#6
秋晴れの爽やかな朝、ゆったりとソファに腰掛けて読書に没頭する青年がいる。ひどく穏やかなその表情は宝物を愛でているようだ。
「おはようございます、羽賀さん」
望が声を掛けると、青年は顔を上げる。
「おはようございます、舟橋さん」
澄江と呼ばれていた青年、羽賀隆幸は望に挨拶を返すと、不思議そうに望を見つめる。
「あれ? どうして名前を……」
羽賀隆幸としての記憶を思い出してから望に会うのは今が初めてである。
「廊下で篁さんと皓さんが話しているのが聞こえて……。記憶、戻ったのですね」
望は羽織ったカーディガンを直しながら隆幸に尋ねる。ポケットにいれたものはそれほど重くはないのだが、妙に肩からずれる。
「ええ。……不思議な夢を見たのです」
「不思議な夢?」
望が訊き返すと隆幸は手元の本を閉じる。
「僕が生きていた頃の姿を河童と一緒に追う夢です」
文字が降り注ぐ世界で己と向き合うための夢。その案内役が河童だった。
夢は記憶。そのようなことを聞いたことがある。隆幸の奥深くに眠る記憶を河童が引き出してくれたかのようだった。
結局、あの河童は何者だったのか。篁の同業者ということぐらいしか情報がない。篁に記憶が戻ったこと、夢のことを話した際に河童のことを訊ねた。しかし、篁曰く、そのような者に心当たりはないらしい。夢の中の河童が篁のことは一方的に知っていると話していたぐらいだ。篁が知らないのは無理もないかもしれないと思った。
あくまで夢。もしかしたら、あの河童は隆幸が生み出した夢の世界の住民だったのかもしれない。それにしてはどこか現実をよく知っている様子だった気もしなくはない。
何にせよ、あの河童のおかげであることに変わりはない。隆幸はそう結論づける。
「……それで記憶が戻ったのですね」
「そうですね」
隆幸は本の表紙を撫でる。篁から借りたこの本は隆幸が崇拝にも近い感情を抱いた作家の名前が刻まれている。
「ご迷惑をお掛けしましたね、舟橋さん」
隆幸は立ち上がると望に深々と頭を下げる。
「私は何も……」
「そんなことはない。押し倒してしまったこと、気分転換にお茶に誘ってくれたこと。何より」
隆幸は顔を上げる。磨き上げられた鏡のような目が思慮深い色を浮かべて隆幸を見つめている。
「僕の心情を言葉にして拾い上げてくれた。ほんの少ししか時を共にしていないのに、たどたどしい僕の言葉から、君は心の奥底の澱みを掬い取ってくれた」
隆幸は朗らかに微笑む。
「ありがとう」
掬われた澱みは光を浴びて形となった。望は定まらない澱みに光を当ててくれた。
救われた。曇りに曇った隆幸の思考を一点の穢れのない鏡が光を反射するように彼女は応じてくれた。
「羽賀さんのお役に立てたのなら、よかったです」
「うん。だから、今度は僕の方からもちょっといいかな?」
隆幸は表情をわずかに曇らせる。
「顔色悪いけど、体調悪い?」
隆幸の問いかけに望の瞳が大きく揺らぐ。
冷静な女性。隆幸からしてみると望はそのように見える。彼女によく懐いている朱莉が隣にいるからそう見えるのか、望は年頃の娘の割に落ち着いているように思う。そんな彼女が隆幸の問いかけに大きく動揺を見せることが意外だった。まるで、静かな水面に雫が一滴、零れて大きな波紋が広がるかのようだ。
「まだ疲れが取れていないだけかもしれません。昨日、朱莉ちゃんとたくさん歩いたので」
朱莉と一緒にスイーツ巡りをした。バスや電車を使えばいいような距離でも、不思議と歩けてしまった。だから、昨晩は隆幸と一緒に夜のお茶会をした後、すぐに眠ってしまった。
「たくさん寝たはずなんですけどね」
望は乾いた笑みを浮かべる。
「そっか」
少女の式神は元気溌剌だ。ころころと表情が変わる幼い式神は隆幸からすると眩しいぐらいだ。
「羽賀」
竹のように真っ直ぐで凛とした声が隆幸を呼ぶ。気配もなく現れた篁が発した声に望の肩が大きく跳ねる。
「……驚かせたか、舟橋さん」
「いえ、大丈夫ですから」
背後に現れた篁を振り返った望は笑みを返す。
「それよりも、羽賀さんの方を」
望は篁を促す。
「そうさせてもらおうか。羽賀、悪いが、予定を繰り上げさせてくれ。今から冥府へ行け」
記憶が戻ったのなら冥府へ。今日の夜、行こう。
つい数時間ほど前にそう言われた隆幸は急な予定の変更に目をまばたかせる。
「何か、問題があったのですか?」
「急用が入った。俺の代わりに皓をつけるから、先に冥府へ向かってくれないか」
篁の背後に皓が現れる。
「わかりました。……あ、その前に」
隆幸は持っていた本をじっと見つめると篁に歩み寄る。
「こちら、お返ししますね」
隆幸は本を篁に差し出す。冥府に行くまでの時間、彼の作品を読みたいと申し出たところ、篁が本を貸してくれた。まだほとんど読めておらず、名残惜しい。しかし、この本は篁の所持品だ。返さなければならない。
「それなら持って行っていい。後で冥府の者に預けてくれ」
予想に反した篁の言葉に隆幸は二、三度まばたく。
「よろしいのですか?」
「ああ。やっと思い出せた好きな作家の作品だ。さすがに全作読むまでの時間は与えられないが、生前のように彼の作品に浸る時間をやる」
篁としても本の回収は急がない。その時が来るまでは持っていてもらっても構わない。
その作家が羽賀隆幸という人間を形作る欠片となっているのなら、なおのこと。彼の大切な宝を篁の急用のために取り上げたいとは思わない。
「ありがとうございます!」
隆幸は声を弾ませ、再び本の表紙を見る。隆幸が生きていたときとは違う本の形態だが、刻まれた彼の名の眩さは今も変わらない。ぼろぼろになるまで読んだ彼の作品とまた向き合う時間をくれる篁に感謝の念しかない。
「羽賀殿、行こうか」
壮年の式神が隆幸を促す。
「ええ。今までありがとうございました、篁様。舟橋さんもありがとう」
隆幸は深々と頭を下げる。
「また向こうでも色々と話はするが、先に冥府の者と話をしていてくれ」
「はい。では」
隆幸は皓へ視線をやった後、望に会釈する。
「あの、羽賀さん」
一歩踏み出した隆幸に望は声を掛ける。隆幸は不思議そうに望を振り返る。
「えっと……」
逡巡する望を隆幸は待つ。
「……すみません、急に声をかけて。時間もないのに、言葉が出てこなくて」
望は咄嗟に声を掛けたものの、言葉にできない。急を要するというのに、という焦りから余計に言葉が出てこなくなってしまう。
隆幸は篁に視線をやる。篁はひとつ頷くのみで、とくに急かしはしない。
「何だろう?」
隆幸は本を大事に抱くと望に向き直る。
「ゆっくりでいいよ」
隆幸はそう促す。
「……」
望は一度深く呼吸をする。
彼とは今生の別れだろう。隆幸が冥府へ行ったら、二度と会うことはない。少なくとも、望がすぐに死を迎えない限りは。
それをわかっているからこそ、適切な別れの言葉が思い浮かばない。本当は伝えたいことがあるのに、それを伝えるのは今ではないと思うと言葉が浮かばない。
それでも何か伝えなければ、と望は意を決する。
「……いってらっしゃい、でいいのかわかりませんが、どうか、標の糸を手放さないでほしいと思って」
望の視線が下がる。見つめる先にあるのは望もよく知る文豪の本だ。大切に両腕で本を抱く隆幸の姿にこれが彼が失ってしまった記憶の断片なのだろうと思う。
取り戻した記憶の欠片がまたバラバラにならないように。糸が絶たれないように。
死を希うことがないよう。
複雑な色を浮かべる水鏡に隆幸は愛しそうに目を細める。身体を引き上げたあの糸の感触を手首は覚えている。
「うん、そうだね。こうして、長い夜が明けたのだから」
失った記憶を取り戻そうともがいていた。光の射さない泥沼の中を必死に探していたような感覚だった。
隆幸は夢の内容を思い出す。
『彼は誰ぞ』
河童が問いかけたそれに隆幸は隆幸なりの答えを出した。あの夢のおかげで彼は誰時を迎えられた。
標の糸。夢の中で隆幸を引き上げてくれた蜘蛛の糸を手放さないように。
隆幸は本を改めて抱き直す。
「ありがとう。君の言葉は僕の心を温かくしてくれる」
あのような夢を見たのは昨晩、望と話したからかもしれない。一向に進展のなかった記憶のことがこの一晩で解決したのも不思議な話だ。
「舟橋さんにも標の糸はある?」
羽賀と同じ年頃の人間。羽賀の命は絶えてしまったが、彼女にはこれからがある。
「あると言えばあるような……」
夢のこと。進展を見せたと思えば、新たな謎が増える。現れた糸を引けば、別の糸が出てきて、絡まってきたような気がしてならない。
望は手を軽く握る。縋るべき糸がどれなのか。どれを選べばいいのかと迷ってしまう。
そして、また、と望の表情が曇るも、それを振り払うように深呼吸をする。
「まだ探しているに近いという言い方の方が適切かもしれません」
「君も若いからね。舟橋さんも、標の糸があるのならしっかりと掴んでおくんだよ。いとも容易く切れるから。糸だけに」
茶目っ気たっぷりに羽賀が言うと望は小さく笑う。
「はい」
「生前の僕は切ってしまったから」
大好きな作家がいない現世にいるための糸。それを羽賀は自らの手で切ってしまった。
これから冥府へ行く。そこから先は長く、苦しい時間になるだろうと隆幸は思っている。自ら糸を断ち切った自分が償うべき罪は重く、地獄に堕ちたあの罪人と同じようになると思うと気が重い。
それでも、と隆幸は微笑を浮かべる。垂らされた糸を手にしたおかげで、羽賀隆幸という姿を受け入れられた。次へ進む道は進みたいと思える道になっていてほしい。
「……もしも、生まれ変わることができたのなら、今度は天寿を全うしたい」
「ええ。羽賀さんのこれからが幸いでありますように。……いってらっしゃい」
望は穏やかな声で隆幸に言葉を贈ると、皓に目配せする。皓は応じるように軽く頭を下げる。
「行こうか、羽賀殿」
「はい。いってきます」
隆幸は吹っ切れたように出立の挨拶をする。望はそれにひとつ頷き、旅立つ青年と案内役の背を見送る。
振り返ることなく庭に下りた二人は池に吸い込まれるようにして冥府へと向かっていった。
名残惜しむように秋風が紅葉を揺らす。
ひとひらの紅葉が枝から放たれる。その姿は蝶が舞う姿に似ている。
「舟橋さん」
望と篁の二人きりになったリビングに竹の葉がざわめくような声が一際響く。その声に望はゆっくりと篁の方を振り返る。
濡れ羽色の目が見透かすように望を見下ろしている。その目の圧に望は視線を逸らしたくなるも、それを許さないと言わんばかりの強い光に瞬くこともできない。
「君でもとぼけることがあるんだな」
逃げることは許さないと強い言霊を感じた望の脳裏に軌跡が浮かぶ。
ひらひらと舞うようなその曲線と標の糸に表情が暗くなる。
「……篁さんに相談した方がいいと思ったことがあるので」
「なんだろう」
篁が促すと望の視線がゆるゆると下がる。逃げられないという諦めの念と不安を湛えるその目に影が差す。
「夢を見ました」
その言葉に篁の柳眉がわずかに動く。
彼女は夢を自力で見られない。その特異な体質に悩む人間から思いもよらぬ言葉が出てきた。
「ただ、その夢は私が見た夢というわけではなく」
望は秋色が広がる庭へ視線をやる。当然のことながら、庭には誰もいない。
羽賀隆幸という青年はいない。それを改めて確認した望は目を閉じる。
『彼は誰ぞ』
そう問うた河童の声がする。墨を頭から被ったような河童の姿が浮かぶ。
『君はあまりこちらに立ち入ってはいけない』
『君のことは私の管轄外だから邪魔をしない程度に好きにしていてくれ』
あの河童も篁と同じように見透かすような目をしていた。
ひらひらと追い払うように手を振った河童はその後、こちらに構うことはなかった。
あの河童の目に映っていたのはただ一人。虚構の世界を愛し、その世界の創造主に傾倒し、創造主がいなくなった世界を厭った青年。
「羽賀さんの夢を見ました」
あの夢は望が見たのではない。望は覗き見たのだ。
記憶を失った青年、羽賀隆幸の夢。彼の夢を覗き見るように望も夢を見た。
そして、それはまるで。
望は服の裾を握る。小さな皺が刻まれると同時に思い浮かぶのは細い目の青年だ。
「それはまるで、周が夢の中へ連れて行ってくれるときと同じような感覚でした」
夢の中で望は蝶の姿をしていた。それは周が夢の中へ入るときの姿でもある。彼に連れられた望も蝶の姿になるときがある。
だが、今回の夢に周は関わっていたか。
彼はいない。京都に来た初日に周と連絡はとった。そこで隆幸のことは一言も話していない。昨日も周と連絡はとっていないため、周が隆幸のことを知るなど、無理なことだ。
「篁さん、周とは何か連絡を取りましたか?」
「取るには取った」
昨晩、篁は周と連絡を取っていた。望の様子、鬼籍帳のことといういつもどおりの進展のない話を軽くしたのみだ。
「しかし、当然のことながら、羽賀のことは話していない」
今回、周は隆幸とは無関係だ。話す必要などない。
「そうですよね」
「舟橋さんもあいつに羽賀のことを話していないのなら、無関係だろうな」
式神が周に話すこともない。そうとなれば、望が隆幸の夢を覗き見たという件について、周は無関係。
つまり、と導き出された答えに篁は表情を険しくする。
「舟橋さん自身が羽賀の夢に干渉したということか」
自分でもわかっていた答えに望は身体が震える。改めて、篁という他人に言葉にされると、そうとしか考えられないという現実を突きつけられる。
「それで君の霊力がいつもと違うわけか」
「え?」
望は顔を上げると濡れ羽色の瞳と視線がかち合う。じっと見つめてくる漆黒色は見定めているようだ。
「強くなっているのに加え、別の力を感じる」
「別の力……と言うと、夢の残滓ですか?」
残り香のようとも周は言っていた。痣が出てからというもの、望から夢の気配がするらしい。
望の問いに篁は首を横に振る。
「俺には夢の気配というものはわからない」
篁が感じる力が夢の残滓と呼ばれるものなのかは周に判断してもらうしかない。もしくは、同じ冥府の官吏である狐顔の陰陽師に見てもらうことで判別できるだろう。
夢の残滓か、どうか。それは篁にはわからないが、望の霊力に紛れて感じる力は篁にも覚えがある。
「が、俺は同じものを知っている。舟橋さんもよく知る存在の力と同じ」
それは夢と近しい存在の気配だ。篁もよく知る気配に飄々とした男の顔が浮かぶ
「それって……」
薄々望の中でも勘づいていることはある。篁が言う霊力とは違う力を望は感じていないものの、今回起きた事象において、導かれることがある。
篁の濡れ羽色の瞳と彼の黒髪が重なる。
「貘の力だ」
篁が言葉にすると同時に望の中でパズルのピースがはまるように腑に落ちる。
「……」
貘である周がいないにも関わらず、望は他人の夢へ入ることができた。
周みたい。夢の中の望はそう思った。無意識に周の姿を探したが、彼の姿はなかった。もしかしたら、近くに周がいて何かしらの影響を受けているのではないかとも思ったが、起きた望の近くには誰もいなかった。昨晩、一緒に寝ていた朱莉もいなかった。
「貘が夢に干渉しているときの力。それを君から感じる」
篁は周や周以外の貘が夢に干渉する場に居合わせたことが何度かある。彼らは夢の内容に応じた霧のようなものを纏い、髪色や瞳の色を変化させる。そのときに感じるとろけるような幻想的な気配が望からする。
「このことは誰かに言ったか?」
「言ってはいないのですが……」
脳裏をよぎるのは細い腕の持ち主。望がよく知る異形とはまた違う姿をしていた存在。
あの河童は何と言っていたか。
「夢の中で私のことを勘づいているような口ぶりの方がいました」
「羽賀が言っていた河童か」
篁の同業者と名乗る河童。篁には河童の知り合いは現世にも、冥府にもいる。しかし、羽賀の言うような河童に心当たりはない。向こうが一方的に知っていると言っていたらしいため、篁は知らないのだろう。何せ、篁の素性は妖怪たちにはよく知られていることだ。こちらは知らなくとも向こうが知っているということはよくある話だ。
ただし、羽賀の夢の中の河童は篁の同業者と言った。冥府の関係者であるだろうと推測はできる。
冥府の関係者であると言っても死者の夢に干渉することなどできるのか。羽賀が言うには、その河童に導かれるようにして記憶が蘇ったとのことだ。
そのようなことがただの河童にできるとは思えない。夢への干渉だけでなく、記憶を失った者の記憶を蘇らせたり、望のことにも気がついている様子だったりと明らかに普通ではない。
「篁さんはその河童さんのこと、ご存じないのですね」
「話を聞く限りでは心当たりはない」
彼は誰ぞ、と問うたという河童。そちらこそ、何者なのだと問いたくなるほど不思議な存在だ。
「夢屋にも話をするか」
そう言って篁はスマホを取り出そうと懐に手を入れる。
「あの、篁さん。実はもうひとつお話したいことが」
「ん?」
篁は手を止める。
「夢への干渉もそうなのですが……」
そう言って望はカーディガンのポケットに手を入れ、ハンカチを取り出す。
「これを見てほしいのですが……」
望はハンカチを開き、中に包んだそれを篁に見せる。
濡れ羽色の瞳がそれを捉えると大きく揺らぐ。
「それは」
篁は息を呑む。
ハンカチの中にあったのはガラス玉のような球体。歯車のような模様から放射状に広がる細い線は朝の優しい光のように見える。
「これ、夢玉ですよね」
篁が言わんとすることを望が言う。
「……その夢玉は誰の夢を閉じ込めた?」
「羽賀さんの夢です」
記憶を失った青年が河童と共に自分自身の記憶を、憧れを辿った夢だ。
「目が覚めたら、こちらを握っていました」
目覚めると同時に抱いた違和感。自分は夢を見ていたのか、それとも何か不思議な術にでもかかっていたのか。色々と考えながらも、掌のわずかな温もりと馴染む曲線に恐る恐る開いた。
そこにあったのは暗闇から解き放たれた爽やかな朝の空色だった。
「篁さん」
水鏡にひとつ、雫が零れ落ちる。大きな雫によって一点の乱れのなかった水鏡が大きく揺れる。
「私はどうなってしまったのでしょうか?」
瞳が揺らぐように、望の声が震える。
冷静沈着。感情の起伏が小さな望から動揺が見るからにわかる。羽賀の前ではいつもどおりだった望の内面がぼろぼろと覗き出す。
「……わからない」
篁が今すぐ出せる答えは望が欲しいと思うものではない。それでも、篁に言えることはそれしかない。
篁の脳裏に胡蝶が舞う。望には鬼籍帳のことを言えない。今の彼女に余計な心配を増やすわけにはいかないと篁は思考する。
「だから、今は知るためにも情報を集めなければ」
篁としては動ける範囲が限られる。やらねばならないことは多いが、動けずにいるこの身がもどかしい。
とにかく、篁が今できることは何か、といくつか思い浮かべながら優先事項や式神たちへの振り分け、冥府への報告を組み立てていく。
「とりあえず、その夢玉を預からせてほしい」
彼は誰時の色を宿す夢玉。望のことを見透かしていた様子の河童の存在も気になるし、夢の中での望の挙動を把握したいところだ。
「……」
「舟橋さん?」
篁の予想に反して、望は夢玉を差し出さない。
「この夢玉をどうするのですか?」
「俺が一度見るなり、冥府に解析を頼むなりする予定だ」
篁がそう答えると朝日がハンカチに覆われる。
「……これは羽賀さんの夢です」
羽賀隆幸という青年が見た夢。彼の生前の軌跡を形にした物だ。
「夢は個人情報の塊のようなもの。勝手に彼の夢を覗き込み、形にした私が言うのもお門違いであるのはわかっています」
望は夢玉を大切に掌に収める。
「羽賀さんの了承もなしにこの夢を見るのはやめてほしいです」
夢は記憶。私的な部分が多く、個人情報が多分に含まれた夢は店先に並べて売らない。客の情報を他者に出すことをしてはならない。
夢の内容を客の了承も得ずに話すのはご法度。
周が決めたこと。だから、作られた夢の内容を望は周から知らされることはない。綺麗な夢だった、悲しい夢だった、といった感想を周から聞くことはあっても、夢の詳細を周の口から聞くことはない。
『夢屋で働く以上、そこはしっかり守ってほしい。お客さんによっては知られたくない方もいる。だから、望ちゃんには深入りしないでほしい』
望が夢屋で働き始める際にこれだけは覚えてほしいと念入りに言われたことだ。チャラチャラとした雰囲気はなく、真剣な眼差しで周に言われた。望としても、商売をするのだから当然のことだと了承した。
実際、望がいると話しづらそうにする客がいたことも事実だ。その場合、望は席を外す。やり取りが終わった後、周が話すこともなければ望も訊き出さない。
望が静かにそう言うと篁の柳眉がぴくりと動く。
「自分の身がどうなっているのか不安なのに、君はそう言うのか? 一刻を争うかもしれないのに」
篁の声音が低くなる。
美人の真顔は怖い。背もあり、自然と見下ろされる形になっているため、余計に怖い。迫力のある篁の険しい表情に周や杏介が怖いと言っていた理由がわかる。
無言の圧力。低いながらも、望を案じていることはわかる声音。しかし、目は口ほどに物を言うではないか。
濡れ羽色の鋭利な目が射貫くように見下ろしているのだ。
篁からの視線に望は怯みそうになる。けれど、ここで屈してはならないと自分に言い聞かせるように濡れ羽色を見据える。
「不安です。でも、羽賀さんの了承を得ずにお渡しすることはできません」
「俺はあいつの過去を知っている。羽賀は自らこんな夢を見たと俺に言った。それでも君は俺に標の糸を渡さないのか?」
望が夢の中でどの程度隆幸のことを知ったのか、篁は知らない。それでも、篁の方が知っていることは多いだろうと思う。
一刻を争う。篁が隆幸のことを何も知らないのならいざ知らず、よく知っている篁が夢玉を受け取り、内容を確認することは今できる数少ない手立てだ。
舟橋望はそこまで馬鹿ではない。心の動きを読み、機微を察知することができる人間。篁は彼女をそう評価している。望ならば、篁に夢玉を渡すべきだとわかっているだろう。
そうでなければ、一点の曇りのない、波ひとつない水鏡の瞳に動揺する様を浮かべたまま委ねればいい。
しかし、満たされた月の鏡は雲をかざしながらも、意を決するように篁を見上げる。
「渡せません」
凛とした目が篁を見上げる。一瞬にして雲が晴れる。冴えわたる月、曇りのない鏡を思わせるその目は神秘的で、人間離れしているようにも思える。
たかが二十歳ほどの娘から感じる強い言霊。一二〇〇年の時を過ごした篁はわずかに瞳を揺らす。
「……そうか」
篁は吐息混じりに応じる。
「ごめんなさい。周と約束したんです。夢を見た者の断りもなく、誰かに夢の内容を明かすことをしてはならない。個人の色が強い夢は絶対にしてはならない、と」
たとえ、隆幸のことを知る冥府側の者であってもそれはできない。周との約束だからだ。
「まあ、それはよくわかる」
篁も現世で商売をしている者だ。個人情報を簡単に出してはならないとわかっている。
現世の仮初の仕事でなくとも、冥府のことはさらに秘密性が高い。望にも話していないこと、話せないことが多い。
誰かの個人情報を守る。この考えが当然のことであることは篁もわかりきっている。
「心の奥底に眠る感情を聞いた者は勝手に他者に明かしてはいけない。私はそれを当たり前のことだと思っています。周との約束を守る理由もこの考えが元になっているからです」
周の元で働くから、彼との約束を守るというわけではない。
望の信念と周の考え方が重なった。だから、結果として周との約束を守ることになった。
「我儘を言ってごめんなさい」
望は深々と頭を下げる。
篁には協力してもらっている手前、夢のことを報告するのは望の義務である。反面、夢は個人の色を強く出すものであるため、羽賀の知らないところで他者に見せるわけにはいかない。
矛盾。望はそれをよくわかっている。とくに、今回は自分の身の異変に大きく関わっている。この夢玉が解決の手立てになるかもしれない以上、篁に渡すことは今の望ができる最善策だろう。篁もそれをわかっていて望に要求していることも理解できる。
しかし、それができない。多忙な篁に迷惑をかけてしまい、申し訳なくなる。
勢いよく篁に言ったものの、罪悪感で望の視線が下がる。
「顔を上げなさい」
篁は促す。しかし、月は隠れたままだ。
「……君は真面目な子だな」
そこが望のいいところである。多忙な篁に気を遣ってか、声をかける機会を窺い、今よろしいですか、と一言置くような人間。
望の言動の端々から申し訳なさを感じる。そこまでしなくてもいいと篁は思うが、舟橋望という誠実な人間はこれ以上の迷惑をかけたくないと思ってしまうのだろう。
篁は苦笑する。
「我儘ではない。君の信念だ。俺はその信念を理解できるよ」
篁は優しく言霊を放つ。竹の葉がそよそよと揺れる音のような心地よさに望の胸の内が少し軽くなる。
「誇りに思いなさい。真っ直ぐ前を向いて歩んで行けばいい」
だから、と篁はさらに続ける。
「顔を上げなさい」
静かながらも、大海原の波のようなどっしりとした言霊に望はゆっくりと顔を上げる。
覗いた月は一瞬揺らいだが、すぐに冴え冴えとした静かな光を放つ。
「ああ、その目がいい」
篁は微笑を浮かべる。欠けた月が満ちたように定まった望の瞳は神秘的だ。
「ありがとうございます」
望は篁に応じるように淡く微笑んだ。




