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夢屋 胡蝶  作者: 真鶴 黎
胡蝶の翳り 月の曇り、夢の名残
70/88

#2

 カラカラと戸を開けば、憂いを帯びた冷たい風が髭を撫でる。小さく身体を震わせた棗は道を挟んで向かい側でぼんやりと空を見上げる娘に目を細める。


「おはよう、望」


 声をかけられた望は驚いた表情を見せるとぎこちなく笑う。


「おはようございます、先生。朝早いですね」


「そちらこそ」


 棗は望の元へ歩み寄る。


「空に何かあったか?」


 何の気なしに棗は問いながら、空を見上げる。


「あ、いえ……。まだ暗いなあって」


 月の明かりは雲に埋もれてほとんど届かない。薄っすらとそこにあるのはわかる程度の頼りない明かりだ。


「そうだな」


 秋ももう少しで終わる。それは己の身体を見ればよくわかる。

 棗の毛皮も冬毛になってきている。冬ですねえ、と茜にしみじみと言われた。太った? と言ってきた直人の頭を小突いたのも記憶に新しい。

 棗は月から望へと視線を移す。


「眠れなかったか」


 昨晩も寝不足気味の顔をしていたが、今の顔はさらに顔色が悪い。暗闇にぼうっと浮かぶような白さに彼女の体調の悪さが窺える。


「はい。ちょっと寒くて」


「寒くなってきたな」


 望は寒がりだ。望が着こんだ姿を見ると冬毛になった自分たちのようだと勝手に親近感を覚えていたりする。

 寒さで眠れない。それもあるかもしれないが、恐らく違うだろうと棗は推測する。


「寒いくせに、外に出てくるなんて」


 寝巻に半纏を肩に引っ掛けただけの軽装は寒がりが外に出るときの恰好ではない。棗の言葉に望は小さく肩を跳ねさせる。図星のようだ、と棗は喉の奥で笑う。


「夢のこと、気になるか」


「……はい」


「そうか」


 棗は日輪の方へ視線をやる。


「周も杏介もまだ寝てるか?」


「多分」


「中で話をしないか? 寒い中、立ち話もなんだ」


 入るぞ、と棗は戸を開ける。中は静かで暗い。とくに物音もしないため、周も杏介もまだ活動を始めていないのだろうと推測する。

 棗は跳ねるようにして事務所に上がる。


「望、入りなさい」


「え……、は、はい」


 あまりにも当然のように上がり込む棗に望は呆然としてしまった。我に返った望は日輪へ入ると戸を閉める。


「灯と火鉢は……」


 棗はてきぱきと灯を点け、火鉢にも火を点ける。暗闇に包まれていた応接間が明るくなる。棗は望を手招きし、火鉢の傍に座らせる。


「珍しく消沈しているな」


 棗は火箸で炭を転がす。

 表情の乏しい人間。ヘラヘラと笑っている周の隣にいる望を見ると余計にそう思う。

 望に感情がないわけではない。周がふざければ窘めるように表情を険しくするし、何かをあげれば嬉しそうに微笑むし、誰かの辛い話を聞けば表情を曇らせる。表情の変化がわずかなだけであって、望にも表情はある。

 ただ、変化が少ないだけ。だからこそ、ここまでわかりやすく気落ちしている姿を見るのは珍しい。


「京都でのこと、そんなに衝撃的だったか?」


 思わぬ変化。それを不安に思うのも無理もないことである。今まで平然としていたことがむしろズレていると思うほどだ。

 棗の問いかけに望は小さく頷く。


「自分の身に起きる変化に理解が追いつかないと言うか、受け入れたくないと言うか……」


 望は吐息混じりに答える。

 他の人とどこか違う。夢を見ないという謎もあるが、一番は人ならざる者の姿が見えるという特異な体質。それが縁となったのか、彼らと交流することも多い。

 その程度。どこか達観していたように思えていた自分の身体に明らかに人ではできないようなことができてしまった。

 望は掌を見つめる。


「夢玉を作るなんて、人間じゃないみたいで……。でも、先生や周みたいに妖怪とも違う」


 夢に強く干渉したり、夢玉を作ったり、夢を食べることはない。

 自分とは違う者の姿そっくりそのまま化けることはできない。

 自分が思うように風を自在に操ることはできない。

 植物と意志を交わすこともできない。

 長い耳、発達した足を持つわけでもない。

 そういったできないことや身体的特徴が望にはある。そして、それらが望に持ち得るはずのないものであることはよくわかっていた。


「私は人間のはず」


 これらができない、ここが違うと思うのは望が人間だから。見鬼の才があると言っても、人間であることに変わりはないはず。

 そう思っている。そう思ってきたはずが、揺らぐ。


「そう思うのですが、どう考えても人ならざる者の力が備わっている。果たして、自分は何者なのだろうかって考えてしまうんです」


「異常事態が続いているとそう思ってしまうだろうな」


 考えにはまり、どんどん深くまで沈んでいった結果が寝不足なのだろうと棗は思う。


「人ならざる者の力があることが怖いか?」


 持ちえない力を持っていることによる揺らぎ。それが望を不安にさせているのかと棗は問い改める。


「……はい」


 望は手を握る。あの朝の夢玉の感触が忘れられない。


「得体の知れない力じゃないですか。周も篁さんも、誰もこの力のことがわからない。いいものなのか、悪いものなのかもわからない」


 答えを知る存在はいるのだろうか。現状、望の周りにはいない。頼りとなる貘の一族でもわかるのか不明だ。

 わかればいい。貘の一族でも、そうでなくとも、知っている者がいればいい。しかし、わかる者がいないとなれば。


「考えれば考えるほど、泥沼に沈んでいくようで」


 望の脳裏を救いの糸を求める青年の後ろ姿がよぎる。彼も今の望と同じように思い悩み、導の糸を欲していたのだろう。


「でも、考えても答えはでない。わからないことへの恐怖が募るばかり」


 望は目を伏せる。


「眠ろうとすると嫌でも考えてしまう。この力は何だろう、眠っている間にまた何か起きてしまうのではないかって」


 浅い眠りには就くのだが、すぐに覚醒する。それを繰り返す内に、眠りと目覚めの波の感覚が狭くなり、結果として目が覚めてしまう。身体は睡眠を欲しているのに、脳がそれを拒否するように活発になる。

 そして、多くの思考が流れ込んできて、上手く処理ができずに不安に苛まれる。


「そんな堂々巡りを繰り返してしまうんです」


「一度眠ってすっきりさせられればまた変わるかもしれないが……」


 睡眠不足により、望の身体は疲れているのだろう。頭がまともに働かない状態で考えても出口のない迷宮を彷徨い続けることになってしまう。出口の見えない迷宮を進み続けることによる精神的負荷もかかることで、余計に疲労が蓄積される。


「必要ならば薬を出そうか?」


 棗の提案に望は苦笑する。


「それも手かもしれませんね」


 望も棗と同じように考えた。もしも、このまま眠れない日が続くと日常生活に支障をきたしてしまう。大学や就活にも影響が出てしまう可能性もある。

 日常を送るにしろ、考え続けるにしろ、睡眠が必要。それができないのならば、薬の力を頼るというのも手である。棗や杏介、茜に言えば相談に乗ってくれるだろうとも思った。いつかの友人のように周を頼ってリラックス効果のある茶を選んでもらうことも手ではある。


「でも、薬を使うのはちょっと控えたいなって」


「何か心配事でもあるのか?」


「……」


 ころん、と空になった瓶がひとつ。記憶を失った青年の最期の光景にあった。青年の影が満たされた瓶の中身を飲み干したとき、何があったか。

 望はゆっくりとまばたく。


「用法容量を守ればちゃんと効果があるとわかっていますが、薬も過ぎれば毒ということを改めて知ったというか」


「まあな」


 医師である棗はそれをよく知っている。だから、患者によっては処方する薬に細心の注意を払う。


「京都で随分な経験をしてきたみたいだな」


 篁の元で何があったのか、昨晩の話し合いで聞いた以上のことを棗は知らない。しかし、望の様子を見るに、話し合いの中で出てきた情報以上に望は何やら感じたことがあったように見える。それは周と杏介も感じているものの、訊き出せずにいるようだった。


「そうですね。今まで、普通の人とは違う経験をしてきたと思います」


 主に人ならざる者に関する事柄は共有できる人間はいない。だから、自分のような人間は本当に稀だと思っていた。人ならざる者たちと交流してきたことで、感覚が麻痺している部分もあると思う。


「でも、先日あったことはまた毛色が違ったんです」


 望と同じ年頃の青年。彼のことは望に衝撃を与えた。


「多くは話せませんが、知識として持っている以上のことを実際に見ると、自分が持っている知識は本当に遠くの存在だったのだと思い知らされました」


 今まで得てきた知識や現在、専門として学び、研究していること。それらを望は知っていると思っていた。

 しかし、それは、実際は知っているつもりだったのかもしれないと感じられるような事柄だった。敬愛の対象を喪った青年が辿った道は残酷で、悲惨だった。

 彼のように精神が不安定になった者の記録を望は知っている。それはあくまで文字情報ばかり。中には、文字にされただけでも目を背けたくなるような事例もあった。

 文字だけでも目を背けたくなる。それ以上に実際に見せつけられた映像はもっと辛く、五感の全てを閉ざしてしまいたくなってしまうような壮絶なものだった。

 また、彼が敬愛した人物についても望は調べた。教科書にも載るような作品を書いた文豪の名前は望もよく知っている。だが、彼が迎えた最期はわからない点も多いらしい。「ぼんやりとした不安」が彼を最期に導いてしまったのか、他に原因があるのか。そこまで深くは望もわからない。しかし、夢の中の文豪らしき男はなすがまま、抵抗することもなく、むしろ、ほっとしたような顔で炎に包まれていた。


「結構衝撃的なことで、頭にこびりついてしまったような感覚ですね」


 望は肩を落とす。


「俺からすれば、たかだか二十歳そこらの娘が物を知らないのも当然だ」


「中々手厳しいことをおっしゃいますね」


「事実だろう。俺は伊達に歳をくってない」


 棗は人間界に出入りしないため、望と同じ年頃の人間の成熟度については詳しくない。それでも、望は達観している方ではあると思う一方で、やはりまだ若い。妖である棗からすると、幼子と大して変わらないような歳の娘が知らないことが多いのは当たり前のことであると思う。


「自分でも滅多にない経験をしてきたと自覚している望でも、未知の領域があり、それがあまりにも衝撃的だった。そんなことはありふれたものだろうさ」


「そう、ですよね」


 世界は広い。そう思っていても、結局は狭い世界しか知らないのだと望は思い知らされた。


「……先生、訊きたいことがあるのですが」


「何だ?」


「答えられる範囲で結構です。不快に思われるかもしれません」


「答えられることならば、答えよう」


 望は膝の上の手をぎゅっと握る。

 京都で見た一人の青年の生前の姿。彼の晩年の様子を見たとき、棗と同じ立場の存在がいた。彼を診た男は淡々としていて、同じ立場の棗はどう思うのだろうかと考えてしまった。


「その……先生はお医者さんとして色々な患者さんの病気、怪我を診てきたと思います」


 満月医院は人間界で言えば内科が主になると望は思う。先生の専門は内科が近いかな、と周も言っていた。しかし、棗は内科の範囲に留まらず、様々な患者を診察しており、実際は総合病院のような働きをしているように思う。全ての患者を棗が診ているわけではなく、他にも医師はいるものの、主として動いているのは棗だ。

 幅広い医学知識を持っている医師は多くの患者を診ることができる。それ故に多忙な彼と一対一でこうしてゆっくりと話せる機会は少ない。京都での件があり、訊いてみたいと思うことができた。それは、望の大学での研究や学びにも関係してくる事柄でもあると感じた。


「先生は重症の患者さんを診て、目を背けたくなるようなことを経験されたことありますか?」


「……」


 棗の長い耳がわずかに動く。沈黙が流れる中、火鉢の炭が小さく爆ぜる。


「ごめんなさい、このようなことを訊いて」


「いいや」


 棗は火箸を置く。炭の赤は血の色と違った赤だ。明滅する橙にも赤にも見える光に温もりを覚える。


「望が言う目を背けたくなるような患者というのはどんな患者だ? 怪我がひどいとか、治る見込みがないとかか?」


「そのような方のことも含みますが……」


 望の脳裏に月光の下で吠える青年の姿が浮かぶ。ギラギラとした鋭い眼光に望は怯んでしまった。


「満月医院は心療内科としての役割も担っているじゃないですか」


 満月医院を訪れる患者は様々である。その中には心の病に苦しめられている者もいる。彼らへの認知療法の一環として、周が夢を卸していると初めて聞いたとき、望は興味深いやり方だと感じた。


「辛い経験をされてきた方も多いと思います。その方の話を聞いたり、実際に診察していたりすると先生自身も苦しいと思うことはあるのかなと」


「ある」


 棗はきっぱりと即答する。


「別に精神的な病だろうが、肉体的な病や怪我だろうが関係なく、見ているだけで辛いと思うことはある。長年、医者をやっていてもここだけはどうにもならん」


 幅広い知識を持ち、医療行為をできる棗にとって、それだけ多くの患者を救えると思う。一方で、多くの重い病や怪我を持つ患者を診る機会も多いために辛いと思うこともある。


「少し冷酷かもしれないが、多少は慣れてきて平気になっているところはある」


 大量の血を見ることも、鬱々とした話でも、診てくると慣れてきてしまうし、またか、と思うことも少なくはない。


「それでも、完治まで長い道のりになると思うと気は重くなる」


 自分はこの患者を救うことができるのか。長期間の治療となると覚悟がいる。それは患者も同じで、患者が治そうと思ってくれるのであれば、棗の気も和らぐ。

 そう思える内はまだいい。しかし、この世は残酷だ。

 棗の目に炭火がぽつぽつと明滅する様が映る。


「救えないとわかったときはもっとしんどい」


 全ての患者を救うことは不可能だ。どれだけ手を尽くしても救えない患者はいるわけで、棗もこの目で息を引き取る瞬間を見届けたことも多い。また、治すことを諦めてしまったり、治ることはないと自棄になられたりして、診察や治療を拒否されてしまい、衰弱し、亡くなってしまう様を見ることもある。


「助からないだろうとわかるほどの症状の患者を診ると目を背けたくなる」


「……」


 長く生死に携わってきた棗でも逃げ出したくなることがある。その事実がありながらも、棗という医師が今もなお医師を続けられることが不思議でもある。

 そう思っている望の傍で火鉢の炭が爆ぜる。静かな空間に一際大きく鳴ったその音と共に棗は目の色を変える。


「それでも、できることをする。患者にまだ息があるのなら、全力を尽くすのみだ」


 目を逸らしている場合ではない。消えかかる命の灯を何としてでも救ってみせると己を奮い立たせて治療や手術を行う。

 きっぱりと言い切った棗に望は顔を上げる。

 円らな瞳を持つ可愛らしい兎の姿。その愛らしさとは裏腹に、清廉潔白な強い光を宿し、覇気のある声に望は目を細める。


「先生はお強いですね」


 棗という医師は本当に強い心を持っていると望は思う。常盤街の住民からも慕われ、頼りにされるほど、彼はしっかりしている。


『ぶっきらぼうだけど、とても世話焼き。誰かの世話ができるのって、心にゆとりがあり、とことんつき合っていくという強い意志を持っているからだと思うんだ』


 かつて、棗に世話された弟子である周が言っていた。手厳しいんだけどね、と力なく笑いながらつけ足していた。


「弱かったら、ここまで続けられない。……いいや、医師になろうとすら思わなかっただろうな」


 棗は目を細める。


「薬師から医者になろうなんて、思うこともなかっただろうから」


「そう言えば、先生は元々薬師だったんですよね」


 望が常盤街に出入りするようになってしばらく経った頃、周と杏介から聞かされた。


「薬師の家系だったから。親も兄弟も親戚も皆薬師で、子どもの頃から手伝っていた」


 幼い頃から薬草のにおいが身体に染みつくほどよく働いていた。


「一族の店で薬師として働いていたんだが……。まあ、厄介な薬を横流しして金儲けしている奴がいてな。それを黙認している一族のことが嫌になって家を出た」


 棗は喉の奥で笑う。


「それはまた……」


 嘲笑とも思える棗の笑みに望は言葉を失う。

 棗は清廉潔白な質だと望は思う。正義感が強く、悪事を働く者は許さないという印象が強い。それは、昔、診察代や薬代を払わなかった周と杏介の話を聞く度に思う。


「家を出てから働いた医院の医師もまともじゃなくてな。俺がこっちの薬がいいって言うのに、まともな薬を処方しない。結果、患者を死なせてしまったこともある」


 やるせなかった。患者の訃報を聞いた棗は医師に詰め寄った。だから、俺はあの薬草を勧めたのに、と怒鳴り散らした。


「そいつ、何て言ったと思う? 俺の腕が悪いだの、薬師が口出しするなだの、まるで自分は悪くないの一点張り。で、カッとなった俺は勢いのまま辞めた」


 医師もそうしてくれと言わんばかりの態度だった。その態度に棗はすぐさまその医院を去った。


「ボロクソに言われて思ったんだ。医師に指示されるんじゃなくて、俺が医者になって自分で処方した方がいいんじゃないかって。まあ、道のりは険しかったが」


 棗は次の働き口を見つけ、仕事をしながら死に物狂いで勉強した。新しい働き口も医者の元だったが、こちらはまともな場所だった。淡々としていた医者だったが、棗が訊くことには答えてくれた。時々、医学書も貸してくれて棗としてはありがたかった。

 淡泊な医者の元で勉強し、修行した甲斐があって棗は医師になることができた。


「先生にお前は独立しろって言われたときは嬉しかったな」


 淡々とした物言いではあったが、表情は優しかったことを棗は覚えている。あまり褒め言葉を言う医師ではなかったが、棗にとって、独立しろという言葉は最高の褒め言葉だった。


「とまあ、そんな経験があったから、何とかここまで来られたわけだ」


 棗はひとつ息をつく。


「いかんな。話が逸れた」


「そんなことは……」


 棗の口から語られる彼の過去。医師の棗の現在に至るまでの道のりに彼の強さが見えたように望は思う。

 苦しんでいる者を救いたい。それが棗という医師を成り立たせている大きな核であり、強さの源になっていると望は感じる。彼の真っ直ぐ立つ耳は苦しんでいる者の声を逃さないようにしているようにも見える。


「色んな患者を見た。薬師のときも、医者のときもひっくるめて。その中にできることなら逃げだしたくなるような状態の患者がいたことも事実」


 そして、これからも起こり得る。最近は比較的平和なため、そういったことはないのだが、いつ何時、目を背けたくなるような状態の患者を診るような事態になってもおかしくはない。


「長年、多くの患者を見てきた俺でも直視することを憚られることがある。……大した慰めにもならないだろうが、そう気に病むな、望」


 暗がりに浮かぶ望の影がゆらりと揺れる。


「話せることに制限がある以上、俺たちは望が覗き見たという夢のことを知らない。ただ、お前や周の様子を見るに、深刻な内容の夢だったのだろう」


 望からの問いかけ。それの本質は彼女の好奇心ではないだろうと勘づいていた。

 自分が抱いた目を背けたいという気持ちは自分だけではないはず。そう思い込みたいのではないかと勝手な推測を立てた上で、棗なりに励ましてやりたいと思った。


「……」


 望から無言の肯定を受け取った棗は望に向き直る。


「衝撃的な内容に気持ちが落ち込むのも無理はない。それも、自分の意志で見たわけでもない。心の準備もできないままに見せつけられれば目を背けたくともできない」


 棗は急患でなければ、患者の症状を問診票や紹介状などによって、事前に把握できる状況であることが多い。そうでなくとも、診察をしながら状況を整理できる。だから、心の準備ができる。急患であっても、現在は慣れてきたおかげで冷静に対処できる。

 しかし、望は違う。自ら夢を覗き見たわけではなく、勝手に夢の中に入り込んでしまった。状況を把握できないままに、複雑な事情を抱える者の夢を見てしまった。

 その夢の内容がどんなものか、棗は知ることはできない。しかし、幸せに包まれたものではないと推測できる。少なくとも、肝が据わっている望が目を背けたくなるような内容であることは確かだ。


「……確かに、自分の意志で見たわけではありません」


 望は絞り出すように声を発する。

 周のように自分の意志で誰かの夢に入ったわけではない。

 ないのだが。

 望は視線を落とす。


「でも、勝手に相手の世界に入ってしまった。ご本人は見られたくなかったと思うと、申し訳ないと思います」


 彼は周たちに話さないでほしいと願った。それは、第三者に知られたくないからという理由だからだ。望も第三者だ。しかし、彼は望が見てしまったことは仕方のないことだと許してくれた。

 それが、さらに望を追い詰める。


「知られたくないことを私は勝手に見てしまった上に、目を背けたくなってしまった。それが本当に申し訳なくて……。ご本人が一番辛かったのに、部外者である私が拒絶してしまうのはよくないと思うんです」


 勝手に夢の中に入り込んでおいて、見たくないと拒否しようとした自分がいる。この事実に望は夢の中に入ってしまったこと以上に罪悪感を抱いた。


「ご本人から謝罪の言葉を預かったと聞いたとき、謝るべきはあちらではなく、私なのにと思っても、もうその方に直接お話することができない。言うべきタイミングはあったのに、動揺していた私はきちんと謝ることができなかった」


 望の声が震えるのに呼応するように炭が爆ぜる。


「あの人を傷つけてしまった私があの夢と向き合わないなんてあってはならない。私が勝手に覗き見て、知られたくないことを知ってしまった私が拒絶するのはあの人に申し訳が立たない」


 水鏡が大きく揺らめき、月が雲の影に隠れようとする。


「私は……私は、あの人の記憶を拒絶しようとしている」


 パン、と炭が大きく爆ぜる。


「他人の心の奥底に土足で入り込んでおいて、そんなこと」


 あってならない、と吐き出そうとする望の視界に影が差す。それと同時に眉間の辺りに温もりを感じる。柔らかいその感覚に望が我に返ると温もりはぐりぐりと押しつけられる。


「お前さんは優しい子だ」


 言い聞かせるような優しい声音に望は視線を上げる。満月を思わせるような円らな瞳が望をじっと見つめている。


「心の機微に敏感な望だからこそ、誰かの心の奥底……それも、暗い部分に触れることに慎重になる。勝手に上がり込んだことを責めてしまうんだろうな」


 眉間の辺りにあった温もりは頭上へ移される。あやすように一定の間隔で撫でる温もりに望は呆然とする。


「勝手に覗き込んでおいて、そこで見たものから目を逸らすのは身勝手だと己を追い詰め、そんな自分が嫌になってしまって」


 棗はゆっくりと言葉を紡ぐ。


「そんなに自分を追い込んでしまえば、眠れなくもなる。誰かに話すにしろ、話せない事情があって余計に辛いだろう」


 抱え込んでしまう。真面目な望だからこそ、無理をしてしまわないかと心配になる。こうして気持ちの整理ができずにため込んで、爆発しそうになる。

 そして、爆発させたとき、相手に感情をぶつけてしまったとまた塞ぎ込んでしまいそう。そう感じた棗は望が言おうとした否定の言葉を遮った。

 その否定の言葉を放ってしまったら、望が自責の念に支配されてしまいそうだったから。昔、棗の弟子がそうだったから。


「正直に、だが、答えられる範囲で教えてほしい」


 本当ならば、全てを聞きたい。そうすれば、望の瞳の曇りも多少は晴れるだろう。しかし、それができない以上、望の裁量に任せる部分が大きく、それが負担になっている。

 それでも、知ることができる情報もある。


「怖い夢だったか?」


 棗はそう訊ねる。夢の内容を知ることはできずとも、その夢を通じて、望がどう思ったのかは知ることができる。望の気持ちがわかれば棗としても何か対策を考えられる。


「……」


 望は視線を落とす。棗の直球な問いかけに言葉が詰まる。

 言っていいのか。言葉にしてしまえば拒絶していることを表明するようになってしまう。


「……」


 長い沈黙の末、望は小さく頷くという選択をする。この行動も逃避行動のようで嫌になってしまう。


「そうか」


 望が出した精一杯の回答に棗は小さく言葉をこぼす。

 望は夢を自力で見られない。周の力を借りてなら夢を見ることができる。周が望を連れ込む夢は悪夢ではないだろう。綺麗で、楽しくて、幻想的な、見ていて幸せと感じる夢が多い。また、個の色が薄いものでもあるため、刺激としては弱い。

 悪夢に対する免疫がない望には負荷となってしまった。そこに、心や感情の動きに敏感な望の感受性の高さが加わり、余計に辛い思いをしていそうだと棗は分析する。


「望」


 棗が名前を呼べば、望は弱々しく顔を上げる。


「夢を見ていた者からすると勝手に見られてあまり気のいいことではないだろうが、そうやって望が思い悩んでくれていることについて、悪い気はしないと思う」


 どんな事情の者の夢を望が見たのか、棗にはわからない。あくまで、棗による憶測でしかない。

 憶測は他者を傷つけかねない。それでも、望という人間の行いを棗は評価したいと思う。


「目を背けたい、拒絶してしまいそうだと思いながらも、相手のことを思いやることができている。それも十分な向き合い方だと俺は思う」


 眠れないほどの苦悩。それもまた望が覗き見た夢の主に対する気遣いであると棗は考える。


「先生……」


 縋るような望の声にまだ若いなと棗は思う。


「夢の内容を思い出して、苦しくなるだろう。辛い思いをするだろう。それは、望が優しくて、真面目だから抱く感情だ。だからと言って、自分を責めすぎるなよ。望の意志は関係なかったのだから」


 今回の件で重要な点は望の意志に関係なく夢の中に入ってしまったことだ。情状酌量の余地はあると棗は思う。


「ですが、知られたくないことを見られたら嫌じゃないですか」


「ああ。だが、向こうはお前さんを信じてくれたから条件つきで夢のことを話してもいいということになったんだろう? その条件がどんな風に提示されたのか、俺は知らないが、望はそれを守っている。守ってくれると信じてくれたから、あちらさんは話すことを許してくれた。少なくとも、あちらさんは望が思っているほど悪く思っていないと思う」


 夢の主が望の事情をどこまで把握しているのかも気になるところではあるが、こうして望が信用に足る人間だと判断されたからこそ、ある程度、望の裁量で夢のことを話すことを許した。そして、望は相手の気持ちをよく理解しているからこそ、本当に必要最低限のことを棗たちに話した。夢の主が知られたくないと言ったことを全て伏せてだ。

 話したくとも話せない。もどかしさもありつつ、配慮をしながら話すことは苦労が多いだろう。それでも、望は夢の主との約束を守り続けている。それで夢の主が機嫌を損ねることはないと棗は思いたい。


「望。お前さんの話を聞いてちょいと思ったことがあるんだ」


 棗は望の頭から手を離す。

 望の不安の大元。それは何だろうと考えながら棗は話をしていたが、ひとつ、思い至ったことがある。


「自分に宿った力が人ならざる者の力で人間じゃないみたいだと言っていたな」


「……はい」


「確かによくわからない力だ。それも、自分で制御できない可能性が高い」


 望の意思に関係なく、誰かの夢に入り込んでしまった。現状、周も棗も冥府も力の正体に予測がついていない。また、誰かの夢に入ってしまう可能性も否定しきれない。

 そこから導き出されるのは、と棗は思い浮かべる。


「その力が怖いというのもあると思うが、制御できない力によって、誰かを傷つけてしまうかもしれないことへの恐怖の方が強いんじゃないか?」


 話を聞く限り、望が案じているのは己の身よりも夢の主のことだ。夢の主への罪悪感に押し潰されてしまいそうな様子に、制御できない未知の力による誰かへの加害を恐れているように感じた。


「……」


 棗の指摘に望の目が見開かれる。


「どうだろうか?」


「………………そうだと思います」


 望は掠れた声で答える。

 何かよくわからない力に対しての恐怖はある。その未知の力のことを望は制御できない。制御できない力が暴発してしまったらと思うと背筋が凍る。


「……そうか。眠ると、また勝手に誰かの夢に入り込んで、隠したい部分を見てしまうのが怖くなるから、眠れないんだ」


 望は納得したように呟く。

 もやもやとした形の見えない不安。それが言語化されて望の胸の内である程度の形として定まる。


「無意識の内に睡眠を拒否してしまっていたのかもな」


 これまた辛そうだと棗は思う。しかし、望の不安がわかったことで、その不安を少しでも軽くしてやればいいと棗の中でひとつの指針ができた。

 それなら手始めに、と棗は提案することにする。


「とにかく、横になるだけでも違うだろうから、休めるときに休みなさい。薬が必要なら処方するし、話も聞く」


「はい」


 ふと、望の視界が眩む。そして、ふわあ、と欠伸が漏れる。


「ご、ごめんなさい」


 安心したのか、緊張の糸が解れたのか、だらしない姿を見せてしまったと慌てる。


「構わんさ。睡眠不足もあるだろうし、話し疲れたんだろう。まだ時間もあることだ。少し横になってきたらどうだ?」


 棗は何でもない様子で休息を促す。


「ええ。そうします。先生、話を聞いてくださり、ありがとうございました」


 望は深々と頭を下げる。


「ああ。おやすみ、望」


「はい。あの、先生は?」


「こいつの片づけをしたら医院に戻る」


 棗は火箸を手に取る。赤々とした火を宿す炭を放っておくわけにはいかない。


「そうですか。では、すみません、ここで失礼します」


「うん」


 会釈した望の足音が遠ざかる。階段を上がる音に耳を傾けながら、棗は火箸を置く。


「……お前も眠れないか?」


 棗が問いかけるとゆらりと影が応接室に入り込む。


「寝ましたよ。眠りは浅いですけど」


 棗は入ってきた影を手招きする。影の主、周は神妙な面持ちで火鉢の傍に腰を下ろす。


「望ちゃん、少しは休めるといいんですけど」


 周は望に充てられた部屋の方へ視線をやる。

 望は今日も大学の講義がある。勉学に影響が出ては彼女の将来にも関わる。少しでも身体を休めてほしいと願う。


「周、訊いてもいいか?」


「はい?」


「昨晩の話し合いのとき、今話すことじゃないと言って口をつぐんだことがあったな。あれは何だ?」


「え? あー、あれは……」


 周は目を伏せる。

 望の将来に関わること。とても大切なこと。言葉にしようとしても、濡れ羽色に覆われる。


「言えないんです」


「お前も言えないこと抱えているのか」


 望と言い、周と言い、言えないことで抱え込み、苦悩している。似た者同士かと棗は思う。


「すみません。でも、その件は篁卿と話を進めているのでご心配なさらず」


「冥府絡みは聞けないことが多くて困るな」


 致し方のないことではあるが、この緊急事態においてはもっと柔軟に対応してほしいと棗は恨めしく思う。


「宰相と上手いこと話ができているならいいんだが」


「と言っても、京都での出来事は冥府も混乱しているようですけど」


 また明日にでも篁から連絡があるといいのだがと周は願う。

 鬼籍帳のこと。変化があったというこのとだが、詳細を聞けていない。悪化していなければいいと思いたい反面、とくに変化がない、もしくは、好転しているのであれば篁は言うだろう。


「眉間に皺寄ってるぞ」


 丸い手が周の眉間をつつく。


「いやー、最近はどうも調子が狂いますね」


 ヘラヘラしてる、チャラチャラしてる、胡散臭い、と望に言われていたことが昔のことのように感じるほど、今の自分は表情が硬くなっていると感じる。


「昔みたいになるなよ」


「あはは……。最近、僕、上手く笑えていないですか?」


 棗はじっと周を見据える。


「愛想がないよりはいいだろうな」


「下手なんですね」


「あの頃に比べればまともだ」


 昔の周はもっと表情が固かった。愛想がなく、張りつめた空気をまとっていた。

 それが頼りなく、危うかった。ピンと張った細い糸が切れてしまえば、自分で立つことができず、下手をすると二度と立ち上がれなくなってしまうと思うほど、昔の周は不安定だった。


「まともだが、また抱え込むなよ」


 荒れていたあの頃とは比べ物にならないほど、今の周は落ち着いている。

 しかし、ここ最近、土台が崩れかけている。棗はそう感じる。


「手が必要ならば頼れ」


「先生には十分頼らせてもらっていますよ」


 出会ったときからずっと。周にとって、棗という妖には返しきれない恩がある。

 炭火がジジと音を立てる。


「頼りきっているついでに、また頼らせてくださいね」


 周の笑みに棗の髭が揺れる。


「待っている」


 棗は周に睨みつけるような鋭い眼光を送る。危うく舞う胡蝶を繋ぎ止めるように。


「よろしくお願いしますね、先生」


 しかし、棗の意図に反して、周は軽やかに身をかわす胡蝶のように笑みを貼りつけるのだった。

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