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夢屋 胡蝶  作者: 真鶴 黎
第九夜 心の在処を周る詞華
87/88

#15

 荘子の名と同じ周という名を持つ貘。それは役目を表す印のようなものでもある。


「なぜ、僕が?」


 周は貘の中でも力は強い方ではある。しかし、周は自身のことを特別な貘ではないと思っている。それは、周よりももっと強い力を持つ貘がいることを知っているから。

 その貘は今、周の目の前にいる。幼い頃から彼の力が桁外れであることを知っている。その力が衰えていないこともわかる。周からすると、自分よりも適任と言える貘がいる。


「一族の中で圧倒的な力を持つ長がその役割を担うのでは駄目なのですか?」


 一族の中で一番長命で、誰よりも強い力を持つ。そして、荘子から胡蝶の夢を取り出した当事者である。

 力もあり、事情も知る貘が胡蝶の夢と共にあり、守り、封じればいいはず。


「もちろん、私が見ていたとも。ただ、私とて、万全ではない」


 周の疑問に対し、長は最もだと思いながら息をつく。


「私が失敗したときや対処できなかったときの切り札。それが周という名を与えられる貘の役目だ」


 長とて、自分が胡蝶と在るべきだと考えている。胡蝶の夢を取り出したのは自分なのだから、最後まで自分が見張るべき責任がある。何かがあれば自分が真っ先に動き、対処する心づもりだ。

 しかし、何かしらの理由で長が対処できない可能性もある。胡蝶の夢は長が責任を持って管理しているものの、四六時中共にあるわけではない。長が見ていられない状況や万が一のことが起きて対処できないこともあるだろう。

 そのために備えが必要。だから、と長は周を見据える。

 呆然として事態を呑み込めていない顔を思い出す。元服したとは言え、幼かった顔立ちの少年は成長した。父親と瓜二つのその表情は複雑な面持ちで長の言葉を待っている。


「あの日、私はお前を追放するという手をとった。あのままでは殺されかねなかったから」


 胡蝶が逃げるなどあってはならないこと。逃がした者にはしかるべき罰を与える必要があった。

 だからと言って、切り札をなくすことはできない。しかし、あの日のことに対して、一族の怒りは強かった。

 死をもって償え。

 そんな声が聞こえていた。実際に周へは物が投げられ、刃を突きつけようとした者もいた。

 周が死んでしまっては切り札がなくなってしまう。だからと言って、周を保護するような行為は一族の怒りを増長させ、余計に周へ矛先が向くだけだ。

 周の命と一族の怒りを鎮める。その両方をとる選択として、長は周を一族から遠ざけるという策をとった。長の目から離れてはしまうが、周を喪うという可能性を下げることはできる。一族の者全てが納得はできないとしても、形式的にでも罰が下されたということは示すことができる。


「その切り札が長の目の届かないところで、どうなるかわからないのに?」


 周は顔をしかめる。

 あの日、周は荒れ狂う川へと突き落とされた。あの時点で、周が死ぬ可能性はあった。仮に助かったとしても、その後、どこかで果てることも容易に考えられる。

 糾弾されたあの場でなくとも、死ぬ可能性は捨てきれない。長が決断した追放という手は賭けとも言える。


「お前が死ぬことはないとわかっていた」


「なぜ?」


 長は周の問いかけに目を細める。


「夢を見た。周が生まれる前のこと」


 途中までは数回見たことがある夢。しかし、途中からは長の知らない夢だった。

 目が覚めたとき、またか、という思いと、今回は苦難が多いようだと頭を悩ませた。


「長い夢だった。始めは昔、荘子から胡蝶の夢を取り出した日のこと。続いて」


 ひらり、と長と周の間を胡蝶が舞う。硝子細工のような羽の蝶の姿に、まただ、と周は嫌な気分になる。


「胡蝶の夢が逃げたときのこと」


 長の言葉に周は眉を潜める。


「胡蝶が逃げたとき……それって、予知夢ということですか?」


「ああ、そうだ」


 その夢の中の長は一族から罵倒される少年を逃がすかのように追放を言い渡していた。

 知っている顔ではあった。しかし、長の知る顔の彼は少年の近くで無慈悲な表情をして立っていた。慈悲深いと評される彼の幼少期の顔そっくりな少年を長は知らなかった。

 そんな少年に対し、夢の中の自分は追い出すようにと一族の者に告げる。


 これで何とかなる。周を喪わずに済む。


 そんな心の声が聞こえた。


「そして、時間が飛んだのだろう。黒の衣を身にまとう者がこちらをじっと見つめていた。こうして対面するように、な」


 長の知る男の顔があった。細い目に疑念の色を乗せた男は長のよく知る慈悲深い貘かと思ったが、雰囲気が違うと思った。彼とは違った影を感じさせる顔と雨に濡れ、泥で汚れた幼い顔が重なる。

 自分が追放を言い渡した少年の成長した姿。幼さが抜けたその面差しに、彼とはまた会うことができるのだと感じた。


「追放した少年とは再会が叶う。そう私は思った」


「だから、僕が死ぬことはない、と」


「そういうことになる」


 夢の中で少年に追放を言い渡した長は再会する夢を見たから逃がしたのだろうと目覚めた長は思った。

 そして、その夢を見たということは、と暗い気持ちのまま身支度をしたのだった。


「……その夢を見て間もなく、ある夫婦から子どもを授かったと報告があった」


 ある夫婦という単語に周の身体が震える。


(けい)麗花(れいか)。二人揃って、私の元に知らせに来た」


 あの日のことを長はよく覚えている。

 懐妊しましたと落ち着いた様子で告げた麗花の隣でにこにこと嬉しそうに笑っていた恵。麗花の体調が優れない日が続いていると長は把握しており、恵がひどく案じていた。恵がいい医者はいないかと探し回っていたことも知っていた。

 麗花の体調不良は妊娠によるもの。めでたい話であると同時に、長の脳裏には数日前に見た夢がよぎった。

 恵とよく似た面差しの少年。その少年を冷徹に見下ろしていた男は今、長の目の前で喜びを隠せないほどの笑みを浮かべている。

 あの少年が何者であるのか。長は確信してしまった。


「恵と麗花の子どもが罪を負い、辛い思いをすることになる。……確信してしまった私は祝いの言葉をすぐにかけてやれなかった」


 おめでとう。そう言ってやりたかった。他の寿ぎの言葉も伝えたかったのに、出てこなかった。


「ただ、そうか、と言うのがやっとだった」


 生まれてくる子との未来を語る恵と、落ち着きがないと窘めつつも愛しそうに恵を見つめる麗花。

 喜ばしく、幸せなはずが、これから先来るであろう悲劇に長の胸中を複雑なものが占めていた。

 長は一緒に喜びたかったが、心の底から祝うことができない自分に嫌気がさし、身体を大事に、と麗花に言って長は二人を帰した。


「そして、その日、こんな夢を見た。私は手を掲げていた」


 そう言って長は夢玉をひとつ手に取ると頭上へ掲げる。花の園を模した夢玉は眩い光を浴びてきらきらと輝いている。


「不思議と色が移ろう夢玉の中で、胡蝶が飛んでいた。その様子はまるで、夢玉の中から出してくれと言わんばかりに体当たりするような、乱暴な飛び方だ」


 長の手の内の夢玉に靄がかかり、姿が変わる。

 その夢玉の様子を周は知っている。今、まさに長が言ったとおり、胡蝶が夢玉から飛び立とうとしている様子が長の手中の夢玉に映される。


「その後も夢は続く。どうなるのかは……周もよく知っているな?」


 そう問いかけた長の手中の夢玉から蝶がひらりと飛び上がる。

 それはよく知る光景だ。硝子のような美しい羽で天へと跳び上がる蝶。綺麗で、儚いその光景は周にとっては悪夢の始まりだ。


「私は遠ざかる蝶をただ見ていることしかできなかった。……私は胡蝶が離れるとき、何もできないのだろう、と悟った」


 長は手を下ろす。手の中の夢玉は元の姿に戻っている。


「飛び去る蝶の姿が見えなくなって夢は終わる。目が覚めたとき、彼……荘子との約束が浮かんだ」


 胡蝶の夢を彼から取り出す際に交わした約束。それが彼のためであり、未来のためになるものだ。


「私が胡蝶に対処できないとき、別の者が対処する。その者には自分の名前、周を贈るように、と」


 周。彼の名は約束の証ともなった。

 彼と同じ名の貘の細い目が大きく揺らぐ。


「自分から生まれた存在であり、自分に根づいた存在なら、自分の元に戻ってくるだろうから。自分と同じ名を冠した存在に引き合わせるために、と彼は言った」


 長は懐かしむように語る。それはまるで、旧友との思い出を懐かしむかのようだ。


「だから、周という名は特別。彼の名であり、切り札だ」


「……」


 切り札。そんな大層な役目を負っていたなんて周は知らなかった。

 否、これほど大事な話を知らないのは自分だけではないだろうと周は思う。


「その話、他の貘や貘以外の誰かは知っているのですか?」


 少なくとも、貘の一族全員は知らない。周も知らなかったし、あの日、罵声を浴びせてきた彼らも知らなかっただろう。知っている者がいれば誰かしら止めていたはず。


「一族の中に知る者はいた。貘以外に知る者はないだろう」


「知っているという貘は?」


「もういない。皆亡くなったよ」


 今となっては長とこうして話を聞いた周だけが知る話だ。


「何かしらあるだろうと勘づいている者はいるだろうが……。詳細を知る者はいないはず」


「そうですか」


 周の脳裏に凍てついた眼差しがよぎる。彼も知らなかったから、突き放すような視線と言葉を浴びせたのだろうかと周は思う。


「……とても大切なことなのに、なぜ、長の胸の内に秘めているのですか?」


 周という名の貘は切り札と長は言った。とても重要な存在であるはずなのに、なぜ周知されていないのかと周は疑問を抱く。


「……」


 二人の間を蝶が横切る。沈黙の中、悠々と飛ぶ蝶の気ままさが羨ましいと長は思う。


「周という名の貘は過去にもいた」


 周という名を贈られる貘の誕生の前に荘子との夢を長は見る。そして、胡蝶の夢を巡る何かしらの事象に関する予知夢もだ。


「昔は一族の皆にも話をしていた。もちろん、周の名を贈った貘に対しても。だが、特別視される立場であるが故に、時に期待され、時に恨まれ、それに耐えられずに自ら命を絶った周がいた」


 貘は感受性が豊かな者が多い。それは他者の夢に触れることが多いため、心を揺さぶられることも多々ある。

 良くも悪くも、夢は貘に影響を与える。

 精神を病む。貘によく見られることだ。夢の影響に加え、周囲の目に耐えられなくなり、精神状態が不安定になってしまった結果、自分の精神を侵す者から逃れようとする者があった。


「幸い、胡蝶の危険性が抑えられた後のことだったからよかったが……。それでも、あの周が追い詰められてしまい、この世を去ったことに変わりはない。胡蝶の危険性が抑えられたことと引き換えに貘の命は喪われた」


『もうこの役目から解き放たれていいですよね』


 当時の周はそう言って長の前で命を絶った。感じる物、全てに恐怖を抱いた目は最期に何を見ていたのか。怯える表情に反し、命の灯を消す手に迷いはなかった。


「同じことを繰り返したくない。悲劇をまた起こさないためにと周の役割を話すことをやめた。知っている者の記憶も消した」


「記憶を消した? それは……」


 記憶を消すことは禁忌。特別な事情がない限り、赦されないことであると定めたのは長だ。


「未来を守るため。犠牲と禁忌を天秤にかけ、犠牲を最小限にするために禁忌に手を出した」


 胡蝶という危険分子を抑えるための策を残す。そのために長は自分で定めた禁忌を破ることにした。


「だから、今となってはこの話を知る者は私と話を聞いた周だけ」


「……」


 長は遥か昔から生きている。歳もわからない、数えることもやめた、と周が幼い頃から言っていた。

 長は一族の中で誰よりも長命。長い時の中、胸の内に胡蝶のことを秘めていた時の方が長いのだろうと周は思う。

 それと同時に、周はある疑問を抱く。


「長」


 周は静かに呼ぶ。

 ひらひらと視界の隅で蝶が飛んでいる。その軌跡はゆったりとしている。

 蝶の軌跡はどこから始まったのだろうか。


「教えてください」


 望に胡蝶が宿ったこと。

 望を襲った怪異と胡蝶のこと。

 自分が胡蝶を逃がしたこと。

 周という役目に耐えられなかった貘がいたこと。

 周という貘に与えられた使命のこと。

 胡蝶の夢が貘の一族の管理下にあること。


 胡蝶の夢が取り出されたこと。


 胡蝶の夢が夢玉として存在すること。


 これらの全ての大元はどこか。蝶の飛ぶ軌跡のように緩やかに、今まで繋がってきた全ての事象の原点は何なのか。

 周は先ほど水上にいた老人の姿を思い浮かべる。


「胡蝶の夢を巡る一連の出来事の始まり……始点にいる荘子との関係について聞かせてください」

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