様の?」

 「あぁ。本当なら君みたいな子供を雇う事などしないのだが、このままここにいるよりはマシだと思うんだ。」

 「それは…」

 「俺達は今日が初対面だし、君のような子供が無防備についていくなど側から見れば危険極まりないと思うだろう。だから無理にとは言わな…」

 「やります!」

 「え?」

 「私、家政婦やります!やらせて下さい!精一杯頑張ります!」


 リージェスの言う通り、子供が、それも少女が単身で出逢ったばかりの男の集団についていくなど狂気の沙汰だと思われるだろう。レイリア自身そう思うのだから間違いない。しかしこのままここにいても、宿屋が自分の元に返ってくる前に命が尽きてしまう可能性だってあるのだ。

 同じ尽きてしまう命なら、吹き込んだ新しい風に乗って、悔いなく潔く散るまでよ!


 レイリアはリージェスを真っ直ぐ見上げて潤んだ瞳を瞬かせた。


 「あの、私なんかが本当についていっても良いんですか…?」

 「あぁ。そうと決まれば、()()()()には俺から話しておく。その瞬間から君には一切の危害を加えさせないから安心しろ。俺が側にいない時は部下が君の側についているから大丈夫だ。」


 なんという王子様発言。

 こんなご褒美まで頂いて良いのだろうか。ラッキーが残っていたのだろうか。ありがとうございま……


 コンコン


 レイリアがウットリとした目でリージェスを見つめていると、ダンケルが食事を持って部屋に入ってきた。


 「食事をお持ちしました。」

 「ご苦労。レイリア、彼は副団長のダンケル・ノーマシアンだ。俺の幼馴染でもあるから、俺がいない時に困った事があればこいつに聞くと良い。」

 「はい。」

 「ダンケル、この子を雇う事に決まった。今からあの二人に話をつけにいくからお前も来い。」

 「分かりました。…決心したんだな。」

 「うるさい。」


 ダンケルがニッと笑って声を潜ませる。

 リージェスはレイリアに食事をするようにと言い置き、部屋を後にした。


*


 レイリアがリージェスの元で働き始めてからあっという間に七年が経ち、レイリアは十九歳に、リージェスは三十二歳になった。初めてリージェスの年齢を知った時は十三歳差という壁に舌打ちをしたが、自分も大人になってしまえばさしたる問題はない。むしろ若さは武器になる。

 …と思っていたのに、リージェスを口説き落とすまでなんと二年もかかってしまった。


 胃袋を掴み、快適な生活を提供し、外で仕入れた小ネタを使って腹の奥からくすぐった。

 しかしなかなか心だけは掴む事ができなかったのは、リージェスにとってレイリアは子供の頃から見ていた女だからだろう。それも分かっていた。


 しかしそんな事で諦めるレイリアではない。『女』として見られないのなら、『なくてはならない存在』として見られるようにすれば良いのだ。後者の存在として見られた方が、余程手放せなくなるのだから。…と、思う事にした。考え方を変える術は本当に役に立つ。


 とはいえ、口説き落とす為に具体的に何かをした訳ではない。ただ、毎日リージェスが笑顔でいられるように、健康でいられるように、無防備に休めるように、嫌な事があっても一日の終わりは『笑い』で終われるように、幼い頃から続けていた事を繰り返しただけだった。

 女同士の恋バナ経験もなく、脳内でしか恋をしていなかった少女が真面目な男を口説くなど到底無理な話なのだ。なので普段通りにするしかなかった。


 そんなある日、リージェスがずっとムスッとしていた日があった。理由を聞いても答えてくれない。それにレイリアにも、誰にも怒ってないと言う。

 さすがのレイリアも困ってしまい、黙って食事の後片付けをしていると、後ろからポツリと低い声が聞こえて手を止めた。


 「部下に…レイリアを紹介してほしいと頼まれたんだ…」

 「へ?」

 「この前、忘れ物を届けに来てくれただろう?その時に何人か君に一目惚れしたらしくて、そのうちの一人が紹介してくれって言いに来たんだよ。」

 「はぁ。」

 「……会ってみるか?」

 「会いませんよ。あ、でも、リージェス様が一度ぐらいは会ってやってくれと言うのなら会います。」

 「いや……会わなくて良い。」


 このやり取りがあった日から僅か十日後に、レイリアはリージェスから交際を申し込まれた。


 そしてそれからさらに一年が経ち、ようやく二人は結婚式を迎えた。

 幼い頃から一緒に暮らしていたので今さら新婚気分も何もないが、やはり特別な愛情がある関係と、ない関係では生活の彩りが全然違う。二年も焦らしておいて『もう少し早く付き合ってたら良かったな…』と言われた時は、あまりの可愛さに悶え死ぬかと思った。これはもう重症だと自分でも呆れてしまった。


 レイリアはシーツの中で広い胸に頬を擦り寄せ、静かに微睡む愛しい男にポツリと呟いた。


 「ねぇ、リージェス。」

 「……うん?」

 「愛してる。」

 「俺もだよ。愛してる……」

 「フフ、お休みなさい。」

 「ん……お休み………」


 レイリアがフゥ、と息をついて目を閉じる間にスヤスヤと安らかな寝息が耳に触れて、思わずクスリと微笑んだ。

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