#1
窓の外にぽっかりと浮かぶ満月のような円形の菓子は網代笠を象ったとされる。
「ごちそうさま。ありがとう、望」
棗は手を合わせる。昨日、京都から帰ってきた望の手土産は棗の医院の名前と縁のある店のものだった。もちっとした食感が棗は好きだ。
「いつもお世話になっていますから」
「気にせずともいいんだが」
棗は茶を啜る。仕事終わりにこの甘みとほろ苦い茶が沁み渡る。
「さて、早速本題に入るか」
棗は湯呑を置くと揃った面々の顔を順に見る。元弟子の細い目の夢屋店主と杏子色が眩しい何でも屋、そして、水鏡のような目を持つ人間の娘だ。
「杏介、お前が進行を取れ」
「え、俺?」
呑気に煎餅をバリバリと食べて気の抜けた返事をする杏介に棗は視線をやる。睨みつけるような棗からの無言の圧に杏介は姿勢を正す。
「この面子だと俺が適任か」
主軸となる周と望が進行を取るわけにもいかない。棗もできるとは思うのだが、彼にやれと言われたのなら従うしかない。
はいよ、と杏介は机の隅にまとめておいた手帳とペンを手に取る。
「早速始めよう」
「お願いします」
望の頼みに杏介はにこりと微笑むと手帳を開く。
「議題は……議長さんに発表してもらおうか」
杏子色の視線の先、難しい顔をしている腐れ縁を促す。
「……望ちゃんのこと」
視線を促された周は吐息混じりに言う。
「一度、話をまとめたいんだ」
昨夜、望が京都から帰ってきた。京都で起きた望の異変について、周は棗と杏介へ話をした。
整理したい。それが周の考えだった。今までに得られた情報のまとめのため、棗と杏介にも協力を頼み、今こうして集まることができた。
「僕ら以外の視点もほしいから、先生と杏にも協力してほしい」
「役に立つかねえ、俺」
「冷静な立場の視点が欲しいんだろう」
棗は店を早めに閉めてきたという周が満月医院を訪れたときの表情を思い出す。焦りを滲ませたその表情に抱えきれない問題や誰かの目があってほしいと訴えていた。
「杏介は賑やかしでもしておけ」
「俺にできることって言ったらそれぐらいか」
杏介はペンで頭を掻く。
二人揃って深刻な表情をしている。とくに、望は寝不足なのか、顔色が少し悪い。周も周で表情が暗い。おふざけ担当の意味も込められて棗が進行役を指名したのだろうと杏介は思う。
「で、まとめるって言っても、何から話をする?」
「まずは時系列を追っていきたいと私は思うのですが」
望の控え気味な物言いに棗はうんうんと頷く。
「いいと思う。事の発端から今までに起きたことを書き出す。そこから、調べてわかったこと、わからないことを挙げていくか」
「それな。正直、俺も把握しきれてないって言うか、わからないって言うか」
棗と杏介は協力者ではあるが、全てを把握できているほどの情報を持っていない。
「周もいいか?」
杏介が尋ねると周は小さく頷く。
「なら、始めるとしようか」
そう言って杏介はペンを持ち直した。
「……とこんな感じか」
ふむ、と杏介はまとめられた時系列を眺める。時系列を追うなら年表のようにしてはどうかという棗の提案により用意した巻物が机に広げられている。その中で大きな出来事となったところは印をつけ、強調している。
「望が怪異に襲われたことをきっかけに夢を見なくなった。そして、周と出会い、篁公との繋がりもできた。望の身体に痣が出現し、夢の世界に干渉できるようになったという事態もあったが、とりあえず貘の協力を得られるようになった。そして」
棗は丸い目に厳しさを滲ませながら、一番新しい出来事のところをつつく。
「望が他者の夢に干渉し、夢玉を生成した」
これが一昨日の晩から昨日の朝に起きたことである。
「この件について、俺たちはほとんど把握していないから話を聞きたいところではある。が、時系列に沿って話をするなら、今までにわかったこと、まだわからないことの整理も先にするか」
「そうっすね」
棗の提案に杏介は乗る。周と望もそれに応じる。
「って言っても、わかったことの方が少ないんだけど」
周は苦笑しながら言う。
「望を襲った怪異の件ぐらいか。冥府まで介入して、随分とでかい騒ぎじゃないか」
棗はしみじみと言う。
棗は周と杏介と違い、篁と面識はない。存在自体は認知している程度だ。よって、冥府のこともよく知らないのだが、知らないなりにも冥府の存在の大きさはわかっている。
生死を全て管理する役目を持つ。そのような存在が訳ありとは言え一人の生者のために動き、今も小野篁という一人の冥官をも巻き込んでいる。
「ですよね……」
望は吐息混じりに棗の発言に同調する。
冥府。人は死んだら閻魔様に裁かれて地獄か天国へ行くのだと幼い頃に言い聞かせられた。天国へ行けるように、悪いことをしてはならないと教わった。
その存在をも巻き込む事態。それが自分の身に起きていると思うと望の肩に重石が乗せられている気持ちになる。
「篁卿がポカしてくれたおかげで、こうして手貸してもらえているんだし、いいんじゃないの?」
呑気に言う杏介の頭に棗の拳骨が飛ぶ。
「ポカとか言うな」
「でもさ、あの人でも失敗することあるんだなーって。なあ、周」
杏介は殴られた頭を撫でながら周に同意を求める。
「確かに。それも、割と初歩的なことだし」
冥府の行いを生者に見られたときは記憶の処理を施す。望は篁や冥府の存在を覚えてはいなかったが、怪異のことは覚えていた。記憶の処理が甘かったのだろう。そして、事後確認もきちんとされていなかったことの証拠にもなってしまっている。篁一人の責任にはならないだろうが、何かしらの罰があってもおかしくはない。
「結果として、手がかりにはなりましたけど」
嫌な記憶ではあるものの、夢を見ない原因として考えられる有力候補になっていた。その辺り、望は運がいいと思っている。
「で、あとはわからないことだらけっと」
杏介はわからないこととして挙げられた事例を目で追う。
「夢を見られなくなった理由、夢玉や周が夢の中に導いても干渉が弱い理由……。まあ、最近は干渉できるようになったと思ったら、痣が出てくるわ、夢の気配はするわ、他者の夢に入り込むわ、夢玉作るわ、とてんこ盛りだけど」
わかっていることよりもわからないことの方が多い。この状態はずっと変わらない。
「ざっくりと順は追えたか」
棗は時系列を再度確認し、頭の中に落とし込む。
「周も望もこれでいいか?」
「はい。とりあえずは」
「……」
杏介の問いに望はすぐ答えるも、周は沈黙する。
「周?」
杏介が呼びかけると、周の眉間の皺が深くなる。
「……いや、ちょっと本題からずれるから後回しにしたい」
「挙げとくだけ挙げとけば? 忘れないようにさ」
「……」
周の目に一瞬影が差す。それを春の日射し色は見逃さなかった。
「ううん。別の機会にしよう。ごめん、話を止めて。流れを把握するにはいい感じの話ができたと思う」
「そうか。それなら、次行くか」
また抱え込んでいそうだと思いながら、周の意志を尊重した杏介は先へ進めることにする。
「次は……京都のこと、聞かせてもらうか」
望が他者の夢に干渉し、夢玉を生成したという話。こちらについて、棗と杏介は詳細を聞いていない。
「そうしよう」
棗は視線を望に送る。
「顔色が悪いな、望。具合悪いか?」
血の気のない顔をしている。いつもなら、凛とした面立ちの望に生気がない。どこか鬱々とした表情は見るからに元気がない。
「すみません、寝不足で」
「あんまり眠れなかったか」
杏介は望の顔を覗き込む。青白い顔からは疲れが見てとれる。
「時系列の整理だけでも結構時間使ったし……。今晩はこの辺にするか?」
杏介は懐から懐中時計を取り出す。まだ日付は超えていないが、夜も遅い時間。京都から帰ってきた疲れは寝不足のために取れず、その状態で大学に行った望を思うと早めに休ませるのが得策ではある。
「皆さんの時間が許すのなら、まだ平気です」
杏介の心配をよそに望は問題なさそうに言う。
「ん? んー……」
どうだろう、と杏介は目で棗と周に問いかける。二人も無理はさせたくないと表情に出ている。
「大丈夫です。話せるところまで話しておきたいです」
望はきっぱりと言う。
棗も杏介も暇ではない。こうして時間を作ってもらっている手前、余計な手間を取らせたくないと望は思う。
「……望がそう言うなら続けよう。ただし、具合が悪いのなら遠慮なく言いなさい」
棗は周と杏介に目配せする。
望をよく見ておくように。丸い目からの無言の命令に周と杏介は互いに目配せする。
「……うん。望ちゃん、無理だけはしないでね」
「わかってる」
「それならば、話を聞かせてもらおう。望、京都で何があった?」
棗に促され、望は京都で起きたことを話す。
篁の元にいた記憶を失った青年の亡者が見ていた夢の中に入り、目が覚めたときには夢玉を握っていたこと。夢の気配が強くなったこと。その夢玉は彼の了承が得られた上で、冥府に預けられたことを話す。
「体調に異常は?」
「とくに何も」
棗の問いかけに望は静かに答える。
「その夢玉ですが、昼過ぎに周の元に届けられました」
「早くね?」
昨日回収された夢玉が今日には周の元に届けられた。もっと時間がかかるものだと思っていた杏介は拍子抜けする。
「簡単に調べるだけ調べて、こちらに届けてくれた。僕の意見を聞きたいらしいよ」
壮年の男性の式神が夢屋を訪れた。突然の訪問に驚いた周だが、彼から聞いた話に合点がいった。
貘である貴殿の話を聞きたい。
そう冥府から言付かったそうだ。そのため、望が作り出した夢玉は早々に周の元へ届けられた。
「その夢玉は今持ってるのか?」
「はい」
周は鞄の中から箱を取り出す。蝶と急須のスタンプが押された箱の蓋を開けると、彼は誰時の空に太陽にも歯車にも見える模様が浮かぶ夢玉が覗く。
「これが望が作ったっていう夢玉か……」
角度を変えながら見る杏介は言葉を零す。対して、棗はじっと夢玉を見つめる。
「どんな夢だった? ……って聞くのは野暮か?」
夢は記憶。それを話すことはしないと周が決めていることを杏介は知っている。周のその考えに望が理解を示していることもわかっている。
「今回は特例。本人の了承を得ているから」
式神が冥府から預かってきたものは夢玉だけではない。望に宛てられた手紙に夢玉の扱いに関する青年からの願いが書かれていた。その中のひとつに、夢の内容を話しても構わないということが含まれていた。
「と言っても、制限つきだけど」
ね、と周は望に確認するように視線をやる。
話してもらって構わないが条件がある。隆幸からの手紙に書かれた内容に望は応じた。
「全てはお話できません。大まかなことならいいという許可をいただきました」
自分の最期をあまり知られたくない。
それが隆幸から示された条件だった。大切な存在を喪い、現実から目を背け続けてしまった自分の姿を見られるのはいい気分ではないからとのことだ。
今回、望が見てしまったことを咎めるつもりはない。むしろ、見るに堪えないものを見せてしまって申し訳ないと綴られていた。望の方こそ、意図していなかったとは言え、勝手に見てしまって申し訳なかった。
「望ちゃんの口から限られた範囲の話のみ、夢の内容を知ることができる」
「つまり、周はこの夢玉を覗き見ていないんだな」
棗が訊ねると周は頷く。
「でも、何となくわかりますけどね」
周は夢玉を慰めるように指先で撫でる。
夢玉から漂う夢の気配。それは物悲しくも激しい感情や記憶の気配がする。この夢を見た亡者は辛く、苦しい経験をしたのだろうと窺える。
「どんな夢だったんだ?」
杏子色の目が望を促す。
「河童と一緒に自分自身と向き合う夢でした」
隆幸がそう話してくれた。彼がそのように言ったのなら、彼の言葉どおりで表すことが自然だろうと思う。望からしても、あの夢は記憶を失った彼が彼自身を見つめる夢だったと言えると思う。
「河童?」
何でまた河童なのか、と杏介は不思議そうに首を傾げる。
「正直、よくわからないのですが……」
篁の同業者。そう自称していたが、篁に心当たりはないらしい。
ただ、と望は河童の言葉を思い出す。
『君はあまりこちらに立ち入ってはいけないよ』
蝶の姿をとっている望や外側の存在を明らかに認識している様子だった。
「夢の世界の住民なのか、それとも、夢に干渉できる存在なのか。判別がつかなかったので河童のことは篁さんが調べてくださるそうです」
ある意味、あの河童も望と同じように隆幸の夢に関与した可能性があるのならば、何か手がかりになることを知っているかもしれない。
そのような推察をした篁は冥府に確認をとると言っていた。
「そうか。ちなみに、周は心当たりある?」
少なくとも杏介は知らない。やはり、夢に関与する人ならざる者というと貘がすぐに思い浮かぶ。
その貘である周は首を横に緩やかに振る。
「聞いたことがない。河童が夢に干渉するなんて、そんなことあるんだって思った」
「だよなー」
「ただ、僕が知らないだけでできる子もいるのかもしれない。彼らも境界線を越えることができるのだから」
「渡し守としての力か」
棗はぽつりと呟く。
人間界と常盤街を繋ぐ役目を担っている河童の顔が浮かぶ。彼らは渡し守として様々な境界線を繋ぎ、超える力を持っている。
「水辺という境界の意味合いもありますけど、彼らは境界を超えることができる。夢と現の境界に干渉できる貘と似ている部分だと思います」
「言われてみればそうか? いや、でも、あいつらは場所と場所を繋ぐけど、貘は現実と夢幻を繋ぐからちょっと違うような……」
杏介は腕を組みながら唸る。
「今日、渡し守の子たちに訊いてみたけど、彼らも知らないって言ってた」
そんなことできる奴がいるのか、とぎょろっとした目をさらに大きく見開いていた。
「僕はこの夢玉を見ることはできないから河童の件は篁卿頼みになる」
周としても気になるところではあるのだが、夢を見た本人が知られたくないと言うのなら仕方がない。
「夢の内容や河童の件も気になるが、それ以前の話をしないか?」
棗はじっと見ていた夢玉から周へと視線を移す。
「なぜ、人間の望が……それも、夢を見ることのできない娘が他者の夢に入り、夢玉を作ることができたのか」
望の身に起きた大きな変化。それは人ならざる者の力としか思えないと棗は思う。
「お前の見解はどうだ?」
円らな瞳が周を見据える。細い目を震わせた周は夢玉を手に取る。手に馴染むその質感から感じる気配もよく知るものだ。
「人間が夢に干渉することはできなくはないです」
呪詛の類などが例として挙げられる。強い思いを持って相手に関わることで、夢へ干渉することはできるにはできる。
「でも、今回の望ちゃんの件はそれとは違う」
「そうだな」
棗が求めた答えとは違う。あくまで前置きだろうと思いながら棗は先を促す。
「望ちゃんがしたことは恐らく、僕らと同じ、貘と同じようなことをしている。夢玉を作ったという事実が明らかだから」
夢への干渉だけでなく、夢玉を作り出した。これは夢を見ている者から夢を取り出した結果によるもの。
本来であれば、人間にはできないことだ。少なくとも、夢玉を作ることができる人間の例を周は聞いたことがない。冥府の様子や篁から話を聞くに、冥府としても予想外の出来事なのだろうと推測できる。
「この夢玉は貘が作ったものと言われてもわからないと思います。ただ」
送られてきた夢玉を見て、手に取った周は違和感を抱いた。それは、貘だからわかることだろうと思っている。
「ただ?」
杏介が先を促す。
「当然と言えば当然だけど、貘の力の気配は感じない。だから、貘がこの夢玉を見れば貘ではない存在が作った物ということがわかる」
「そりゃあ、人間である望が作ったのだから、貘の力がすることもないでしょ」
なあ、と杏介は望に同意を求める。望は納得のいかない様子で頷く。その様子に杏介は眉をひそめる。
「納得いかないか?」
「貘の力を感じないことは納得できます」
望は貘ではなく、人間。杏介の言うとおりだ。
それならば、と別の疑問が生まれる。
「貘の力を感じないのであれば、何の力なのか」
周と望が言わんとしたことを棗が口にする。
「そういうことじゃないか?」
「ええ。望ちゃんの霊力とも違う、別の力。……望ちゃんから感じる夢の気配がする」
「へえ……。なあ、望から感じる夢の気配って何?」
杏介はまとめた紙面をペン先でつつく。望から夢の気配がするようになるという一文をつつくペン先に周は表情をさらに険しくする。
「確か、集められるほどの量もないからわからないって話だったと思うけど、今は強く感じる。なら、集めることもできるんじゃないか?」
最初は微かにする程度だったため、集めたところでわかることもなかった。しかし、今は強くなったというのならば、集めて調べることができるのではないかと杏介は思う。
「できはするんだけど」
そう言って周は手を望の方へ向ける。すると、夢を取り出すときに見る靄が周の手にまとわりつく。見慣れたその光景に棗と杏介は目を輝かせる。
だが、それも一瞬。シルクのようなしなやかさを持った靄に亀裂が走り、硝子が砕けるように散らばってしまう。
「と、このとおり」
「集めても形にならないか」
反発。棗の目にそのように映った。
「だから、夢の気配がするまではわかるけど、どんな夢の気配かと問われるとわからない。わからないけど……」
周はわずかに目を伏せる。
「知ってる気はする」
初めて触れる気配ではない。どこかで触れたことのあるような感覚はあるのだが、いつ、どこで触れたのか周には覚えがない。
「でも、どう言い表せばいいのか……」
知っている。それなのに、表現する術がない。自分はここまで表すことができなかっただろうかと思うほどだ。
言葉を自由に操る彼ならどうしただろうか。脳裏に浮かんだ男の顔に縋ろうとしても、浮かぶのは威圧の言葉ばかり。その言葉をかき消すように周は目をきつく閉じる。
「そうか」
棗は身を乗り出すと周の眉間を小突く。
「あうっ」
薄っすらと目を開けた周の視界に柔らかな毛が飛び込む。変わらず眉間の辺りをぐりぐりと解きほぐされている気がする。
「ここ最近、お前は真面目くさった顔ばかりしている」
ヘラヘラとしたうさん臭さはなく、険しい顔つきばかりだ。
昔に戻ったようだ。棗は周と出会った頃のことを思い出す。あの頃に比べると、触れると切れてしまいそうな鋭さはないが、焦燥感に駆られ、余裕がないところが重なる。
「そういう顔になるのもわからんでもない。が、思考が凝り固まりすぎては手がかりを見落としてしまう」
「……」
「やはり、今日のところはここらで切り上げよう。周も望も物足りないかもしれないが、疲れた頭で考えたって泥沼にはまるだけだ」
棗は周の額から手を離す。
「それに、俺も眠い」
棗はふわあ、と欠伸をする。
「ごめんなさい、先生」
望は申し訳なさそうに視線を下げる。仕事終わりの棗が疲れているのもわかっている。貴重な時間を割いてもらっている手前、早々に片をつけたいと思った。
だが、そう簡単に片付く話ではなかった。望は腕時計を確認する。針は日付を超えていることを示している。
「悪いのはこちらだ。まあ、一度すっきりさせるのも悪いことではないと思うから。杏介もご苦労」
「いや、俺は気楽な立場だったので」
頭は使ったものの、周と望ほどではない。多少の疲労はあれど、杏介は元気そのものだ。
「今日は解散。先に戻らせてもらうな」
おやすみ、と言って棗は退室する。その背中を杏子色は見届けると肩をすくめる。
わざとらしく切り上げた。師匠の不器用な優しさに杏介は苦笑する。
棗という医師は誰よりも夜更かしで、誰よりも早起きだ。先生って寝ているんですか、と昔からかったほどだ。
そんな彼がこの時間に眠いと言うことは滅多になく、また、欠伸の間延びした感じもどことなく芝居がかっていた。
その振る舞いに気がついたであろう腐れ縁は呆然としたまま師の背中を見送っていた。しかし、聡明な望月には雲がかかり、気がついていないようだった。




