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夢屋 胡蝶  作者: 真鶴 黎
第九夜 心の在処を周る詞華
88/88

#16

◇◇◇◇◇


「……っ!」


 望は勢いよく身を起こす。鼓動が逸り、息が上がる。身体が追いつかず、眩む視界に頭を押さえる。


「……今、の」


 ドクドクと頭の中で脈打つ感覚が痛い。鈍い痛みに望は顔を顰める。


「おはようございます、舟橋殿」


 ゆったりとした声の主を望は見やる。

 穏やかな眼差しの男性。この男性は何者だったかと記憶を辿る。


「………………長さん?」


 寝起き特有の掠れた声が望の口から零れる。


「ええ。お目覚めはいかがです?」


「私……」


 望は思い出そうとするも、頭痛が邪魔をする。


「望」


 望の視界に春の日射し色が入り込む。杏子色のつり目が望の様子を窺うように覗き込まれる。


「……杏介さん」


 杏介はほっとした様子で表情を和らげる。記憶が混濁する中、見知った顔があると気分が軽くなる。


「大丈夫か?」


「えっと……」


 何が起きていたのか。これまでのことを振り返ろうとするも、頭の中で様々な出来事が断片的に浮かぶのみで、それぞれの前後関係を繋げることができない。


「混乱されていますね」


 長はゆったりとした所作で席を立つと、後ろの机の上の箱の蓋を開ける。


「説明の前に気分を落ち着かせましょう」


 長は背を杏介と望の向けたまま手元を動かす。


「はい……。あれ?」


 望は隣を見やる。

 夢の内容に影響されて髪や瞳の色が変わる。隣で眠っている周の髪の色は黒ではない。

 朱色。ぱっと目につく明るいその色は記憶に新しい。

 眼前を覆った色。守るように立ちはだかった花の色。

 彼が好きな色。彼が好きな花。

 朱色の牡丹だ。


「……」


 望は頭が痛むものの、徐々に夢の中での出来事を順序立てて整理する。

 周と一緒に夢の中に入った。そこで、周そっくりの誰かと話し、それから長に自分が置かれている状況を教わった。

 その後、何が起きたのだったか。


「周はまだ夢の中です」


 長の穏やかな声に望は意識を引き戻される。


「……私だけ先に?」


「はい。様子を確認したかったので、先に目覚めていただきました」


 よし、と長は手元の箱を手に振り返る。


「安らぎを与える香です。少しは気分が落ち着くかと」


 長は手元のそれ、香炉を運ぶ。花に留まる蝶を象った香炉だ。香は花から出ており、まるで、蝶を誘い込むようだ。

 しんとした控えめな香り。甘めの知らない香りだが、肩の荷が下りるような安心感があると望は思う。


「……」


「落ち着かれましたら、教えてくださいね」


 やんわりと長は言う。


「はい」


 望は数度深呼吸をする。冷たい冬の空気と甘さの中に少し混ざる清涼感のある香を胸の内に入り込む。


「ところで、周とは夢の中で何を?」


 望が落ち着くまであまり話を進めるのはあまりよくないかもしれないと思いつつ、杏介は長に尋ねる。

 一緒に夢の中へ入った周と望だが、望だけ戻って来た。

 夢の中で何があったのか、望だけ先に戻した詳しい理由、まだ夢の中にいる周はどのような状態なのか。杏介にはわからないことだらけだ。

 長の話を信じるのであれば、時間はない。杏介は周囲を警戒しながら問う。


「舟橋殿のことと、対処法のことを。前者のことは舟橋殿が落ち着かれましたらお話します」


「ふーん。望、焦んなくていいから」


 望の様子を見るに、顔色が悪い。寒さのせいもあるだろうが、夢の中で緊迫した出来事があったことが窺える。

 落ち着いてから。長の言うとおり、望の気持ちが落ち着いてから話を聞くことが賢明だろうと杏介も思う。


「はい」


 柔らかいながらも、すっと鼻を通る香。静かな雪の世界に確かに存在する張りつめた冷気のような感じがする。

 心地よくも、頭が冴えていく香に望の逸る鼓動が落ち着いていく。そして、断片的だった夢の世界のことが繋がっていく。

 ぷつぷつと意識が途切れたあの感覚。操り人形のように覚束ない足で歩いていた自分の姿。

 そして、崩壊する世界の欠片から身を挺して守ろうとした朱色のこと。

 集中していると、バラバラになっていた欠片がひとつずつ繋がっていく。ある程度形になってきたことで頭痛も収まっていく。


「……もう大丈夫です」


 吐息混じりに望は答える。正直なことを言えば、もう少し時間がほしい。だが、悠長にしていられないと勘が囁く。多少のことなら話を聞けるだろうという判断の元、望は話を促す。


「左様ですか。それならば、早速」


 長はひとつ息をつく。


「どうでしたか? 胡蝶の夢の模倣は」


 胡蝶の夢の模倣。その言葉に望は視線を下げる。


「……正直、あまり覚えていなくて。いや、覚えていないというか、ふわふわとしていて、現実味があるのか、ないのか」


 美しく、幻想的な夢の世界。とても優雅で、ゆったりと時が流れているようだった。

 それらが全てを忘れさせるようでもあった。


「感覚がないと言った方が適切かもしれません。だから、現実か、夢か、わからなくなりました。いや、それよりも……」


 自分を見下ろしていた視界がよぎる。命の宿らない、冷たくなった自分の身体を何と認識していたか。

 空になった器。自分の身体のことを冷徹に見ていた。まるで、ガラクタかのように、どうでもいい、価値のない物のように冷めた眼差しで見下していた。

 あの感覚は、と望の背筋を凍らせる。


「……自分が誰なのか、わからなくなった」


 思い出すのは秋のこと。一人の青年が焦がれるように秋の高い空を見上げていた。彼は自分のことがわからないと焦り、嘆き、苦しんでいた。

 その理由はわかっていたつもりだった。だが、実際に自分で経験し、気がついた望はまた別の感覚を抱く。


「こうして現実に戻れたからこそわかりました。あの夢は」


 望は眉間に皺を寄せ、表情を険しくする。


「怖い夢でした」


 美しくて、綺麗で、柔らかい夢。周がよく見せてくれる夢と雰囲気は似ている。

 それなのに、ぞっとする恐怖。美しい物に呑まれてしまうような圧迫感、背筋が凍る恐ろしさを抱いた。

 何より、怖いと思う要因は明確だ。自分の中から何かが流れていってしまう感覚、徐々に全てが失われていく不安。

 自己(舟橋望)の喪失。夢を見ているときには思わなかった感覚に気がついた今、その恐ろしさが押し寄せる。自分を喪うことに恐怖を抱く日が来るとは思わなかった。


「なるほど。あなたはそのように思われたのですね」


 長は静かに言う。


「あなたは先ほど、ご自分がされた決断を覚えていますか? 私が提示した策についてです」


 望に寄生する胡蝶をどうするのか。長はふたつの選択を提示した。

 その策の内、望が選んだ策。それは望もはっきり覚えている。


「……胡蝶の夢を取り除く」


「ええ、そうでしたね」


 凛とした眼差しで迷いがなかった。磨き上げられた鏡のように、透き通った水のように、明朗とした目で望は答えた。


「実際、どのような抵抗があるのかわかりませんが、胡蝶は何かしらの手を使って引き剥がそうとする力に反発するでしょう」


 その形がどうなるのかは長にもわからない。

 だが、おおよその予測はできている。


「先ほどお見せした夢はあくまで胡蝶の夢の模倣。夢か、現実か区別がつかず、夢の世界へ溶けていき、元から夢の世界の住民だと……いいえ、その意識さえないでしょうね」


 胡蝶の夢の本質は何か。多くの者が問い、多様な解釈を示した。

 夢か、現か。己は蝶か、人か。

 判断がつかない。だが、そんなことはどうでもいい。どちらも真である。

 それが己の意識。

 あるがままにあればいいではないか、と長の記憶の中の彼が言う。


「あなたの意志を排除し、取り込もうとする。胡蝶はそうして引き剥がされまいと抵抗します。もちろん、意志のないあなたが恐怖を抱くこともなく、混ざり合うようにして胡蝶はあなたと溶け合う」


 胡蝶が取り得るであろう手立て。それを長は夢として形成し、望に見せた。

 それは試すためであり、望に選択させるためだ。

 長はふうと一息つく。


「改めてお尋ねします。胡蝶の夢の模倣の世界を経験した今のあなたのお気持ちを聞かせてください」


 長はじっと望を見つめる。


「危険があることを承知で……恐ろしいと感じた上でも、胡蝶の夢を取り除きますか?」


 長の物言いは柔らかい。しかし、言葉の端々から重みが滲み出ている。


「それ、は……」


 望は言葉に詰まってしまう。

 即答しようと思ったが、喉に何かが張りついたかのように声が出ない。表情も、話し方も穏やかな長から圧し掛かる。それだけの危険性を長は言外に伝えようとしていることを望は感じる。

 そして、思い出す。胡蝶の夢の模倣を見せられる前、長は何と言っていたか。


『証明を。あなたが迷わないと、呑まれないと私に見せてください』


 その結果はどうだったか。長の言う証明ができたと望は思えない。

 望はできなかった。長が示した条件を達成できなかった。


「……」


「随分と急かしてくれる」


 なあ、と杏子色が望に同意を求めてくる。しかし、望は杏介に反応することなく沈黙したままだ。


「急を要しますので」


「だろうな。色んな意味で」


 望と胡蝶の夢のことも、これから起こるであろうことも。

 杏介は周囲への警戒を強めながら、望の様子を窺う。

 動揺。夢から戻って来た望からそれを感じた。そして、今の望からは迷いを感じる。

 本来であれば慎重に事を進めるべきこと。しかし、状況がそれを許さない。その状況のひとつを望が理解していないことを踏まえると、酷なこと。わかっているだろう長は容赦なく要求する。


「だからこそ、答えが欲しいのです」


 さあ、と長は望の答えを促す。翳りを見せる娘の目を真っ直ぐ見つめる。


「……」


 望は目を伏せる。

 証明できなかった。胡蝶を取り除くことはできないということを意味するに近い。

 できなければ、安全策を取るのか。しかし、その安全策は貘の一族の中で望が暮らすことだ。その策は舟橋望という人間が表舞台から消え、ひっそりと生きることとなる。

 それはできない。長にも伝えたとおり、望が天涯孤独であればできたかもしれない。しかし、今の望ではきっと限界がきてしまうだろう。

 ならば、胡蝶を取り除くという策を取るのか。長が示した、迷わないこと、夢に呑まれないことを達成できなかったのに、だ。

 あくまで、胡蝶が取るであろう抵抗の術を長の予想で作り上げた夢。実際は異なる手を取る可能性もある。胡蝶が異なる手段で抵抗するにしても、想定されることがある。だから、長は予想で夢を作ることができた。

 

『あなたの意志を排除し、取り込もうとする』


 その想定を元に作られた夢に望はいた。案の定、舟橋望の意志はなく、あっけなく呑み込まれたという結果になった。

 あくまで模倣。模倣の夢を望は怖いと思った。

 まさか、自分がここまで自己の喪失を恐れるとは思わなかった。篁の元にいた青年のことを知ったからか、身に沁みる。

 自分を失ったとき、彼のように我を失い、暴れたり、無気力になったりと感情の起伏が大きくなるのだろうか。そして、空っぽになった自分に焦り、ふわふわと地に足がつかない状態で彷徨うことになるのだろうか。

 それがわからない。わからないから怖いと思う。

 それでも、と望の脳裏によぎるのは親しい者たちの顔。家族や友達、世話になった者たちの顔だ。人間も人間でない者も、望にとっては大切な存在。彼らを忘れてしまうこともあるだろう。


「……失敗して、胡蝶に呑み込まれて、自分が何者なのかわからなくなることは怖い」


 胡蝶を引き剥がすことに失敗した場合、自己を失い、全てを忘れてしまうのだろう。先ほどまで見ていた夢のように、操り人形とも、空っぽの器になりはててしまう未来があるかもしれない。

 なら、ともうひとつの貘の一族の保護下にあることを選ぶのかという話になる。


「なら、安全策をとも思いますが、貘の監視下という閉ざされたコミュニティの中で穏やかな最期を迎えられる自信が正直ありません」


 親しい者たちと別れ、貘と暮らす。上手く貘たちの中に馴染むことができればいいが、望は貘の一族のことを信頼できない節がある。やはり、周との確執が原因だろう。話に聞いただけでなく、周を見る目の冷たさにどうしても望は不信感を抱いてしまった。

 周への怒り。時間が経っても消えない感情だろうと思う。来客がいるにもかかわらず、容赦がなかったのもその証だろう。一族の感情を理解はできるが、あの様子を見せられた後に共にと言われても、はい、と素直に答えられない。

 もしも、望が貘の一族と暮らすこととなったとき、どうしてもあの目のことがよぎってしまい、警戒してしまう。結果として、孤立してしまう可能性もある。


「不安を抱いたまま、新しい環境に馴染めなかったら、今までの楽しい記憶に縋ると思うんです。でも、記憶は薄れていってしまう。もう二度と人の世界に戻れないという状況の中、今までの記憶が薄れていくことに耐えられなくなるかもしれない。時が経つにつれてどんどん忘れていってしまう方がきっと苦しい」


 思い出が薄れ、忘れていく。日々の生活でもあることだ。しかし、それはある程度必要なことだ。

 忘却は生存のために必要なこと。留めておける記憶の量には限度がある。だから、必要なことは残り、そうではないようなことは忘れてしまう。

 では、必要な記憶も忘れてしまったらどうなるのか。残された記憶は、生き抜くためのものでもある。生き残るための手段とも言える頼みの綱が失われてしまえば、生きる気力すら失ってしまうだろう。

 書き記しておけばいい。それもひとつの手だろう。しかし、その行為は悲しみを強めてしまいそうな気がする。いつでも振り返ることができるからこそ、より一層、人の世界のことが恋しくなってしまいそうだ。

 孤独の中、縋るのは思い出。だが、その思い出も徐々に薄れてしまえば孤独をさらに強める。書き残しておいても辛い思いをしてしまいそうだ。

 憧れを喪った者のある末路を望は知っている。己のことなのに、己を形成した記憶がないことに苦しんだ者のことを知っている。そんな彼が縋ったものはないはずの記憶だった。取り戻された記憶を、憧れを腕に抱いた彼の表情はとても晴れやかで、嬉しそうだった。


 失ってはならない。望が望を守るための選択はやはり、これしかない。


「だから、私は胡蝶を引き剥がしたいです」

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