#14
バラバラと硝子片の雨が降る。キラキラと反射する光は眩しく、目の奥まで突き刺さるようだ。
「……うっ」
周はその光に目を細める。この光は嫌な記憶を思い起こさせる。
硝子の雨の中、一羽の蝶がひらりと天へと昇っていく。
そう、あの日もこんな光景を見た。そして、その後降り注いだのは鋭利な言葉の槍の雨だった。
「周」
名前を呼ばれると硝子片は花へと姿を変える。景色は光に包まれ、花に囲まれた湖畔が視界に飛び込んでくる。
「……長」
まだ視界が眩む中、対面に座る長の姿を捉えた周ははっと息を呑み、周囲を見回す。
「望ちゃん!」
倒れ伏した望の姿。苦しそうに呻き、動けなくなっていた彼女の姿がない。
「彼女なら先に現に返した」
長は穏やかに微笑む。
「大丈夫。あちらで用心棒殿と一緒だ」
「本当に?」
「ああ」
訝しむ周に対し長は苦笑する。
「万が一があったのなら、用心棒殿が叩き起こすだろう? 彼とは長い仲のようだから」
「どうしてそれを?」
周は杏介との関係を長には伝えていない。
それならば、と周が思うと長は眉を下げる。
「お待ちいただいている間にお話を聞いたよ。よくないことをしていたみたいだが……」
詳細は聞けていないが、彼らの悪事について、長は悪戯では済まないと思った。事柄によっては裁かれなければならないことも多々あったのではと思うと気が重い。
だが、そこまでしなければ周や杏介が生きていけない状況であったことも事実。一族から絶縁しなければ周は絶対に悪事に手を出すことはなかったであろう。決して褒められたことではないが、周が生きるためにした選択であったのだろうと思いこもうとする自分に嫌気がさしてしまう。
「……私に叱る資格などない。ただ、今を全うに生きていられるのならそれで十分。信のおける友もいるようだし」
「友、ですか」
周は嫌そうに言う。杏介との関係は友達でいいとは思うが、互いにそう言い合うことはあまりない。
腐れ縁。悪友でもいい気はするが、友の文字が入るのは正直何とも言えない気がして、お互いに腐れ縁と言っている。
「ふふ。用心棒殿と同じ顔をする」
あの子の友達になってくれてありがとう。
長がそう言ったとき、つり目がふいと逸らされ、嫌そうな顔をした。
友達ね、と不貞腐れたように言った彼と周。やはり、よき友なのだろうと長は確信する。
「でしょうね。彼だって嫌な顔しますよ」
周はありありと想像できてしまった。あの三角形の耳の毛が逆立ち、杏子色の目から嫌悪を感じるだろう。
「そうだったよ」
「……嬉しそうですね、長」
にこにことして長は上機嫌だ。
「もちろん」
長にとって、一族の者は我が子、孫のような存在。長く顔を合わすことのなかった周に友達がいた、それも長く繋がっている存在ともなれば嬉しい。
周が孤独ではなかったとわかった。そのことが嬉しくてたまらない。
「彼は言葉こそ荒っぽいが、周のことを案じていることがよくわかる。そんな彼なら何かがあれば周のことを叩き起こすだろうさ。たとえ、周の身に怪我を負わせてでも」
確かにしそうだと周は思う。狐火を容赦なく放ち、この身に火傷を負わせてでも起こしてくるに違いない。
そういう契約をしたのだから、望に異常があったのならしてもらわねば困る。それがないということは望は無事なのだろうと周は悟る。
「……長が僕を深い眠りにさせているとか、彼らを眠らせているとかじゃなければの話ですが」
「疑り深いな」
怪しまれても仕方ないと長は思う。が、その疑いは不要なものだと周はわかっているはずだと信じている。
「……」
長の目に偽りはない。鎌をかけても意味がないことはわかっていると周はため息をつく。
「でも、この眠りはそんなに深くないし、他に近くで夢を見ている気配がない」
意識を集中させなくとも周にはわかる。長なら簡単に隠すこともできるはずが、わざとわかるようにしているように思える。それぐらいはっきりとわかる。落ち着いていればすぐにわかることだ。
長の言うとおり、現にいる杏介と望は無事で、夢の中にいる自分も揺すられれば起きることができる程度の眠りに就いている。
「私の視界に入る者、皆何ともない。疑うのなら疑ってくれて構わないが、私に偽る心がないことは明かしたつもりだ」
周にもわかるようにあえて現やこの夢の世界の様子を感知しやすくした。そして、怪しまれることもないように、余計な力も使っていない。
潔白を示す。長は長なりに周や杏介、望に誠意を表しているつもりだ。
「……そう、ですか」
周はほっと息をつく。身体から力が抜ける。
ここまでされては肩に力を入れ続けても無駄な気がしてならない。とにかく、望が無事であると確信できたのなら周としては安心できる。
「さあ、こちらも早速本題へ入ろう」
つい久方ぶりの再会に緩んでしまったが、時は待ってくれない。長は改まって姿勢を正す。
ほのぼのとしていた長の雰囲気が変わり、周も思考を切り替える。本来の目的を果たさなければならない。
「周。率直に言わせてもらうが、舟橋殿から胡蝶を引き剥がすのは難しい」
その言葉に周の表情が再度強張る。
「それはさっきの夢の結果からの判断ですか?」
「そうだ」
長は宙に手を翳す。長の手元に靄が集まり、先ほどの夢の様子が映される。
ぎこちなく、操り人形のように動く望の姿だ。目は虚ろで、五感が失われているようだ。
その望の足元には彼女の動きを制するように花がまとわりつく。
否、あれは、と周は表情を険しくする。
「舟橋殿には見えていなかった。声も聞こえていなかった」
長がそう言うと夢の中の花は姿を変える。
『望ちゃん! ねえ、しっかりして!』
望の意識を引き戻そうと声を掛ける周の姿だ。周は望の手を取ろうとするも、ひらり、ひらりと望はかわす。ぎこちない動きのはずが、周の手からは上手く逃れていく。
「胡蝶の夢はああして意識を奪い、呑み込む」
場面が変わり、座り込んだ望の身体から靄が出る。その靄は一羽の蝶へと流れて行き、望はぱたりと倒れる。
まるで、死んだように彼女は少しも動かなくなった。
どれだけ周が呼んでも望は反応しない。
「舟橋望という人間は胡蝶の夢にとっては器でしかない。全てを呑み込んだ後、捨てられるだけだ」
「……」
夢の中の周は望を起こそうと揺り動かす。
そして、世界が崩壊する。硝子の雨が降る中、周は身を挺して望を守ろうとしていた。
「呑み込もうとする胡蝶に抵抗できる力は彼女にない。ああして最後は呑まれてしまうだろう」
夢の世界が崩れていくと同時に夢の靄も消えていく。
「……対策できれば回避できるのではありませんか?」
「迷うことなく、意志をしっかりと持つ。私はそう伝えた」
周は夢に入る前の長の言葉を思い返す。確かに、長はそう言っていた。
実際の望はどうだったか。迷わない、意志を持つ以前に彼女の意識はまともになかった。
望は表立って主張することは少ない。少し下がったところで見ていることが多い人間だ。
だからと言って全く主張しないということではない。はっきりと強く言うこともある。
凛としている。真っ直ぐで、一点の曇りのないあの眼差しは言葉以上に彼女の意思を伝えてくる。言葉にせずとも、彼女の心の内には考えや感情があり、どうにかしようとする意志は存在する。
肝が据わっているとよく思うが、心の強さが根底にあるからだと周は思う。
しかし、そんな望はいとも容易く夢の世界に呑み込まれてしまった。
「彼女はできなかった。……それ以前に、胡蝶はそういった感覚を奪う」
迷わず、意志を持て。それが胡蝶の夢と向き合うために必要なことだ。
それ自体、望はできただろう。しかし、その前段階で胡蝶は手を打って来る。
意志を持たれなければ胡蝶は勝つ。ならば、意識を奪ってしまえばいい。意識を乗っ取ってしまえば胡蝶の意のままになるだろう、と。それが胡蝶のやり方だ。
「じゃあ、本当に打つ手はないということですか?」
防ぎようのないことと周は思う。対抗しようにも、意識を奪われてしまえば対抗策を封じられたどころか、抵抗もできない。
考えても周に出せる案はない。長も望から胡蝶を引き剥がすことは難しいと言う。
彼女を胡蝶から救う手立てはないのか。縋るような細い目に長はゆっくりと首を横に振る。
「あるにはある。周の力が必要だ」
「僕の力?」
「そう。周の力だ」
長は湖へと視線を移す。周もつられるようにそちらを見る。
清らかな水上に一人、老人が立っている。
「あのご老人……」
この夢に入ったとき、望と話していた老人だ。右手に書を持ち、宙へ翳された左手には蝶が停まっている。こちらのことは気がついていないのか、左手の蝶を見つめている。
「周にはあのように見えているか」
「望ちゃんには僕に見えたみたいですけど」
周のそっくりさん。望はそう言っていた。
この旅の中で望は夢を見るようになったようだ。その夢の中で自分のそっくりさんと話したという。先ほどの出会いは望にとって初めてではない。
「そうだろうな」
「何か心当たりでも?」
一体長はどこまで知っていて、話していないのだろうと周は疑問を抱く。周と望とで見えた姿が違うことについてもわかっている口ぶりだ。
全てを知っているような眼差し。周が幼い頃から長はよく物を知っていた。周より長命、一族の中で最年長なのだから、当然のことだ。
一族の長として長く勤め続けている貘の言葉を周は向き直って待つ。
「周」
「はい」
張りつめた長の声に周が応じると視界の端で湖の水面が揺らぐ。
「……?」
周は波紋の先を見る。湖の奥まで波紋は広がる。
波紋の先、水上の老人がこちらを見ている。笑みを浮かべた彼はこちらに会釈すると姿を消す。
「あちらの方は誰なんですか?」
周には老人に見え、望には周に見えた存在。少なくとも、周は知らない存在だ。
「周」
「はい?」
真っ直ぐと答える長に周は首を傾げる。また名前を呼ばれ、不思議に思う。
「彼の名は周。荘子と言えばわかりやすいか?」
紛らわしい、言葉が足りなかったと思った長は説明する。
「あ、そうか。……そうか?」
周は表情を険しくしながら長と老人がいた辺りを順に見る。
「……」
そう言えば、と周は昔から抱いていた疑問を浮かべる。
周
自分の名前だ。この名前は長によってつけられたと両親から聞いている。長に尋ねたときもそうだと彼は答えた。
そして、それは特別な名前。一族の宝である胡蝶の夢の持ち主、荘子という名で知られる人間の名である。
なぜ、大切な宝を生み出した人間の名が自分につけられたのか。物心がつき、学んでいく中で彼の存在を知ったとき、周は幼心に疑問を抱いた。その疑問を両親や長に投げかけたこともある。
「なぜ、僕に彼と同じ名前をつけたのですか?」
そう尋ねた周に両親や長は何と答えたか。
「周囲を見渡すことができる子になってほしい。そして、家族や友、師でもいい、信頼できる誰かが周りにいて、支え合うことのできる子に育ってほしい」
長は懐かしむように答える。
周囲をよく見て思いやりができる子に、周りの者と確かな関係を築くことができる子に。
周りに縁のある、心のやり取りができる子であってほしい。孤独にならないように、周りとよき関係を持ってほしい。そんな願いが周という名前に込められている。
「……と昔は答えていたか」
ぼくのなまえはどうしてしゅうなのですか、と無垢な様子で尋ねてきた面影を長は思い出す。当時とは違い、今の周はもっと深い意味を教えてくれと尋ねてきているように長は思う。
「それも願いだよ。ただ、本意は別にある」
長の背後から一羽の蝶が姿を現す。硝子のような羽を羽ばたかせた蝶は周の目の前を横切ると旋回し、東屋の外へ、天へと飛んでいく。
あの日、周が逃がした蝶のように。その軌跡に周は表情を険しくする。
「周とは胡蝶の夢と共にあるための存在。荘子から生まれた胡蝶を監視し、胡蝶に何かがあったときにはその力を封じる者に与えられる名だ」




