#8
普段よりも少し高い声で紡がれる言葉は望にとって馴染のないもの。彼の口からは流暢に異国の言葉が零れていく。
ちゃんと昔みたいに話せるかな。中国行きが決まったとき、周はそんなことを言っていた。読む機会はあれど、話す機会はめっきり減ってしまったそうだ。
中国語を教えてほしいと望が言ったときも周は困り顔をしていた。綺麗に発音できる自信がないと言いつつも、周は望に中国語を教えてくれた。ゆっくりと、はっきりと発音しながら教える周の姿は自身の確認のためのように望には思えた。
実際に中国に着いてからの周はあれほどの心配はどこへいったのかと思うほどにすらすらと話している。相手にもきちんと伝わるところを見るに、問題なく意思疎通ができているようだ。
話す機会が減ったとは言え、周は忘れていない馴染んだ言語。望はそう思う。
「谢谢」
会話を終えた周が杏介と望の元へ歩み寄る。
「部屋行こうか」
こっち、と周が先導するのに望と杏介も続く。
行商の荷車に乗せてもらい目的地へ着いた頃、暗闇が覆う時間になっていた。一向は行商に感謝と別れを告げて宿に着いたところだ。
「いやはや、長い一日だった」
ふう、と杏介は一息つく。無事に着いて何よりだが、どっと押し寄せる疲労感に今夜はよく眠れそうだと思う。
周は視線だけ後ろに送る。
「望ちゃんもお疲れ様」
「うん。何とか着いてよかった」
「そうだね。酔いはなさそう?」
「大丈夫。あまり揺れなかったし」
行商の腕がいいのか、竜の性格か。荷車に商品が積まれているということもあり、走行は慎重だったため、竜便のときのように酔うことはなかった。
「それはよかった。えっと……部屋はここだね」
周は柱に掛けられた札を見上げる。
「ちょっと失礼して……」
周は目の前の部屋の戸を開け、部屋の中を見渡し、次いで、隣の部屋の戸を開けて同じように見渡す。
「同じような感じだけど、望ちゃん、どっちの部屋がいい?」
「……え?」
きょとんとする望に周は首を傾げる。
「個室?」
「もちろん。年頃のお嬢さんと野郎が一緒の部屋はまずいでしょ。望ちゃんは一人部屋ね」
「……いくら?」
この旅の諸々の費用は周が払っている。望も出すと言ったのだが、周に丁重に断られた。さすがに一人部屋となると自分が出すべきだろうと思う。
「いいよ。別のところでお金使って」
ね、と念押しするように周は言う。
「……ありがとう」
周はにこりと笑った。
◇◇◇◇◇
すりガラス越しに景色を見ているような視界。その視界に亀裂が走り、砕け散るとふわり、ふわりと視線が高くなっていく。
大空へと上昇していく中、ふと下を見れば影がふたつ。しかし、どんどん遠ざかっていくため、影の正体はわからない。
影が見えなくなった。
そう思った瞬間、ふわっと浮遊感を覚える。
「おや、また来てしまったね」
聞き慣れた声に意識が引き上げられる。
「……周?」
細い目の男が対面でゆったりと構えている。
「やあ」
男は片手を挙げて応じる。
「でも、お戻り。あ、余裕があるのなら、外を見てごらん。外は寒いから温かくしてね」
そう男は言うと、押し出すように手を振る。
瞬間、望の意識はぷつりと切れた。
◇◇◇◇◇
張りつめたような冷気に望は目を覚ます。
「今の……」
昼間の続きか。束の間の光景ではあったものの、昼間に入り込んだ夢の世界と似たような趣だった。
また夢の中に周が出てきた。今回の周も周ではなかったような気がした。
行商の荷車の中で改めて昼間の夢について話した。夢の中の景色、周とよく似た男の言葉、夢玉が作られなかったことと新たな疑問が生じた。
昼間の夢も先ほどの夢も結局何なのか。先ほどの夢の中の周はまた別の者なのか。
考えていたら眠りが遠ざかる。
望は身を起こす。布団が閉じ込めていた温もりは薄れ、寒いと言うよりも冷たい空気感に身を震わせる。
外を見てごらん。そんなことを夢の中の周が言っていた。外に何があるのだと思いながら望は寝台から立ち上がり、外套を羽織る。そして、窓掛けを開ける。
窓掛けが遮っていた冷たい空気が望の頬を撫で、結露した窓が覗く。望は曇りを拭う。
満月までもう少し。明日は満月だそうだ。そんな月が空に浮かんでいる。しかし、その月は雲に隠れてしまう。月を隠した雲からはしんしんと雪が降り注いでいる。
そんな中、雪明りにぼんやりと浮かぶ影がある。
「……周?」
微動だにしない周は何かしている訳でもなさそうな様子だ。
望は窓を開ける。滑り込むようにして入ってきた凍てつく空気に身震いしつつ、白銀の世界に佇む彼を見据える。
「周」
静寂の中、掠れた自分の声がやけに大きく聞こえる。はっとしたように震えた周はゆっくりとこちらを振り返る。
「……望ちゃん?」
弱々しい声で周は呼びかけた後、急ぎ足で望の部屋の方へ歩み寄る。
「寒いでしょ。風邪ひいちゃうよ」
「そっくりそのまま周に返すけど?」
望は間髪入れずに言い返す。凍てつくような寒空の下、周は薄着な上に、頬を赤くしている。肩や髪が薄っすらと白くなっているところを見るに、それなりに長い時間外にいたのだろうと察せられる。
望は窓から身を乗り出し、周の肩の雪を払う。衣越しに伝わる熱は低い。
「こんなに身体冷やして……」
「あはは。ちょーっと考え事してて」
へらへらと周は笑う。どこかぎこちない笑顔は寒さのせいか、それとも、と望の胸の奥が重くなる。
「明日……いや、もう今日か。一族に会うの、やっぱり嫌?」
「思うことはあれそれと」
周は眉を下げながら答える。
「考えていたら眠れなくて、もやっとしちゃって。ちょっと頭を冷やそうと思った程度ではあったんだけど」
「ちょっとどころの滞在時間ではなさそうだったけど」
「みたいだ」
周は力なく笑うも、消え入るように表情が暗くなる。
「……考えないようにしようと思っても脳裏をよぎってしまう」
浴びせられた言葉の刃。中でも、一番焼き付くように覚えている言葉がある。
慈悲深い。そう評された、言葉を操ることが得意だった者の言葉。周が誰よりも敬愛し、信頼していた者。周囲から慈悲の心を持つと言われているのも頷ける、そんな相手だ。
「昼間、僕、妖違いされてたでしょ?」
「うん。行商さんに」
切々と何か訴えていた行商のことは望の記憶にも新しい。一身に彼の言葉を浴び続けていた周は困っているようにも、怯えているようにも見えた。
それが何か、と望が不思議そうにしていると周は窓に映る自分の姿を一瞥する。
「あの行商さんの知り合いと僕が似ていたんだって」
「勘違いされるってぐらいだし、似てたんでしょうね」
それも、行商にとっては大切な相手だったのだろうと思う。長い間、ずっと会っておらず、安否すらもわからない。
やっと会うことができた。行商の感極まった様子に望はそう感じた。
「うん。……あの行商さん、多分、僕の父と知り合いだと思うんだ」
「周のお父さん?」
行商が知り合いと勘違いするほど周はよく似ている相手。よく似ているとなると血縁関係が真っ先に浮かぶ。
「父の名前を口にしていたから」
故郷の言葉で紡がれた父の名前。聞いた瞬間、周の頭の中は真っ白になってしまった。父の名前は珍しいものではないが、自分とよく似ている顔で、同じ名前の者となれば父の顔が周の頭に浮かんだ。
「ずっと会えなくて心配していた、どこにいたんだって言われちゃって」
彼にとって、父は親交の深い者だったのだろう。そう言えば、父から竜の扱いに長けた行商と知り合った、なんて話を聞いたことがあったような気がする。もしかしたら、その行商は昼間の彼だったのかもしれない。
行商の訴えは周の胸の内を抉った。彼が長いこと父に会えていない、そして、父の現在を知らない。その事実は周に再度悲しみを突きつけることとなった。
「長いこと会っていないのも当然。だって、父は……」
周は視線を逸らす。弟分は父の現在をどう語っていたか。知らない方がいいと言いながら、弟分は父の今を教えてくれた。
「……」
沈黙は答え。
望は何も言えない。周の口からはっきり聞いたわけではないが、以前にも周の両親の現在を聞くことがあった。
周の両親はもうこの世にはいない。あの行商はそのことを知らないのだろう。貘の一族が交流を制限しているともなれば話を聞くこともないのだろう。
「行商さんに間違われたこともあって、鏡を見たらどうしても父の顔がよぎって、あの日のことを思い出してしまう」
無慈悲な眼差し。嫌でも思い出し、身が震える。
「……いけないね。一族に会うって決めて、はるばる来たのに弱気になって」
周は顔を上げて頬を軽く叩く。冷え切った身体への叱咤は痛む。
「ほら、望ちゃん。身体を冷やしちゃう。明日もいっぱい動くんだから、休まないと」
望は寒がりだ。この道中も寒さに身体を震わせていた。この凍てつく異国の冬の夜は長旅で疲弊した身体に悪い。
「僕も部屋に戻るよ」
ほら、と周は窓を閉じようと窓枠に手を伸ばす。
が、その手を制するように望の手が窓枠にかけられる。その手は閉じさせまいという意志の表れだ。
「望ちゃん?」
「……どう言えばいいのかわからないけど」
望は絞り出すように言葉を紡ぎ始める。
「周が一族の宝物のことですごく思い悩んでいることはよくわかる」
いつかの夏の夜、意識が朧気な中、涙をこぼしながら謝罪の言葉を口にしていた。あのときはよくわからなかった望だが、今となってはわかるような部分がある。
無意識の中でも、胡蝶の夢を巡る一連の件は周の奥底に根づいている。酒に酔い、意識が朦朧としている中、ふと表に出て来た心の奥底の暗い感情だ。
「それも、周が周自身を追い詰めるぐらいに」
一族にも責任を追及されただけでなく、周自身も己を責めているように見える。どれだけの重責を背負っているのか、望には想像できない。
「追い詰めるなんて……。僕がしでかしたことなんだし」
責任の所在は自分だ。一族の宝を失わせただけでなく、両親の命までも奪った。
「償いきれることではない」
戻ることができない。否、戻すことができないほど、事は大きい。
その発端は自分にある。何をどうしても赦されることはないと周は考えている。失われたものは多いのに、自分はこうして生きているということに嫌気が差す。
「そういうところが追い詰めていると思う」
周が周を攻撃しているように望は思う。そこまでしては周が壊れてしまう。
「元々あったとは思う。でも、時間が少しずつ和らげてくれたところに……私と会ってしまった」
周にとって、舟橋望は予期せぬ存在だっただろう。望と出会うことがなければ、一族のことを考えずに済み、穏やかに日々を送ることができたかもしれない。
しかし、望がその道を狭めてしまった。結果、周はまた思い悩む日々を送り、今も時間を忘れ、外のことも、自分が雪を被っていることもわからなくなるほど物思いに耽るような状態にさせてしまった。
「私を責めてもおかしくないのに、絶対に言わない」
「僕の過去と望ちゃんの体質のことは別。君が思い悩むことではない」
結果的に交わっただけで、周の罪と望の体質は別の話だ。周が望を責める理由はないし、望を責めるようなことをするのはただの八つ当たりだ。
「でも、」
「望ちゃんと出会わなかったとしても、僕が過去に犯した罪がなかったことになるわけではない」
周は望の言葉を遮って伝える。
望が生まれたのは周が罪を犯したあのときよりもずっと後のことだ。胡蝶の夢を巡る事件に望は関係がない。
本当に様々な要因が重なり、現在に至った。ただそれだけだと周は思う。周が昔から抱くこの感情に望を振り回したくない。
「……心配かけてごめん」
望の優しさが今の周には痛む。優しく、淡い月明りは決して眩しくはないのに、今は照らしてほしくないと願ってしまう。
望は全てを知らない。知らないなりにも望は心配し、気を遣ってくれている。それが周にとってはありがたくもあり、申し訳なくもあるからだ。
「もう窓を閉めて。手が冷たいよ」
周は望の手に触れる。案の定、望の手はこの短時間でも冷え切ってしまっている。これ以上、この手を厳しい冬の空気に晒すわけにはいかない。
「嘘つき」
望はきっと周を睨み上げる。望の鋭い視線に周はたじろぐ。
「周の手の方が冷たい。感覚ある?」
氷づけになったように周の手は冷たい。本当にどれだけの時間を極寒の中で過ごしていたのかと心配になるほどだ。
「周の方こそ、さっさと部屋に戻って」
「……うん。わかった」
周は弱々しく笑うと望の手を窓枠から下ろし、名残惜しそうに手を離す。
「おやすみ、望ちゃん」
そう言って周は窓を閉め、ひらひらと手を振ると立ち去る。
「……」
望は窓掛けを閉める。
今にも雪に攫われてしまいそうな後ろ姿だった。あそこまで不安定な状態の周を貘の一族に会わせていいものかと迷いが生じる。
が、迷ってはいられない。周も言っていたが、はるばる足を運んだのだ。今更引き返すこともできない。
望は窓掛けの隙間から窓の外を見る。雪は変わらず降っているものの、少し弱まったようだ。
だからと言って、呆然と立ち尽くしていてもいい天候ではない。弱り切った背中は無防備にも足を止めている。
このまま雪に攫われてしまいそうなほど、危うい佇まいだ。
「……」
望は外套に袖を通し、椅子の背もたれにかけておいたマフラーを手に取ると窓を開ける。再び吹き込んだ凍てつく風に顔を顰めながら窓枠に手をついて身を乗り出す。
「周」
静かながらも響く声に驚いた様子の細い目が向けられる。
「えっ、望ちゃん? 駄目だよ、そんなに身を乗り出したら危ない」
周はぱたぱたと駆け寄ると望の肩に手を置き、望の身体を起こす。
瞬間、ふわりと周の身体を柔らかな温もりが包む。
「え……」
周は温もりの正体を目で追う。肩を覆っているのは望のマフラーだ。大判のマフラーは寒がりの望が重宝しており、首元に巻くだけでなく、肩に羽織っていることもある。
「今すぐ部屋に戻って」
望はマフラーが落ちないようにきちんと羽織らせる。
「物思いに耽ることは悪いことじゃないけど、今ここじゃなくていい。こんなに身体を冷やしたら風邪ひく」
暗くてはっきりと見えないが、周の細い目を縁取る睫毛までも白くなっているように見える。
「……ちゃんと戻るって」
心配性だな、望ちゃんは、と言おうした周を望はまた睨み上げる。
磨き上げられた鏡のような目。全てを見透かしているようなその瞳が周の言葉を遮るように静かに見つめてくる。
「……」
無言の圧力。目は口程に物を言うを体現したかのように望から発せられる圧に周は身体を震わせる。
「そのマフラー貸してあげる。だから、今すぐ返しにきて」
「え?」
それならこの窓越しにでも、と思った瞬間、周の目の前で窓が閉められる。
「望ちゃん」
有無を言わさず、窓を挟んで望は周たちの部屋を指さす。
早く。言葉はなくとも、望の表情からそれを読み取った周は渋々部屋へと歩き出す。
心配をかけてしまったようだ。深く訊ねてこないものの、こちらの様子を窺う澄み切った目が周の心の奥底を覗き込んでいるようだ。
彼女の目には逆らえないし、嘘もつけない。
「……参ったな」
周は望に掛けられたマフラーを羽織り直して部屋へと向かった。
コツコツコツと戸を叩く音がする。望は手燭を手に持ち、戸の方へ歩み寄る。
「……お守りは?」
「筍だよ」
合言葉を決めておこう。万が一の防犯も兼ねて、と杏介が提案してきた。茜と直人が作ってくれたお守りを合言葉に決めたのだ。
周が持っているお守りは筍こと笋。篁卿が頭をよぎって仕方ないと周が苦笑していた。
望はそっと戸を開ける。灯に照らされた周の顔は炎の赤みが映えるほど青白い。
「……」
表情を険しくする望に周は眉を下げる。
「ごめん。できるだけ早く戻ってきたつもりなんだけど」
「それは気にしてない。……ちょっと、周、屈んで」
望に言われるがまま、不思議そうな顔をしつつも周は身を屈める。望はそんな周の頭と肩に薄っすらと被る雪を払う。
「……本当、どれだけ外にいたの?」
とにかく冷たい。触れる髪も、貸したマフラー越しに伝わる熱も、温度が低い。
「さあ、どれだけいたっけ?」
ありがとう、と感謝を伝えながら周は笑みを浮かべる。ぎこちないその笑顔に望はまたも表情を険しくする。
「そんなに怖い顔しないでよ、望ちゃん」
手燭の灯では頼りない。暗闇ということもあってか、望の表情は険しく見える。
いや、これは灯があっても変わらないか。そんなことを考える周を見抜いたのか、望の表情がさらに険を帯びる。
「周が悪い」
「きっぱり言われちゃった」
肩を竦めながら周は姿勢を正すと、羽織っていたマフラーを脱ぎ、望の肩に掛けてやる。
「ありがとう。温かかったよ」
「……」
望は掛けられたマフラーに視線をやる。温もりを感じない布だ。
「さて、これ以上望ちゃんが怖い顔する前に部屋に戻ろうかな」
どんどん望の表情が怖くなっていく。怒りややるせなさを思わせる厳しい表情が誰のせいなのか、周にはわかりきっている。
どこまで心配をかけてしまうのだろうか。深くは訊いてこない望の慎重なところに甘えているような気がしてならない。
「……あのさ」
「うん?」
いつもよりも低い声が周を呼び留める。何だか怒っていそうだ、と思っている周の視界に細い指が入り込む。
「……うん?」
「約束してほしいことがある」
望は子どもじみたことをしていると思いながらも、周に小指を見せつける。
「一緒に帰るって約束して」
「……どうしたの? 僕は望ちゃんをちゃんと帰すよ」
そのために杏介を用心棒として雇った。彼にはこの旅の護衛を頼んだが、最優先すべきは望の身の安全だと契約した。
怪我をさせず、無事に望を帰す。当たり前のことだ。
「違う。一緒に帰るって言った」
周も杏介も一緒に帰る。誰かが欠けることなく、常盤街に帰り、棗たちと食事をする。
その約束だ。
「周、勝手にどこかへ行かないで。消えようとしないで」
雪に攫われそう。それは比喩ではない。
消える。周がいなくなってしまいそう。本当にそうなりかねないほど、今の周は儚い。
「ふふふ、望ちゃん、可愛いこと言うね」
「ふざけないで」
飄々としてかわすような口ぶりはまるで明言することを避けているように望は思う。
「大丈夫。杏もいる」
だから、と周は望の手を取る。小指を優しく折り曲げ、自分よりも小さくて冷たくなってきている手を包み込む。
「ほら、こんなに手も冷えちゃって。もうおやすみ。温かくして寝るんだよ」
周は祈るように語り掛けると手を離す。
「おやすみ、望ちゃん」
周はひらひらと手を振りながら部屋に戻る。戸が閉まるところを見届けた望はしずしずと部屋に戻る。
戸を後ろ手に閉めた望はそのまま戸にもたれかかってゆっくりと膝から崩れ落ちる。
灯がゆらゆらと危うげに揺れる。
「……約束、してくれなかった」
我ながららしくない、小さな子どものようなことをしたと改めて思う。
だが、そのらしくもない迷信じみた行為に願うほどに周の様子が不審で、不安になる。
「馬鹿」
望はそうぽつりと呟きながら返ってきたマフラーを握った。
そっと戸を閉めると同時に、部屋を照らすようにぽっと火の玉が灯る。
「よう、夜の逢瀬はどうだった?」
眩い金色に外の白銀の世界の記憶が一瞬薄れる。周は赤みを帯びる黄金色に目を細める。
「起こした?」
「いいや。何だよ、秘密の逢瀬って言うなら俺も混ぜてくれよ」
「それ、望ちゃんの前では絶対に言わないで」
それはない、と蔑んだような目できっぱりと言う望の姿が浮かぶ。
「はは、冗談」
杏介は空笑いしながら手を周の方へひらりと振ると、火の玉が周を囲むように近寄る。
「顔、真っ白じゃないか」
調子のいい口調ではなく、真剣な声音に周は苦笑する。
「そんなに悪い?」
「悪い。そりゃ、望も心配する」
「盗み聞きなんて趣味が悪い」
周は寝台に腰掛けるとついてきた火の玉に手をかざす。冷えた手に火の玉の温もりが痛い。
「いつもの夢か?」
「……」
周は杏介の問いに目を細める。
「ずっと慣れないものだ」
一生見続けるのだろうと周は思っている。
それこそ、ずっと前に目の前の腐れ縁が言った夢を取り出して見ないようにするという手を取らなければだ。
「ねえ、杏。君は一族との確執を解くために一族に会う訳ではないと言ったね」
「ああ。本題は望のことだから」
それは紛れもない真実である。それと同時に、周の精神を少しでも安定させるための言い訳として杏介は周に伝えた。
「うん。でも、ひとつだけ、訊きたいことがあってさ。それだけは訊いてもいい?」
「別に、俺の許可なんていらないだろうが」
雇い主である周が決めたことなら構わない。
「そっか」
「ちなみに、何を訊きたいんだ?」
望のこと以外で周が貘の長や一族に訊きたいことはいくらでもあるだろう。それでもひとつだけ、というのはそのひとつが中でも特別な事柄なのだろうと杏介は推測する。
沈黙する周に杏介は小さく息をつく。
「答えたくないならいいんだけど」
「そうじゃない。……両親のことを」
「両親?」
罪を犯した我が子を庇うことなく、突き放したという周の両親。そのときの光景を今もなお悪夢として見ている。
悪夢の大元にあたる存在。その存在のことを問おうとする周に杏介は首を傾げる。
「亡くなったと聞いたから。僕が追い出された後、どんな様子だったのか訊きたくて」
「なるほど」
だから訊きたいのかと思いながら杏介は周の親の話を思い出す。
杏介は周の両親について全くと言っていいほど知らない。知っているのは胡蝶の夢を巡る件で我が子を容赦なく突き放したという話ぐらい。
ただ、本当に稀に両親との思い出を周が語るときがあった。詩人であった父と二胡の奏者であった母のことを尊敬し、恐れていることは杏介にはよくわかる。
「教えてもらえるといいけど」
「向こう次第だろう。亡くなったって聞いたのは弟分から?」
周の弟分にあたる一族の使者。一族との連絡を絶っていた周が両親のことを知る手立ては彼ぐらいだろうと杏介が思っていると周は頷く。
「うん」
「弟分の言い分だけでは満足できなかった、と」
「満足……とは違うんだけど。あの子は言い渋っていたから」
毒を飲んで死んだ。第一発見者でもある槿が言い渋る理由はよくわかる。彼自身、周が追放された後、孤立していた両親と交流を持っていた分、なおさらだ。
「お前の気持ちに区切りがつくならいいんだけど」
夢にまで出てきて周を追い詰める存在。もうこの世にいないとわかっても彼らは周を責め続ける。
いいや、いないとわかったからこそ、周の中にさらに根深くいついているのかもしれない。杏介は杏子色の目に鋭利な光を宿す。
「聞いたらまた壊れそうにならないか?」
出会った当時の周を杏介は知っている。まだ成長しきっていない身体をキリキリと締めつける糸に周はもがき苦しんでいた。いつも張りつめていて、いっそのことその糸で身体がバラバラになってしまえばいいとさえ思っているほどに危うい状態だった。
突いてしまえば簡単に壊れてしまうガラス細工。蝶の羽のように薄く、脆い姿を何度も見てきた。
その様子が大きく変わったのは棗の元で働くようになってからだ。考える暇も与えないほどに忙しない日々、疲れのせいで床に入れば気絶するように眠るあの頃から周の身体を締めつけていた糸が緩んできた。それと同時に、周の表情や言葉は穏やかになり、こちらが彼本来の性格なのだろうと杏介は思った。
安定してきた。しかし、その安定を揺るがす存在が現れた。
舟橋望。夢を見ないという類稀な霊力を持つ人間の娘。彼女のことで貘の一族を頼ることが最善だとわかっていながらも、その道を避けてきた。が、それも限界となり、貘の一族の話が出てからまた糸が周を締めつけるようになった。
またあの頃のように周が脆くなった。当時と違って荒むという様子ではない。
消えてしまいそう。触れようとすればその身を宙に溶かして霧散してしまいそうな儚さを感じる。
「踏ん張ってみせる」
杏介の心配をよそに周は応じる。だが、その弱々しい返答に黄金色は険を滲ませる。
「それがよくないって俺は言ってるんだけど」
「棗先生みたいなこと言うね」
「呑気なこと言いやがって」
話を逸らしたと杏介が思っていると周が大きな欠伸をする。
「もう寝よう。朝早いし」
「……それもそうだ」
まだまだ言い足りないことがありつつも、杏介は同意する。
「ごめんね、杏。心配かけた」
「そう思うならさっさと寝ろ」
「はーい。おやすみなさい」
そう言って周はのそのそと布団に入る。向けられた背中に杏介は火の玉の光を弱めながら自分も布団に入る。
「……なあ、周」
「ん?」
まだわずかに灯を残す部屋に腐れ縁の凄味のある声が嫌というほど広がる。
「あの日お前が俺に言ったこと、忘れてないから」
「……」
あの日。杏介が言うあの日というのは剣の稽古をした日のことだろう。
否、あれは稽古ではなく、喧嘩。久しぶりに腐れ縁の杏子色が燃え上がる炎のように激しく爆ぜたところを見た。
途中、直人が来た。その頃には多少落ち着いていたものの、激しく打ちあいしたものだ。アフタヌーンティー帰りの茜と望が買ってきた甘味が心を落ち着かせてくれた。
「おやすみ」
ぶっきらぼうな腐れ縁の挨拶に周は苦笑する。相当怒っている様子の杏介に周は目を伏せる。
そうやって怒ってくれるから、周は杏介を頼ることができる。その事実は杏介には伝えない。周が言葉にせずとも、この腐れ縁は嫌というほどわかっている様子だから。
「……うん、おやすみ」
周はそう言って布団を深く被った。




