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夢屋 胡蝶  作者: 真鶴 黎
胡蝶の翳り 月の曇り、夢の名残
71/88

#3

「はあ……。美味しいものって本当に素敵」


 うっとりとしながら甘味を咀嚼する茜の対面で望は茜が食べた菓子と同じ物を口にする。


「美味しい……。これ、スイートポテトでしょうか?」


「かしらね」


 茜はもう一口黄色の甘味を口にする。濃厚な芋の甘みは上品で、とろけるような味である。


「コクのある味だけど、くどくなくて美味しい」


「ですよね。いくつでも食べられそうです」


 望は机に並ぶ秋色の菓子たちを眺める。


『一緒にお茶しない? 最近できたお店のアフタヌーンティーが気になってるの』


 棗と一対一で話をしたあの朝、人間界に戻る支度をしていた望に茜が誘ってきた。今度の土日はどうか、と尋ねる茜に対して、望はバイトが入っていることもあり、周に視線を送ったところ、行っておいで、とその場でバイトの休みの許可が下りた。

 店構えからして和の強い雰囲気だったため、この店のアフタヌーンティーというものがピンとこなかった。そのため、望はてっきり茶室のような堅めの場を想像していたのだが、もっとカジュアルな雰囲気の場であった。並ぶ菓子や軽食は和のもので統一されており、美しい。店内の雰囲気は洒落た古民家カフェのような趣だ。


「ね! さて、次はどれにしようかな」


 上機嫌な茜は次に食べる菓子を吟味している。


「……」


 望は手近の紅葉を模した焼き菓子を黒文字で切る。秋の終わりが近いことを告げるように、練り切りの表面には薄っすらと積もる霜を表すように粉砂糖がふられている。

 今年が終わるまで二ヶ月を切っている。夏に異変が起きてからあっという間だと感じる。


「望ちゃん?」


 思考に沈みかけた望を引き上げるような声。そっと頬を撫でる風のような声に望は顔を上げる。胡桃色の瞳がこちらを見つめた後、顔を覗き込む。


「疲れちゃった? ごめんね、今日、あっちこっち連れ回しちゃって」


 アフタヌーンティーの前に茜と一緒に常盤街の店を見て周っていた。着物や雑貨など、あれこれと見て周り、茜と揃いの髪飾りも買った。


「いいえ。すみません、ちょっと考え事をしてしまって」


 茜とぶらぶらと常盤街を歩いているときは、周りの景色に気が行っていた。しかし、こうして席に着き、ゆったりと過ごせるような今の雰囲気に、つい考えてしまったことに気がつく。

 せっかく茜が誘ってくれたのに、辛気臭い顔をするのは悪い。そう思いながら望は翳りを隠すように笑みを貼りつける。


「んー……そう?」


 茜は茶器を指先で撫でる。つるりとした滑らかな茶器には紅葉があしらわれている。

 棗や杏介が望と周のことをひどく案じていた。実際、望をアフタヌーンティーに誘ったとき、疲れている様子が見てとれた。今日、集合したときも本調子ではない様子だったのだが、常盤街を何とはなしに歩いているときは表情が晴れていたため、茜としては安堵した。

 しかし、それは所詮一時的なものだったと茜は気がつく。今望が向けた笑みはどう見ても気を遣わせまいと貼りつけた仮面だ。

 気晴らしになればと思うも、どうしても引っかかってしまう。そんな様子の望に茜は茶を口にする。茶を流し込むように事は簡単に運ばないことは茜もよくわかっている。


「望ちゃん」


 茶器を置いた茜の声に曇りのある瞳が向けられる。磨き上げられた鏡のような、静かながらも確かな存在感を放つ明月のような、凛とした光を宿す目ではない。この子はこんな目をする子だっただろうかと思うほどに、今の望はとても不安定だ。


「あのね、私、望ちゃんと一緒に行きたいところがいっぱいあるんだ」


「え?」


 拍子抜けした望の声に茜は微笑を浮かべながら茶器を手で包み込む。じんわりとした温もりが指先に伝わる。


「美味しいお菓子のお店に、お洒落な着物のお店、知る妖ぞ知る髪飾り屋さんに、私のお気に入りの雑貨屋さん」


 行ったことのある店もあれば、行ったことのない店もある。茜だけで行ってもいいのだが、茜だけで行くのも物寂しく思う場所がある。


「誰かが一緒にいてくれるともっと楽しいとか、素敵とか思う場所があるの」


 茜は丸い目を細める。


「一緒に行ってくれた子が楽しんでくれると嬉しいと思う。……とくに、その子が気落ちしているようなときに、そのときだけでも気が楽になってくれるといいなって」


 茜の脳裏に細い目の青年と杏子色のつり目の青年がよぎる。大切な家族を喪った茜の気晴らしになればと連れ出し、慰めてくれた彼ら。

 そして、茜の手を引いてくれた逞しい手。まともに空を翔けることができずに落ち込む茜の手を引き、大空へ連れて行ってくれた父と兄も、秘密の場所に連れて行ってくれたことがあった。

 気落ちする茜の手を引いてくれた存在。風が吹き飛ばすように不安を追い払ってくれた。


「望ちゃんはしっかり者で、真面目な子。あまり表情に出さないから、ため込まないか心配になる。だから、たまには息抜きしないと」


 話してくれることが一番だが、言いにくい事情や話したくないと思うこともあるだろう。

 話せないのならそれでもいい。ただ、根を詰めすぎないためにもちょっとだけ、別のことに視線を移して、ひと時の休息を過ごしてほしいと思う。


「今は大変なことが多いと思う。解決に向かって進まないといけないのはわかるけど、進むための力を使い切る前に回復しないと」


 進むためにも力がいる。上手いこと力を回復させながらでないと壊れてしまう。

 受け入れたくない現実から目を背けるのにも力が必要だった。拒絶するのでさえも想像以上に精神をすり減らすのだ。向き合うとなると、もっとだ。


「それに、私も息抜きしたいし」


 茜はニコニコと笑いながら言い放つ。仕事は楽しいが、多忙となるとげんなりする。生き生きと仕事をするためにも息抜きが必要不可欠だ。


「だから、望ちゃんの都合が合えばつきあってほしいな」


「茜さん……」


 望は茜につられるようにわずかながら笑みを浮かべる。


「ありがとうございます」


「どういたしまして。もちろん、望ちゃんからのお誘いも大歓迎だよ」


「はい。……ちなみに、茜さんは昼間の人間界を歩くのは平気ですか?」


 望が茜を誘うとなると人間界の方が詳しいため、茜に人間界に出てきてもらうことになるだろう。しかし、茜が人間界に出るという話を滅多に聞かない。出たとしても、夜間が多いという。妖気の都合上、昼間の人間界に茜が出ると鼬の姿になってしまうため、人型を保てないという。


「杏介さんの力を借りれば大丈夫」


「変化の術ですか?」


「うん。杏介さんに変化の術をかけてもらうと人間界を出歩くのに助かるから」


 実際、杏介の変化の術をかけてもらい、人間界を行き来する妖も多い。日輪における仕事の目玉とも言えるほど好評だ。


「そうですか。なら、ぜひ誘わせてください」


「うん!」


 風がそっと吹くような茜の笑い声に望の心が少しだけ軽くなった。


◇◇◇◇◇


 カン、カン、と木刀の乾いた音が鳴り響く。激しい音の割に軽快な動きをする周と、俊敏に周の動きを防ぐ杏介、二人の姿を眺める小さな背中に望は首を傾げる。


「あれ、直人君?」


 望が声をかけると翡翠の隻眼が向けられる。


「あ、おかえりー」


 直人は茜と望を振り返ると手を振る。その表情はどこか疲れている。


「あふたぬーんてぃー? はどうだった?」


「美味しかったよ。お菓子買ってきたんだけど、今から食べる?」


 茜が菓子の箱を見せると気だるげだった翡翠の瞳がキラキラと輝く。


「食べる!」


「いいお返事ありがとう。じゃあ、お茶の用意してくるね。望ちゃんは休んでて」


「いいんですか?」


「いいよ。杏介さん、お勝手借りますね」


 茜は声を掛けるも杏介からの返事はない。じゃあ、と言って茜が立ち去るのを見送った望は周と杏介の方へ視線をやる。


「あの二人、手合わせしてるんだよね?」


「うん。気分転換らしいよ」


 望と直人に見向きもせず二人は真剣に打ち合いをしている。音の激しさに喧嘩でもしているのではないかと望は勘違いしてしまった。


「直人君もやってたの?」


 直人の傍に木刀が横たわっている。直人はその木刀に視線をやると苦笑する。


「うん。でも、疲れた。二人とも容赦なくてさ。とくに、周兄ちゃん」


 はあ、と直人はため息をつく。


「厳しいったらありゃしない」


 ヘラヘラと笑っている周は適当な部分が多いと直人は感じることが多い。しかし、剣術の指導となるとやけに細かかった。


「構えがぶれるだの、踏み込みが甘いだの、振りが弱いだの、いつもの周兄ちゃんはどこいっちゃったのってぐらい細かくて」


「へえ……」


 望は周の動きを目で追う。望は剣術のことはわからないが、周の太刀筋は綺麗だと思う。緩急のある周の太刀筋は舞うようにも見える。


「直人君は剣術の心得はあるの?」


「山にいた頃に枝を振り回していたぐらい」


 それすらも危ないからと杉の神と白鷺の神に止められていたため、隠れて山の妖や精霊たちと打ち合いをした程度だ。それに比べると、周の指導は本当に細かい。山にいた頃の打ち合いが遊びだと思うほどだ。


「命を守るための術なんだから、厳しくするのは当たり前って言われたけど」


 真剣にそう言った周の顔を思い出した直人は眉を下げる。


「はは、おれにそれを言う前に、自分を守ってあげなよって思うんだけどね」


 直人の湿った言い方に望は表情を曇らせる。


「……それはどういうこと?」


「周兄ちゃんの音、痛いって叫んでいるような感じがするんだ」


 直人の翡翠色の瞳が周を見つめる。打ちあう木刀の音に混ざって、心の臓の逸る音も聞こえる。

 それらの音の奥で、小さいながらも痛みを訴える音がする。


「ずっと、痛い、苦しいって音がする」


 痛い。苦しい。辛い。悲しい。

 そう音が訴えている。消えかかっていた杉の神や白鷺の神から聞こえた音によく似ている。


「でも、それを隠そうとして無理してる」


 周自身も考えたくないのか、かき消そうとしているように直人は思う。聞きたくない音を覆い隠そうとするかのように、周の心の臓の音は早く、大きい。杏介の安定した呼吸に比べると、周の呼吸は荒れている。


「杏介の音もちょっとおかしい。ゆっくりで、もやっとしてる」


 周がぶつける感情を受け止めてやろうと身構えてはいるものの、どう受け流してやればいいのかわからない。そんな揺らぎを感じる。

 直人は目を伏せる。


「何だか、周兄ちゃん」


 直人が言葉を紡ごうとした瞬間、一際澄んだ高い音が響くと同時に木刀が宙を舞う。その音に望と直人は二人の方へ意識が向けられる。


「……こりゃ、降参」


 両手を上げて肩を竦めたのは杏介だ。杏介の手に木刀はなく、宙に舞った木刀が地面に落ちる。


「現役がそれでいいの?」


 振り上げた木刀を下ろした周が呆れた口調で言う。


「おっしゃるとおりで」


 杏介は気怠そうに木刀を拾う。全盛期に比べれば周の腕は劣る。しかし、非戦闘員なんだけど、と抜かしたことを言うわりには容赦がなかった。

 容赦がないというよりは押し通していた。そんなことを思った杏介はそっと息をつく。


「あーあ、望が見てるのに、ダサイところ見せちまった」


「もう一本やる?」


「お前がやりたいだけだろうが」


 挑発的な言い方をする周に対し、杏介はやれやれといった様子で木刀を拾い、担ぐ。


「でも、一回休もう。甘いもんがあるようだし」


 返事はできなかったが、茜がお勝手借りますね、と声をかけてきた。せっかくなら、休みたいと杏介は思う。


「それもそうだね」


「よし。望、アフタヌーンティーはどうだった?」


 杏介は望の隣に腰掛けるといつもの陽気な調子で話しかける。


「美味しかったです。秋色溢れるメニューでした」


「それはよかったな」


 心なしか表情が柔らかくなったか。望の横顔を盗み見ながら杏介は安堵するも、こっちは、と空を仰ぐ腐れ縁を見やる。

 張りつめた表情。手合わせの熱が抜けていないのか、未だ雰囲気が緊張している。それだけが理由ではないだろうと思う。

 望が茜と出掛けている間、周と杏介は改めて先日の話し合いのまとめをしていた。その中で、進めておく話があった。その話で衝突してしまった部分もあり、気分転換に手合わせをしていた。


「……」


 杏介は木刀を横に置く。打ち合いをした感触がまだ手に残っている。

 がむしゃらな太刀筋。ぶつけようのない思いの丈が杏介の手に伝わってきていた。相も変わらず舞うような剣筋ではあったが、その優美さとは裏腹に一撃一撃は荒かった。


「周兄ちゃん、休まないの?」


 直人が呼ぶと、周はヘラリと笑う。


「へへ、ちょっと熱くてさ」


 ぼーっとしちゃった、とヘラヘラ笑いながら周は汗を拭う。


「……ふーん?」


「直人君、その顔何?」


 むすっとした翡翠の隻眼に周は笑いかける。


「あ、厳しく教えたこと、怒ってる?」


 今振り返ると、直人に厳しく言いすぎたところがあると周は思う。


「まあ、細かいとは思ったけど」


 そうではなくて、と直人は本音を紡ごうとする。しかし、それを遮るようかのように周は直人に歩み寄る。


「あはは、大事なことだから」


 周は直人の頭を撫でる。子ども特有の柔らかな髪だ。


「ちょっと!」


 抵抗する直人にお構いなく周は直人の頭を撫でる。


「いやー、直人君の頭、いい形してるよね」


 頭の形に沿うように周は撫で続ける。


「子ども扱いするな!」


 威嚇する子猫のような直人に対し、周はけらけらと笑いながら直人の隣に座る。


「手合わせ、区切りつきました?」


 盆に人数分の湯呑をのせ、茜が戻って来た。


「杏介さん、お勝手借りましたよ」


「ん、いいぞー。茶葉の場所わかった?」


「はい。どうします? ここでお茶しますか?」


「もうここでいいだろう」


 横一列に座った状態を眺めた杏介がそう言うと周も同意する。


「いいと思う。風もちょうどいいし」


 火照った身体に秋風がちょうどいい涼を運ぶ。なら、と茜は茶と菓子を配っていく。


「これ何?」


 包みを開けた直人は菓子をしげしげと見つめる。


「カステラ……でいいんですかね?」


 望は茜に訊ねる。アフタヌーンティーのメニューとしても出てきて、控えめながらもほっとするような甘みを望は気に入った。カステラとして勘定所の傍で売られているのを見つけて、皆にもと思って買ってきた。

 そんなこちらの菓子は望の知るカステラとは違うように思う。


「無花果のカステラ?」


 茜は首を傾げながら答える。乾燥させた無花果が生地に混ざっているものだ。


「カステラというか、パウンドケーキに近いような……」


 見た目も味もカステラというにはさっくりとした感触がある。望としてはパウンドケーキに近いような気がしている。


「んー、言われてみると、カステラっぽくないような……でも、カステラっぽいような?」


 カステラと言えばそんなような、違うと言われると違うような、と茜の眉が下がる。


「よくわかんないけど、これ、美味しい」


「いや、お前が訊いたんだろうが」


 もぐもぐと菓子を頬張る直人は名称の興味が薄れている。その様子に杏介は呆れつつ、一口食べる。


「……これ、シフォンケーキじゃね?」


「新しい候補出さないでよ、杏。……しっとりめのマドレーヌでは?」


「周、つい数秒前に言ったこと覚えてるか?」


「あ、フィナンシェの方?」


「どっちも似たようなもんだろうが」


 やいやい言い合う腐れ縁に直人は首を傾げる。


「カステラ、ぱうんどけーき? に、しふぉんけーき? それから、まどれえぬ? ふぃなんしぇ?」


 カステラ以外、直人の知らないものばかりだ。


「結局何?」


 直人は望に問いかける。望は改めて菓子を口にし、咀嚼する。無花果のほのかな甘みを舌で転ばせた後、ひとつの結論が浮かぶ。


「……卵や粉とかを使った生地に無花果を混ぜて焼いたお菓子だよ」


「望ちゃん、そういうまとめ方しちゃう?」


「いや、もう共通点挙げたらこうなるかな、と」


 色々とツッコミどころはあるが、これ以上考えても難しい。望が出せる答えはもうこれしかない。


「粉って、もうちょっと何かあったんじゃ……」


 いくら何でも適当すぎやしないかと茜は思う。


「ねえ、これ、まだある?」


「直人君、もう食べたの?」


 早いね、と言いながら茜はもうひとつ直人に渡す。


「そんなに急いで食べることないだろうが」


「だって、美味しいんだもん」


 窘める杏介に対し、直人はもぐもぐと食べながら反論する。名称は何であれ、美味いものは美味いのだと直人は思う。


「食い意地張ってんな」


「昔の杏もそうだったでしょ」


「周もな」


 毎日食事にありつける保障がなかった頃の話だ。あったとしてもほんの少しで、成長期の身体には物足りなかった。そのため、少しでも多く、また、美味いものであれば、二人は無言で食べていた。互いの食料を奪い合うことも数知れなかった。


「誰も取ったりしないんだし、ゆっくり食べなよ、直人君」


 喉に詰まったら大変だし、と周は付け足す。


「美味いんだから仕方ない」


 二個目もすでに半分なくなった菓子を見れば一目瞭然である。


「直人君、おかわりはもうないからね」


 無言でおかわりを要求する隻眼に茜は断りを入れる。


「えー! そっちの箱は違うの?」


 そう言って直人が指したのは望の後ろに置いてある箱だ。茜が持ってきたものよりも小ぶりな箱に望は視線をやると申し訳なさそうに眉を下げる。


「こっちは先生へのお手土産だから」


「ちぇっ」


 むすっと顔をしかめる直人に望の眉が下がる。ここまで食いっぷりがいいとあげたくなるが、こちらの箱は棗にと用意したもの。


「ごめんね、直人君」


 望は申し訳なさそうに言う。


「むう……」


「今食べ過ぎると晩飯食べきれなくなるだろうが」


 杏介が呆れたように言う。


「だって、周兄ちゃんのすぱるた指導で腹減ったし」


「ちょっと、直人君にスパルタなんて言葉教えたの誰?」


 そう問いながらも周の細い目は杏子色を見ている。杏介以外いないと決めつける目だ。


「さあな」


 当の杏介はしれっとかわしながら無花果のカステラを食べる。


「もう、直人君に変なこと吹き込まないでよ、杏」


「なーんで、俺って断定するのかねえ。なあ、直人」


「先生のことすぱるたって杏介が言ってた」


「おい、こら」


「やっぱり杏が元凶じゃないか」


「別に、スパルタなんて変な言葉じゃないだろうが」


 遠い昔の異国の地の名。そこで行われていた厳しい訓練に由来する言葉として現在用いられている。

 ありふれた言葉。少なくとも、現代における人間界では使われている言葉であると杏介は認識している。


「異国の言葉を知るのだって悪いことじゃない。そう昔言ったのは誰だったっけ?」


 不敵に笑う悪戯狐の顔に周は視線を逸らす。


「あれは必要だったから」


「おっしゃるとおりで。そのおかげで、先生の超絶厳しいご指導も多少楽になったわけだし」


「……話の論点、ずらそうとしてない?」


「へへ、こっちの先生も手厳しいこった」


「何の話?」


 腐れ縁同士の会話に翡翠の目がきょろきょろと行き来する。


「んー? 昔の周は厳しかったってこと。自分にも他人にも」


 とくに、己には。周は周自身をよく追い込んでいた。今となればかなり甘くなってきたが、ここ最近はまた再発しそうな様子だ。


「杏介は周兄ちゃんから何か教わったの?」


「教わったさ。文字の読み書きとか、剣術とか」


 物を知らぬ頃に杏介は周と出会った。彼と行動を共にするようになってから、彼に物事を教わった。

 あの日々を思い出した杏介の杏子色の目が遠くなる。


「いや、叩きこまれた、か?」


「杏は物覚えが悪かったから」


「おい」


「そんな杏が誰かに教えるようになる日が来るとは思わなかったよ」


 よよよ、と周は目元を手で覆い、涙を拭うふりをする。泣き真似をする周に杏介の冷ややかなつり目が向けられる。


「俺だって、お前に教えたこと山ほどあるだろうが。この坊ちゃんが」


「それはそれで感謝してる。だけど、野蛮な君に頭を使うように教えたのは僕でしょ?」


「あ? んだよ、直人がいるからって、今日の剣術はやけにお綺麗だったじゃねえか。野蛮な俺が教えた狡賢いいつもの太刀筋はどこ行ったんだ? え?」


「違うね。今日の剣技がいつものだもん」


「どうせ、直人に狡い剣術見せたくないだけだろ、この見栄っ張り」


「基礎がなってない子に見せるものじゃない。杏はもう少し考えなよ、直人君の教育係でしょ」


「残念でしたー、剣術は担当外ですー」


 翡翠の隻眼がきょろきょろと動く。が、それも飽きたのか、直人は望の服の裾を引く。


「ねえ、おれもあふたぬーんてぃー行ってみたい。色んなのをたくさん食えるんでしょ?」


「ちょっと違うような気がするけど……。うん、それじゃあ、一緒に行こうか」


「んー? 二人とも、放置する気かな?」


 望まで腐れ縁組を放置しては自分が見守るしかないのでは、と茜は冷や汗を浮かべる。


「茜さんも一緒に」


「望ちゃん、放棄したね」


「放っておけばいいと思います」


 見慣れた光景だ。言い合いをする腐れ縁の間に望が入り込む必要はないことが多い。


「だって、しょうもない言い合いじゃないですか」


 望の一言にピシリと腐れ縁の言葉が消える。


「望」


「望ちゃん」


 情けない声に聞こえないふりをして望は茶を飲む。


「ちっちゃい子の言い合いと変わりませんよ」


「え、あー……」


 茜は目を逸らす。自分よりも年上の、それも、昔、導いてくれた二人のしょぼしょぼとした目を見たくない。


「やーい、言われてやんのー」


「直人君、しっ」


「二人とも、近所の小学生みたい」


「望ちゃんもそれ以上は……」


 見えない刃が二人を貫き通している。茜はからかう直人を窘めつつ、しずしずとお茶を飲む望と意気消沈する腐れ縁と視線を彷徨わせる。


「いや、近所の小学生の方がもっと可愛げがあるかも」


「望ちゃん、ごめんなさい……」


「すまなかった」


 ぺしょりと湿気た顔をする周と頭の耳が垂れる杏介に望は冷ややかな視線を送ると、すいと空を見上げる。


「お茶、冷めますよ」


「はい」


 最年少に窘められた年長組は静かに菓子や茶を口にする。


「望姉ちゃんの方がすぱるただった?」


「そんなことないと思うよ。私は事実を言っただけだもの」


「それもそっか!」


 淡々としている望と能天気な直人。容赦のない二人に茜は苦笑する。


「ねえ、周兄ちゃん。後で杏介とまた手合わせしてよ」


「え? この流れでそれお願いする?」


 本当に気ままだ。子どもらしい無邪気さと言えば可愛らしくもあるが、その無邪気さは時として場を読めないとも言う。


「だってー、狡賢いの見てみたい」


「いや、僕の剣術は狡賢くないよ。ほら、杏が余計なこと言うから……」


「見せるだけならいいじゃねーか」


 杏介は菓子を平らげると、茶を一気に流し込む。


「ごちそうさま。俺は準備できた」


「えー……。食べてすぐ?」


 仕方ないといった様子で周も菓子と茶を平らげて手を合わせる。


「ごちそうさまでした」


「ノリ悪いな」


 渋々といった様子の周に杏子色が呆れの色を見せる。


「もうちょっとゆっくりしたかったし、人様に見せるようなものでもないし」


「何だよ、周の剣術って評判いいじゃねえかよ」


「確かに」


 茜は去年の春の祭りの日を思い出す。出し物の一環として、周が剣舞や剣術大会に出た際のことだ。


「正統派な剣術も、奇抜な剣術も、見ている側からすると見惚れます」


 周の剣裁きは舞うようと評されることが多い。基本的な型であっても、奇抜な型のときでも、彼の剣技は緩急を伴う。とくに、動きが緩やかになったときがとくに映えると茜は思っている。


「剣舞のときの袖が翻る様は蝶が舞うように見えて本当に綺麗ですよね」


「あんだけ正統派な剣術で魅せられるって相当だもんな」


 基本的な型を魅せるものにまで昇華させるのはそう簡単にできることではない。同じようにやってみろと言われても、杏介には難しいと思ってしまう。


「えー、そんなに褒めても何も出ないよ」


 えへへ、と照れ笑いを浮かべる周の髪が風で揺れる。ちょこんと結ばれていた髪も伸びたな、と望が思う傍で、茜がぱっと頭上へ視線をやる。遅れて、直人と杏介も上へ視線をやる。


「ごめんくださーい」


 その声に周と望も視線を上げる。雲が厚くなってきた空に漆黒が視界に飛び込む。


「高い所から失礼します、飛脚の烏天狗です。少しお邪魔してもよろしいですか?」


「おう」


 日輪の主が応じると、烏天狗はゆっくりと着地する。


「突然すみません。でも、急ぎなものなので」


「何かあったのか?」


 杏介が訊ねると烏天狗は肩に掛けていた鞄の中を漁る。


「ああ、日輪さんへではなくて……」


 あった、と言って烏天狗は一通の文を周に差し出す。


「夢屋さん宛の速達便です」


「僕宛?」


「ええ。お姿を見掛けたので」


 周は首を傾げながら文を受け取ると、細い目を見開く。見慣れた文字だ。


「貘の一族からの文です。いつも、気になさっていたでしょう?」


 度々問い合わせを受けていたことは飛脚の烏天狗たちの間では有名だ。杏介に周の所在を尋ねようと思い立ち寄ったら、周がいたため声を掛けた。


「うん、ありがとう。迷惑をかけたね」


「いいえ。それでは、私はこれで」


 失礼します、と烏天狗は軽く頭を下げると大きな翼を羽ばたかせて空へ戻る。

 烏天狗の姿を見送った一同は彼の姿を見えなくなると、周の手元の文に視線が集まる。


「……」


 周は静かに文を開くと細い目で文字を追う。

 緊張感のある沈黙が続く。どれだけの間、静寂に包まれていたか、周が文を閉じ、一息つく。


「望ちゃん」


「はい」


 いつにも増して真面目な声に望の背筋が伸びる。


「師走の中頃、一族の元へ行く。予定、大丈夫かな?」


 覚悟が決まったとも、怯えているとも見える影のある目に対し、望の目に光が射した。


◇◇◇◇◇


 わずかに揺れた灯の影が留まる。


「……そうか。やっと、貘から」


 長かった。棗は組んだ腕を解くと、表情を和らげる。


「はい。そのようです」


 茜は静かに答える。

 望とアフタヌーンティーに出掛けた後に寄った日輪の出来事。貘の一族からの文が届き、年内にでも会いたいといった内容の物だった。


「中国へ渡るのか」


「みたいですよ」


「何事もなく、無事に済めばいいんだが」


 棗は菓子を口にする。望からの手土産として渡されたカステラらしき菓子のほどよい甘みは疲れた身体を癒してくれる。


「周さんの過去のことが気にかかりますか?」


 茜も周と一族の深い溝について知っている。彼も茜と形は違えど、家族と別れてしまった者。その別れ方はあまりにも厳しく、辛かっただろうと想像に難くない。そのような経緯があれば、荒れた生活になってしまうことも理解できる。そして、そこから立ち直った彼の強さに茜は尊敬の念を抱く。


「穏やかな気性の者が多いと言われる貘が周にしたことを思うとな」


 元服したとは言え、当時の周はまだ未熟な部分が多かった。大人の仲間入りとは言っても子どものようなもの。そんな周に対し、一族は容赦ない仕打ちをしたそうだ。


「周からの文を徹底的に無視していた。繋がりを持ちたくないという意志の表れかと思う。そんな貘が望の文には応じ、使いまで寄越してきた。……最終的に周も迎え入れるということになったが、いい思いをしない者もいるだろう」


「うーん……。でも、迎え入れるという決断をした以上、ひどい仕打ちはしないのでは?」


「……かけがえのないモノを奪い、失わせた者への怒りや憤り、憎しみは茜もわかるだろう?」


 茜の脳裏に浮かぶのは地獄の炎と大切な者たちを奪った悪党の顔。燃え上がる炎と悪党の命が消えても、喪われた者は帰ってこなかった。


「……」


「赦すことができるかどうか。周に対する一族の態度はどちらか」


 拒絶。棗にはそうとしか思えない。文でのやり取りとは言え、周たちは長く待たされている立場になっている。あちら側としても、周の扱いに慎重になっているのではないかと推測する。


「……最悪の場合、周さんが殺されるかもしれないということですか?」


「無きにしも非ず。仮に、殺されるようなことはなくとも、心にない扱いをされるかもしれない」


 一族から罵倒された周は放心状態のまま、流れの激しい川へ突き落されたという。言わば、処刑のような扱いを受けている。死罪に等しいことをした彼が一族の空間に再び足を踏み入れ、生きて帰ってくることができるのか。生きて帰ってきたとしても、また出会った頃のように精神が不安定になってしまう可能性もある。

 棗は頭を掻く。


「ただ、今回の主役は望だ。杏介も同行するのならば、穏やかな性質の貘の顔で応対されるかもしれない」


「そうだといいのですが……」


「まあ、ともかく、進展があってよかった」


 もぐもぐと菓子を食べながら棗はしみじみと言葉をこぼす。


「本当に。ああ、そうだ、先生。今日はごちそうさまでした」


 茜は手を合わせる。


「こっちこそ悪いな。休みの調整してもらって」


「いいんですよ。久しぶりに望ちゃんと一緒にお出かけできましたし」


 ふふ、と茜は上機嫌に笑う。


「ちゃんとお話もしましたよ」


「ああ」


 棗は日も昇らない時間に一人で佇んでいた望の姿を思い返す。あの暗い朝、望と話をした。いつにもなく弱っていた望のことが気にかかった。まだ持ちこたえられそうにも見えたが、油断は禁物。早めに手を打てるならと茜に望と一緒に出掛けてこいと伝えた。

 同性で、かつ、茜の見た目は望と歳が近く見える。茜になら周や杏介、棗に言いにくいことを言えるかもしれないとの思いで棗は茜に頼んだ。茜は二つ返事で休みの変更を受けてくれた。急な休暇変更の礼として、アフタヌーンティー代を棗は茜に押しつけた。


「先生って望ちゃんみたいな子のこと、放っておけませんよね」


「困っている奴を助けたいと思っているだけだ」


「そうですけど、とくにって感じじゃないですか? 真面目で、誠実で、実直な子。しっかりしている子ほど、放っておけない」


 棗の世話焼きはよく知られている。あの問題児二名をよく更生させたと今も言われるほどだ。

 中でも、望のように真面目で、根が素直で、一生懸命に何かに打ち込んでいる者のことはとくに目をかける。


「応援したくなるから。ただひたむきに、懸命に生きている者に手を差し伸べてやりたいと思うのは不思議なことじゃない」


「そうですね。それは、周さんや杏介さんにもですよね」


 棗の元から独立した二人のこと。棗は今でも気にかけている。


「あいつらはあいつらでまた別物だが……。まあ、昔はやんちゃばかりしていた奴が、今をしっかり生きているのならそれでいい」


 それと、と棗は円らな瞳を目の前の彼女に送る。


「お前さんもな、茜」


「……」


「お前も苦しい思いをよく乗り越えた」


 喪ったものが大きかった彼女は生への執着が薄く、拒絶しているようにも見えた。耐え難い苦しみに押し潰されそうになりながらも、彼女はその足で踏みとどまった。


「……ええ。まったく、先生は本当に聖人……いや、聖兎ですね」


「ただの医者だ」


「そんなこと言って、たくさんの妖に慕われているじゃないですか」


 くすくすと笑う茜から棗は視線を逸らす。


「あー、またそうやってそっぽ向く」


「俺はそんなに大層なことをしていないから」


「そうですか? そうじゃなければ、皆から感謝されることないじゃないですか」


「知らんな」


 つんと無愛想に返す棗に茜はため息をつく。


「……そのお土産、望ちゃんからって言ったじゃないですか」


「ああ。美味かった」


 まだ残ってはいるものの、一度に平らげてしまうのは惜しい。また明日に取っておこうと棗は決めた。


「今日のお出かけは先生の差し金だって見抜かれちゃいました」


「……」


 何か言ったのかと疑う円らな瞳に茜は眉を下げる。


「私は一言も言ってませんよ。でも、あの子は」


 茜は会計時のことを思い返す。財布を出そうとした望の手を止め、今日はご馳走させてと言ったときのことだ。


『先生にお礼を。話を聞いてくださったことも、今日のことも』


 全てを見透かすような水鏡の瞳に茜は嘘をつけなかった。


「先生の心配をあの子も気がついています。ありがとうございましたってことで、あの子がお菓子を先生に用意したんですよ」


 先生は無花果苦手ではないですか、と望は控えめに訊いてきた。大丈夫だと返すと、それなら、と望は棗への手土産として無花果のカステラを手に取ったのだ。


「……逆に気を遣わせたか」


 棗は菓子の箱を撫でる。冷静沈着な望は表情の変化が乏しいため、冷たく思われやすいが、根は気遣いのできる誠実な娘だ。よく気が利く彼女は表立って動くというよりも、何も言わずにただそっと傍に寄り添うような優しさを持つ。


「先生、また息抜きの口実に使わせてくださいよ」


 悪戯を企む子どものように茜は笑う。


「あのな……。俺は望が気晴らしできるようにと今日頼んだわけで」


「わかってます。いざというときには私もちゃんと動きますから」


 茜は自分の手を見つめる。この手はいつも、誰かに引いてもらってばかりだった。落ち込んでいるときに引いてくれる誰かがいた手だ。

 今度は自分が誰かの手を引けるように。ずっとそう思っていた。


「あの子が心安らぐことができるように。あまりにも向き合うのが辛いときの逃げ場所にも、避難場所にもなるように」


 茜にそうしてくれた者たちがいた。彼らのようにできたらと茜は手を握る。


「頼もしくなったな」


 棗は喉の奥で笑う。


「鎌鼬の恩返しです」


「はは、頼りにしている。さあ、今日もお疲れさん。報告ご苦労だった。もう休め」


「はーい。それでは、先生、おやすみなさい」


「おやすみ」


 茜は棗に一礼すると部屋を後にする。軽やかな足音が遠のいた後、棗は腕を組む。

 少しでも望の気が紛れたのならいい。そこは安心できることではある。

 あるのだが。棗は眉間に皺を寄せる。


「周の方はどうしたものか」


 胡散臭い笑顔を貼りつけ、大丈夫だと言う弟子。愛想よくするために笑えとは言ったが、影を隠すために笑えなどと教えた覚えはない。

 棗は立ち上がり、部屋の戸を開けて空を見上げると、影を帯びた月がぽっかりと空に浮かんでいた。

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