#11
ふわりと望の鼻筋を撫でる。滑らかなその感触は絹のようだ。そんな感触に望は目を覚ます。
眼前に広がるのは花。ある花は襲い掛かるように頭を垂れて望を見下ろし、ある花はその花弁を散らして降りかかる。
「……」
望はここはどこだろうかと思いながら、身体をゆっくりと起こす。見渡す限りの花の世界はどこか眩しい。
何が起きてこのような場所にいるのか、とまだ覚醒しきっていない頭で考え始める。
貘の一族と会う。ようやくそれが叶った。一族の使者に連れられ、彼らが暮らす地に足を踏み入れ、長と面会をした。
詳しい話は夢の中で。そう言われ、夢玉を掲げられたのだった。
「……周?」
一緒に夢の中に入ってきているであろう彼の名を呼ぶ。
「おはよう、可愛らしい子」
背後から降ってきた声は聞き覚えがある。望は反射的に振り返って身を引く。望の動きによって生じた風で花が少し舞う。
細い目の男が身を屈めて望を見下ろしている。飄々として、軽い口ぶりの彼はよくこんなことを言う。でも、と望の胸の内に何かが引っかかる。
「また来てしまったみたいだね」
細い目をさらに細めて彼は笑い、しゃがむ。彼の動きに合わせて小さな風が起き、ひらひらと花が舞う。
しゃがんでこちらを覗き込む細い目。望はよく知っているが、知らない男の目だ。硝子のように綺麗だが底が見えない、何を考えているのかわからない目をしている。
やはり、と望は体勢を整える。
「周……のそっくりさん?」
「おや、そっくりさんときたか」
周とよく似た面差しの男はふふふと笑う。
「私は私なのだけども、可愛いお嬢さんからすれば、周は彼なんだね」
彼と言いながら目の前の男は自分自身を指さす。
「君の周ならここにはいないよ。貘の長も」
「……二人はどこにいるのですか?」
周と貘の長も夢の世界へ入ったはずだ。男の言うとおり、見渡せる範囲で二人の姿はない。それどころか、花々が視界を遮っているほどだ。
この男が何かしたのか。そもそも、昨日から出てくるこの男は何者なのか。望は警戒心を露わにする。
「すぐに迎えが来るさ。ほら」
そう言って男は指をさす。望はその指先を見やると、咲き乱れる花の間を縫うように蝶がひらひらと飛んできている。蝶の深緋の羽に望は見覚えがある。
「来たみたい」
蝶は真っ直ぐ望の方へ飛んでくると、男との間に割り込む。まるで、望を守るように羽を広げる姿に男はゆったりと構える。
「そんなに警戒することはないだろう?」
このとおり、と男は両手を上げて敵意がないことを示す。
「ほら、その子を連れて行きなさい」
男は手を上げたまま立ち上がり、数歩下がると表情を引き締める。
「貘の長にあまり時間がないと伝えてくれ。そして、君のことも早く知らせるべきだとね」
男が寂しげに笑うと、花の嵐が起きて男の姿を攫う。思わぬ突風に望は腕をかざして目を閉じる。
バタバタとはためいていた衣服の音と風の音が止むと望は目を開ける。かざした腕の間から見える深い黒色は見覚えがある。この頃長くなったと思う髪が垂れる背中は知っているものだ。
「……周?」
望が呼びかけると肩越しに細い目が向けられる。
「望ちゃん」
ほっと安堵した様子の周は振り返ると望の様子をまじまじと確認する。
「大丈夫? 何もされてない?」
「うん。少し話をしただけ」
「話をされましたか」
その声に望は視線を上げる。周が蝶の姿で飛んできた方向だ。声の主、貘の長は険しい表情を浮かべて何か思案する。
「……」
「長、あの老人を見ましたか?」
「老人?」
周が長に問うたことに対し、望は疑問を呈する。
彼の姿は周と瓜二つ。二十代半ばぐらいの若者の姿だった。
「え? ご老人だったでしょ?」
「ううん、違う。周のそっくりさんだった」
「僕のそっくりさん?」
周は目を丸くする。
「そうなるでしょうね」
長は苦笑を浮かべる。そして、身を屈めて望の様子を窺う。
「舟橋殿、お身体に不調はございませんか? 問題がなければ、きちんと整理してお話しましょう」
「はい。大丈夫です」
「それならば」
長は来た道に手を向ける。花々が頭を垂れて道を開けるように、一本の道ができる。
「参りましょうか」
長が先導するのに周と望も続く。
花の道を行くのは望たちだけではない。ひらひらと蝶も舞い遊びながら進んでいる。
「長、どこへ向かっているんですか?」
「腰を下ろせるような場所がいいだろうと思って。すぐそこだ」
ほら、と長が言うと花の天井が絶え、大空が広がる。
「この景色……」
眼前に広がるのは鏡のような大きな湖。湖には舟が浮かび、湖畔には橋と繋がった東屋がある。
「見覚えがございますか?」
長は望の考えを見透かすように問う。
「はい。似たような景色を見ました」
初めて周とよく似た面差しの男に会ったときの光景とよく似ている。
否、もっと別の既視感を望は抱く。
「ずっと昔にも見たことがあるような……」
懐かしい。そう思っている反面、こんな景色を見たのはいつ、どこでだったかと疑問を抱く。とても古い時代の建築に見える東屋を訪れた記憶は望にはないはずなのに。
故郷を愛しいと思うような感覚に近い。そう思う望に長は淡く微笑む。
「あちらで話をしましょう」
長の言うあちらを二人は見やる。湖畔から伸びる橋の先は東屋が湖を一望できるように佇んでいる。
長を先頭に二人も東屋へ向かう。はらはらと舞い散る花々の間を時々蝶がひらひらと飛んでいく。幻想的で美しい光景を望は初めて見るはずなのだが、既視感を覚える。それに何とも言えない不安を抱く。
「望ちゃん、大丈夫?」
ずっと表情が険しい望に周は声を掛ける。凛とした眼差しはいつもよりも鋭利で見るからに何か思案している様子だ。
「大丈夫。ただ、気になることがあるだけ」
望は胸の内の疑問に眉を潜める。
この光景が気になる。知らないはず、訪れたことはないはずなのに、知っているという記憶がある違和感がある。
何故。そんな疑問が望の胸中を占めるも、思い当たる節がなく、気味が悪い。
東屋の屋根の下、どうぞ、と長に促された周と望は席に着く。長も遅れて席に着くと、机の上にころころと硝子玉が現れる。
色とりどりの硝子玉に浮かぶ文様。それは望の記憶に新しいものばかりだ。
「それ、私が生み出した夢玉……」
望が夜中に徘徊したという日から生み出された夢玉たちだ。今回の旅で持ってきた物だが、まだ長には見せていない。
「そのようですね。こんなにもたくさん」
長はいくつか手に取ると掌の上で転がす。どれも他愛のない、生き物たちが眠っている間に見たものばかりだ。
「……それほどまでに、進んでいるとも言うことか」
「長」
周が切り出すと長は夢玉を転がす手を止める。
「さっき見たご老人があまり時間がないと伝えてほしいと言っていました。あなたは望ちゃんのこと、心当たりがあるのですね?」
長はゆっくりと瞬くと望を見やる。
凛とした、水鏡のような瞳。とても強い霊力を持つ娘。
その根源は彼女の生まれ持ったものだけではない。後天的なものがある。
長は夢玉を机に並べるとひとつ息をつく。
「……舟橋殿。率直にお伝えしましょう」
静かに切り出した長の声に望の背筋を嫌な感触が這う。
「あなたは胡蝶の夢に寄生されている」
「……寄生?」
予期せぬ言葉に望の思考は単語を繰り返しただけで受け入れに一拍遅れる。
「待ってください、長」
周は震える声で長を呼ぶ。
「胡蝶の夢が望ちゃんに寄生しているって……。僕はあの胡蝶の気配を知っています。この子の夢の核を調べましたが、胡蝶の気配を感じなかった」
夢の核とは夢の世界を構築する存在。初めて望と出会い、話を聞いたときに周は夢の核の異常を真っ先に疑った。今までにも夢に関する不調の相談を受けた際、夢の核の調査によって解決した事例が多数あったからだ。
今回もそうだろう。そう思った周は望の夢の核を調べた。しかし、望の夢の核は今までとは違う状態だった。
夢の核に異常はないが、夢を見たという痕跡がなかった。その後も何度か調べたが、望が自力で夢を見ることはなかった。だから、自分は夢を見ないと言った望の言葉に嘘偽りはないとわかり、こうして今まで共に原因や解決策を調査してきた。
そして、あの日、自分が逃がした胡蝶の行方もひっそりと調べていた。その胡蝶がまさか望と共にいるとは思わなかった。知っている胡蝶の気配は望から一切しなかった。
長は静かに息をつく。周が気がつかないのも当然のことだ。
「胡蝶は夢を見る者の奥底に潜み、同化するように気配を消す。だから、簡単には見つからない」
それも、と長は望の気配に目を伏せる。
「強い霊力を持つ者ともなれば、胡蝶の気配を消す隠れ蓑になる。元から強い霊力を持つ者に潜み、上手く自分の力も混ぜる。そうして自分の存在を消すと同時に、宿られた側の霊力が増す」
望が類稀な霊力の持ち主であることは長から見ても一目瞭然だ。長いこと人間を見ていない長だが、過去に見てきた人間の中でも彼女は高い霊力の持ち主だ。
そして、その霊力にわずかに混ざる胡蝶の気配。それを長は察していた。文で望の状況を知ったとき、おおよその予想はしていた。そして、実際に望を見て確信へと変わった。
舟橋望は胡蝶の夢に寄生されている、と。
「痣の出現と共に感じた夢の残滓は胡蝶の夢のものだ」
「うーん……。だから、知っているような気がしたのか」
知っている気がするがわからない。曖昧な感じがしていた周の直感は間違っていなかったようだった。
まさか、それが胡蝶の気配だとは。周は気がつけなかった自分を情けなく思う。
「周が確信できなかったのも舟橋殿の霊力に胡蝶の気配が阻害されていたからだろう」
「そういうことか」
上手いこと擬態して周の目をも逃れた。それほどの力が胡蝶の夢にあったことを周は初めて知る。
「なら」
望は静かに切り出す。
「胡蝶の夢はいつ、どこで、なぜ私に寄生したのでしょうか?」
胡蝶の夢。初めは故事として認識していた。それが、実は本当に夢として存在しており、貘の一族ゆかりのものであるとも知った。
それがどうして自分の中にあるのか。それはいつ、どこで望に寄生したのか、望にはわからない。
「私が寄生先に選ばれた理由は、隠れ蓑として十分な霊力を持つ人間だから。そこまではまだいいんですけど……」
それが自分である必要があるのか。何かしらの理由があるのか、それとも偶然なのか。どちらにせよ、望が選ばれた理由としてはまだ他にも要因があるのではないかと思う。
その要因は何か。まだ長から聞けていない点がある。
「いつ、どこで、ということでしょうか」
「はい」
どこで寄生され、どれだけの時間共にあったのか。そこはまだ明示されていない。
否、思い当たる節は望にはあるが、まだそうとは決まっていない。
「そうですなあ……」
思案する長の言葉を望は待つ。
「少し、あなたには辛い記憶かと思われますがお話しましょう」
長がそう言うと東屋周辺の景色が変わる。明るい花々の景色から一転、暗闇に覆われる。
鬱蒼とした暗闇を望はよく知っている。逢魔が時と呼ばれる時刻だ。
「……やっぱり」
望が思い当たるあの日の景色だ。
「ええ。あなたが怪異に襲われた日、胡蝶はあなたの身体に移った」
「……」
伸ばされた枯れ枝のような黒い腕が望の脳裏をよぎる。
忘れたくとも、忘れられない出来事。望が夢を見なくなったきっかけはあの日なのだから、胡蝶が望に寄生したと言われても不思議ではない日だ。
「あのとき、胡蝶が……」
つまり、十年以上前から望の中に胡蝶はいた。あの日からずっと得体の知れない存在が自分の中にいたことに望は寒気を覚える。
「じゃあ、あの怪異は胡蝶? でも」
望は元凶の黒い姿を思い浮かべる。やせ細った姿は人間のようだった。蝶のように羽は持っていなかった。
望はあの怪異の正体について知っている。それは望を助けてくれた濡れ羽色の冥官が教えてくれた。彼は何と言っていたか。
穢れた神。元々は人間の男だった。篁が生まれるよりもずっと前に生を受け、この世を去り、堕ちてしまった存在。
「ええ。彼は元人間。胡蝶ではありません」
「なら、あの怪異と胡蝶はどんな関係が?」
無関係ではないだろうと望は思いながら尋ねる。それは周も同じで、険しい表情をしている。
「あなたと同じですよ。あの怪異も胡蝶に寄生されていた」
長は手を挙げると闇を祓うように手を振る。すると、闇は長の手に吸い込まれ、世界に光と花が咲き誇る元の景色に戻る。
「アラハバキとは言え、元は神として清浄に祀られていた。封印されたと言っても力が失われたわけではなく、長い眠りに就いていた。……己のことを忘れ去った者たちへの恨み、忘れ去られた己の寂しさ。そんな孤独の悪夢をずっと見続けていたようですね」
長の手に集まった闇は球体となる。不吉な黒い夢玉へと闇は転じた。禍々しい色の夢玉から感じる怒りや悲しみ、苦しみに長は表情を曇らせる。
「そこに逃げ出した胡蝶が入り込んだ」
逃げ出したという単語に周の肩がわずかに跳ねる。
「封印から漏れ出る夢の気配に入り込んだのでしょう。さすがに神が見る夢の中に入られたら我らが探し出すのは困難を極めます」
封印を潜り抜けてしまえば、そう簡単に追手は来ない。封印され、眠りに就いている神の夢の中に胡蝶はずっと潜み続けていた。
「そうして、長い月日が経ち、神は目覚めた。……胡蝶の力で増大した力で封印を破り、現世へと出て来てしまった」
暴れ回る神はもはや神聖さを失い、悪しき存在へと化していた。
怪異。そう呼ばれる異形へと成り果て、舟橋望の前へと姿を現した。
「……随分と悲しい存在ですね、彼は」
長は手の中の夢玉をじっと見つめた後、目を閉じる。
「今もなお、慟哭が聞こえる」
枯れて、朽ちて、発声機能もないだろう喉を震わせて訴えかけるその声音。耳を澄ませて何とか拾い上げた音を言葉と認識していいものかとも思う。
ただ、その声色は怒り、悲しみを含んでいる。この感情をどう扱えばいいのか、本人もわからなくてぶつけているようにも思う。
悲しくて、可愛そうな神。元々は人の子だったと納得のいく憐れな存在だと長は思う。
「あの、長さんはその怪異についてどこまでご存知なのですか?」
望や周が送った文の中に怪異についても記した。槿を通じても伝わっているはずだ。
その文の内容以上のことが望と周に告げられる。怪異と胡蝶の夢の関係性について、二人は今知った。
そして、その情報は長も知らないはずだ。予想はできても確信できるほどの情報は望たちが持っていないのだから、長が知る由もない。
だが、長はまるで実際に見たかのように怪異のことを語る。一体何を根拠にして話しているのか、と望は問う。
「ああ、失礼」
長はゆっくりと目を開ける。
「あなたの中にいる胡蝶の気配を辿ってお話しています」
「そんなことを……」
全く素振りを見せていない。出会ったときから、長というだけあって遥かに強い力を持つと望は感じていた。何でもないような様子で事をなしているようだと望は思う。
「如何せん、私にとってはよくあることですから……。先にお伝えすべきでしたね」
「いえ、別に。……もしかして、私の記憶も覗けたりします?」
「できますよ。ですが、まだ触れてはいません。あなたの許可を取っていませんから」
よくわからないが、器用なことをしているなと望がぼんやりと思っていると声が聞こえる。
「……? 周、今何か言った?」
「え? 何も言ってないよ」
周は辺りを見渡す。三人以外に誰かがいるような様子はない。他の生き物の気配は蝶だけだ。風も吹いていない静寂な世界だ。
「何か聞こえた?」
「声がした気がして……。あ」
また声がする。気のせいだろうかと望が首を傾げる。
「あなたにも彼の声が聞こえているようですね。本当に小さな声みたいですが」
長は手中の夢玉に視線を落とす。
「そうなのでしょうか?」
「聞こえてもおかしくはない。胡蝶は神の夢の中にいたことがある。その胡蝶のその片鱗を辿っているのですから、あなたのことだけでなく、彼のこともわかります。そして、それはどうやらあなたにも」
望の様子からして、はっきりとは聞こえていない。静寂であっても拾い上げるのは難しいほど、気のせいだと思ってしまいそうなほどの音量なのだろうと長は推測する。
そして、この現状は、と長は眉間に皺を寄せる。
「聞こえているのかもしれない、という状態はあまりよいことではありませんな」
長は夢玉を懐へしまう。
「……長。先ほど、僕はご老人……望ちゃんが言うには僕のそっくりさんに見えたみたいですけど、その相手に時間があまりないとあなたに伝えるように言われました」
寄生されていると長が言ったことも含め、よくない状況であることは明らかである。
「悪い状況であることは明白。……まだ、どうにかできる状態なのか、術はあるのか、お答えいただけますか?」
望の現状は鬼籍をも変えてしまうほどの危険な状態だ。それを変えられるのか、否か。それが今回の旅の目的でもある。
「術はある」
周の熱心な、そして焦りのある眼差しに長は厳かに答えた。




