#13
ふっと浮遊する。不思議な心地よさに望は目を開ける。
ぼんやりとその環境に身を任せている内に意識がはっきりとしてくる。
ゆらゆらと揺れる視界。
ふわふわと浮く身体。
ぽこぽこと馴染む音色。
さらさらと撫でる感触。
視界に広がる煌めき。
身体を包む清らかな輝き。
音色の美しさ。
感触の柔らかさ。
そして、射し込む光の冴え冴えとした様。
「ここは……水の中?」
ずっと遠くまで見通せそうなほど透明度が高く、緩やかな流れに光が乱反射している。ぽこぽこという音の正体は下の方から浮き上がる泡だ。冴え渡る光を受けて泡はしゃぼん玉のように虹色に輝く。
綺麗な光景。ずっと見ていられるほど、美しく、儚い。
「……」
このまま水に溶けてしまいそう。海月になったみたい。
そんなことを考えながら望は流れに身を任せる。と言っても、どこかへ流されるという感じはない。揺り籠に揺られているという感じはこうかもしれないと思う。
悪くない。このまま揺られ、流され、漂い、光の屈折を眺める。
「……」
ふわり、ふわり。
ゆらり、ゆらり。
「……ねむ」
眠気を誘う条件が揃っている。ひんやりとした水の感触、ほどよい音量の水音と何もかもが眠りに誘う。
「……ふわあ」
望が欠伸をすると口から泡がぽこぽこと零れる。歪な形の泡は上へ行くに連れて綺麗な円になる。
ガラス玉、ビー玉みたい。
「……ビー玉?」
何か忘れていないか。そう思う望は自然と手を握っていた。
そうだ。こうして眠り、目が覚めると。
望は手を開く。そこには泡のような、ガラス玉のような、透明な球体があった。気泡がたくさん入った球体は一点の曇りもなく、澄み切っている。
その中に花のような造形が見える。
花
花
花
花
花
花
花
花
「はな……。花の世界」
はっと望は息を呑む。この花の光景は記憶に新しい。
世界を覆いつくさんばかりの花々。
その花が一体何だったか。
ふと思い出したものの、あの花々の正体はわからない。
どこで見たのだったか。
花霞に記憶が攫われる。自分は一体、何を見て、何を忘れているのか。
そもそも、ここはどこか。
――水の中。
この手の中にあるのは何だったか。
――澄み切ったガラス玉。
この世界は現実なのか。
「……?」
意識が遠のく。
自分は
何者だったか
◇◇◇◇◇
花が咲く。
鳥が鳴く。
風が吹く。
月が浮く。
山は紫色に映え、流れる水は明朗。
天も地も彼方。
織りなす光景は全てが見事。
言葉では言い表せないような幻想郷。
手に取るのはおこがましく、だが、取ることもできないこの景色。
こんな景色がこの世に存在するのか。
もっと遠くにはどんな景色が見えるのか。
そう思いながら先を行く。余計な手が入っていない、あるがままの姿の光景はただ静かにあるのみだ。
どれだけ進んだだろうか。眼前の移ろう景色の美しさから少し目を離し、下を見る。底まで見えそうなほど澄み切った流水には花弁が浮かんでいる。
自分は飛んでいたのか。
そのことに今更ながら気がつく。確かに、木々の間を縫うように、大空を翔るような感覚は飛んでいるという状態なのだろう。
それぐらい、目はこの穢れのない世界に釘付けだったということなのだろうと悟る。
流れる花の舟も美しいと思っていると、一人の人間が流されてくる。
どんな人間なのかとそっと近づく。
花の舟の上、一人の若い娘が仰向けになっている。くっきりとした顔立ちの娘は目を閉じ、静かに呼吸をしている。
眠っているようだ。
静かに、水の流れに身を委ね、おおぶりの花が群れ成す舟は彼女を守るように大切そうに運んでいる。大輪の花は水流に負けず、崩れることはなさそうだ。
この娘は誰なのか。
娘の姿をもっと近くで見ようと近づくと百花の王が出迎えるようにこちらに近寄る。ありがたく花の上に降り立ち、娘の姿を眺める。
歳の頃は二十ほど。黒髪で、凛とした面立ちをしている。
月、冴える。
そんな印象を受ける娘だ。
その娘の胸はゆっくりと上下しており、やはり眠っているのだろうと思う。
こうして近くで見ても誰かわからない。
本当に何なのだろうか。
疑問に思っていると花の舟がゆらゆらと揺れる。まるで、娘を起こそうとしているかのようだ。しかし、娘はただただ眠っている。一向に目を覚ます気配がない。
揺蕩い、流され、あるがままに、されるがままに。
外のことなど全く感じず、彼女は眠り続けている。
じっと見つめても、彼女の顔を横切るように飛ぶも、変わらず、彼女は眠っている。
そんな彼女の顔に影が落ち、花の舟がぼんやりと輝く。そして、影が光に払われ彼女の顔を照らす。その光の主を見やる。
月が頭上に浮かぶ。もう少しで満ちる月だ。
冴え渡る月の光が水面に揺れる。その水面にひとつの影が映る。
蝶だ。ひらひらと舞うこの姿は花と花の間を行きかう生き物。
夢の世界を渡り、死の世界をも渡る。そうか、自分は蝶だったのかと己の姿を認識する。
この羽でどこまで飛び、舞い踊ることができるのか。
どこからともなく鈴の音が鳴る。規則正しい、澄み切った音が鳴り響くと花の舟がざわざわと騒ぐように揺れる。
そして、娘の目がぱっと開かれた。
◇◇◇◇◇
水の音がする。ちゃぷちゃぷと音がする中、他の音も混ざっている。
リーン、リーン。
シャン、シャン。
どこからともなく鈴の音が聞こえる。金色の丸い鈴が連なる神楽鈴を想像する望の視界には少し欠けた月の浮かぶ夜空が広がっていた。
「……?」
先ほどまで水中にいたような、空を飛んで誰かを見ていたような気がする。ぼんやりとする視界を蝶が通り過ぎて行くのを認識しながらも、望はゆっくりと身を起こす。
「何これ」
手についたのは花だ。花弁を幾重にも重ね、大輪の花となしている。
花の舟。望を運ぶように花が広がり、水面を滑っているようだ。
この花は何だったか。覚えがある気がするのだが、花の名前が出てこない。
「……」
今は花の名前を思い出している場合ではないのかもしれない。望は姿勢を正す。花の舟は崩れることなく、望を守るように舟の形を成している。
結局のところ、ここはどこなのか。月明りだけにしては世界は明るい。両側に広がる花々や水面が月明りを反射しているとしても、説明にならない。
リーン、リーン、と澄んだ音が鳴る。鈴の音が聞こえるということは誰かいるのかもしれない。
その音に近づいている。明瞭になってくる音に応じるように花の舟はそちらに向かっているようだ。
このまま流されていいものか。
そんなことを思った望は背後を振り返る。とくに変わらず、花が咲き、川が広がっているだけだ。
前後左右、頭上を確認したなら、と望は身を乗り出して川の深さを見ようとする。
どこまでも澄み切っているのに、底が見えない。水中に生き物の気配はない。月がぽっかりと浮かび、蝶の姿が歪に映っているところを花びらが横切っていく。
「……あれ?」
自分の姿はない。こうして覗き込んでいる自分の姿がない。
そんなことがあるのか、と思いながら、望は水面に手を伸ばす。
瞬間、その手を阻止するように大輪の花が水面に広がる。触れてはならないと警戒するように、花弁を開いている。
「どうして?」
望は花に問いかける。しかし、花は答えることなく、ただ水面に広がるのみだ。
リーン、リーン。
シャン、シャン。
鈴の音はすぐそこだ。望は音の方へと振り返る。
振り返った先にあるのは月明りに照らされた垂れ幕。向こう側が透ける垂れ幕は望の到着を迎え入れるようにゆっくりと天へと上がる。
垂れ幕の先には朱色と金色の装飾が美しい舞台がある。舞を奉納する舞台がこのような感じだった気がすると望が思っていると蝶が舞台の方へ飛んでいく。
ひらり、ひらり。
緩やかな軌跡を描くその姿は舞い人の袖が翻るようだ。
綺麗、と望が思っていると、空気が震える。
「……あ」
シャン、と鈴が一際大きくなると望の意識がふっと途切れる。倒れそうになる瞬間、大輪の花が受け止めるように視界に広がった。
◇◇◇◇◇
神楽殿で娘が舞う。虚ろな表情、覚束ない足取りでひらり、ひらり、と舞う。深い紺の袖が翻るのに合わせて鈴が鳴る。
操り人形のようだ。己の意志のない娘は舞う。
これは一体。
娘は変わらず舞っている。
その娘の足元で花が揺れている。もどかしそうに大輪の花はゆらゆらと揺れ、何とか彼女に気づいてもらおうとしているようだ。しかし、その花の動きをよけるように娘は舞い続ける。
あの花は何という花だったか。
王者のような風格の花は彼女を守ろうとしているのか。
様々な疑問が生じるも、自分にはわからない。
花のことも、娘のことも、舞も、舞台も、鈴も。
この世界も。
自分のことも。
己は何者だったか。
シャン、シャン、と鈴が鳴る。その音と共に思考が朧になっていく。意識がかけ離れて行く。
◇◇◇◇◇
視界がくるくると回る。覚束ない足は自分の物ではないように、それでも動き続けている。
それに気がつくと眩暈がする。何とか踏ん張れるほどの視界の揺れではある。
が、瞬間、何か支えてくれたものが取り払われたような感覚に態勢を保てない。
「……え、何?」
不意に足から力が抜け、ペタンと座り込む。
「……」
力が抜けると同時に頭が痛む。鈴の音がやけに響いて余計に痛む。
考えなければならないはずが、思考の邪魔をするように鈴の音が重なり合い、大きくなる。
◇◇◇◇◆
娘は座り込み、頭を押さえてうずくまっている。
これはまた何が起きたのか。
そう思う自分の視界も霞む。
力が抜けていき、ひらひらと頼りない軌跡を辿って舞台上に降り立つ。
◇◇◆◇◆
蝶が近くに降り立つ。弱々しく羽を震わせるも飛び立てないようだ。
◇◇◆◆◆
娘と目が合う。虚ろな眼差しはこちらを見ているのか、わからない。
◆◇◆◆◆
頭痛がひどくなり、耳鳴りまでしてきているようだ。それがひどく不快で、吐き気までしてくる。
痛くて、気持ち悪くて、苦しい。
ただの体調不良で済むわけがない倦怠感に何も考えられなくなる。
「……」
もう駄目だ。この苦しみから解放してほしい。
そう思うと視界がぐるりと回る。全身から力が抜け、舞台に倒れ込む。
意識が遠のいていく。視界もぼやけていく。
「……やだ、な」
身体の中をぐるぐるとかき混ぜられているような不快感に熱いのか、寒いのかもわからなくなる。
肉体だけでなく、思考もかき混ぜられる。この嫌悪感を発散する方法を考えようとしても、それを邪魔するようにごちゃごちゃと混ぜられる。
何かを掻き出そうとしているのか。身体から何もかもが抜けていくような感じがするのに、重苦しい。こんなにも苦しいのは嫌だ。
どんどん意識が薄れていく。
瞬間、ふっと全てが軽くなる。
「……?」
苦しさも、倦怠感も消える。むくりと簡単に身を起こせるほどに。
「ん?」
己の手をまじまじと見つめ、手を開いては閉じを数度繰り返す。
「あれ? 私、何で……」
チリーン、と可愛らしい音が鳴る。
「……」
風が吹く。さらっとして、柔らかな風は不快なものを攫う。
「……? ………………」
水が流れている。
「………………」
周りを花が囲んでいる。ふわふわとしているのに、崩れそうにない、しっかりとした花だ。
「……」
花がざわつく。
「…………?」
己の手を見つめ、頬に触れる。
「……私は」
清らかな音が響く。
「私は」
鈴の音が高らかに鳴る。
「……」
声は音にならず、宙に消える。
「……」
何もかもが失われていく。
視界から光が。
意識せずとも入って来ていたはずの音も。
肌に触れる物も。
身体から色々な物が流れ出していく。
◆◆◆◆◆
娘の身体から靄が生じる。月明りのように静かながらも、明るいその靄は自分の方へ漏れて行く。
彼女の身体から生じた靄は自分にまとわりついていく。
これは。
靄をまとう。衣を着るように、羽織るように。
そうだ、これは。
鈴が鳴る。硝子が割れるような甲高い音に頭がぐらぐらと揺れる。揺れる視界、痛む頭に容赦なく様々な光景が流れ込む。
やはり。
気がつくと同時にぱたり、と娘は倒れ込む。糸が切れた人形のように彼女は動かなくなってしまう。
「……」
ゆらゆらと羽ばたき、彼女を見下ろす。開かれた目に光はない。水のように澄み、月のように冴えたあの光は失われた。
「……そうだ」
答えは出た。
「これは器だった」
人の形をした器。その器の中で自分は存在していた。
その器の役割は果たされた。こちらが真の姿だ。
「今までは夢だ」
人間の姿で過ごしてきた記憶。流れ込んできた光景は人の姿をしていたときの行い。
だが、それは所詮夢幻。人の姿で時を過ごしてきただけだ。
本来の自分の姿は蝶。今まで人として振舞っていた夢を見ていただけだ。
「……」
舟橋望。そんな名前の器は器としての役目を終え、静かに眠っている。呼吸することなく、ただ横たえている。
その器の周りを花が囲む。幾重にも重なる花弁を揺らしながら彼女を守るように囲んでいく。
「……」
あの花は何だったか。自ら動くことなどないはずの生物が意志を持って動いている。
守る。ある種、強い意志によって生まれる行動を花がとる。
そこまでして抜け殻を守る意味が花にあるのか。風格のある花が無を守るという行動がわからない。
「……」
花は抜け殻を起こそうとするかのように花弁を揺らす。
何かを成そうとするその姿が気にかかる。
ひらひらと抜け殻のもとまで飛び、器の肩に停まる。
「なぜ、そんなことをする」
こちらが問うも、花は花弁を揺らすのみ。
「それはもう必要のないもの。構わなくていい」
器はもう空なのだから。役目を終えたそれは捨て置けばいい。
だが、花は器を守るように大輪の花を広げる。崩れようとも構わないと言わんばかりのその姿は立ちはだかる壁のようだ。
そこまでする理由がわからない。本当にこの花は何なのか。
「彼は誰ぞ」
そう問うと花は動揺したように花弁を震わせる。
「それほどまでにその器は大切か?」
自分にとっては仮の宿。そこにいる必要はもうない。
花にも必要がないだろう。立派に咲き誇る花弁を持っているのだから。
「……忘れてしまったの?」
若い男の声が問う。声は花から聞こえる。
「僕のことは?」
男が問うと視界が一瞬荒くなる。砂埃が舞ったような視界だ。
「僕のこと、見えてる?」
「……?」
この声の主は一体。
その疑問を消し飛ばすように風が吹く。視界がぐるんと回り、飛行が覚束なくなる。
「そこまでだ」
制するような別の声がする。老成した男の声と共に世界に亀裂が走る。美しく、淡い世界が崩れていく。
まるで、花弁がもがれていくように。
◇◇◇◇◇
はっと息を呑む。慣れたはずの身体が重く、言うことを聞かない。
それでも耳には嫌な音が入ってくる。硝子が割れたような、踏みしめるようなその音に無理やり視線だけでも頭上へ向ける。
世界が崩れていく。バラバラと硝子の雨が降るように光の世界が消えていく。
「……」
何が起きているのか。
そう問おうにも声が出ない。パラパラと降り注ぐ世界の破片を無防備に浴びる。
痛みは少ない。紺色の衣のおかげだろうか。だが、針でチクチクと刺されているような痛みは不快だ。
「……」
世界が終わる。
そんな不安の中、キラリと頭上で光る。
大きな世界の破片だ。その先端は鋭く、針どころか、槍のように貫きかねない。
それがこちらに向かって降ってくる。
よけなければ。そう思うのに身体が言うことを聞かない。力の入らない身体を引きずることすらもできない。
このまま舞台上に張りつけられしまいそう。まるで、標本の蝶のように。
重い瞼が蓋をしようとする。
痛いのも、怖いのも嫌。
そう思いながらゆっくりと目を閉じる。それならば、嫌と思う根源を見なければいい。
そんなことを考えていると何かがふわりと身体を覆う。甘い香のする滑らかなそれに重い瞼を上げる。
「……あなたは?」
守るように覆いかぶさっているのは大輪の花の群れ。美しい風格の花は立ちはだかるように硝子の雨を浴びる。
花が崩れていく。硝子の雨は花を壊していく。
百花の王が倒れてしまう。
それは駄目だ。そう思うのに身体は言うことを聞かない。
「また……私は…………」
何もできずに、見ているだけ。踏み込むことができず、崩れ落ちていく花を。
彼を見ていることしかできなかった。




