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夢屋 胡蝶  作者: 真鶴 黎
第八夜 ウツシヨ■トフ
66/88

#5

 はらはらと降る光の糸は文字をなす。所々インクが掠れたような文字に澄江は懐かしさを覚える。


「これは?」


 澄江は降ってくる文字を目で追う。文字を繋げてみても意味のある文章をなしているわけではないようだ。規則性のない文字の雨は澄江の足元に音もなく着地すると、インクが滲むようにすっと溶け込んでいく。

 文字を受け入れた澄江の足元は方眼が広がっている。こちらは文字とは異なり、行儀よく並んでいる。正方形の並びはどこかで見た気がするのだが、何かわからない。

 そんな中、一枚だけ色の異なる正方形がぽつんとある。黄ばんだ色の中で塗り潰されたかのような黒色が目立つ。澄江は黒の正方形へと近寄り、上から覗き込む。

 澄江が覗き込むと、表面がぐにゃりと歪み、眼鏡をかけた一人の青年の顔を映し出す。二十歳ほどの青年は笑みを浮かべながら本を読んでいる。何の本を読んでいるのだろうかと澄江は目を凝らすも、本のタイトルや著者名が霞んでいて読めない。

 正方形の向こう側の青年が頁を送ると霧がかかったように向こう側が見えなくなり、ただのタイルと化す。

 何だったのだろうか。そう思う澄江の視界をひらりと何かが横切る。

 蝶だ。朝方の空色のような羽の蝶だ。蝶が飛ぶ先を見れば、また黒の正方形がある。澄江は蝶に誘われるようにそちらへ行く。

 同じように覗き込めば、また表面が歪む。すると、正方形の向こう側には先ほど見た青年がいた。彼は同じ年頃の青年と一緒に楽しそうに話している。その手元にあるのは雑誌のようだ。


『なあ、新作読んだか?』


 雑誌を見せる青年は友人だろうか。その友人らしき男の顔に澄江はどことなく見覚えがあった。


『もちろん。■■先生、さすがいい話を書く』


 眼鏡の青年はほくほく顔で応じる。今回の話は、と語る二人の青年に懐かしさを覚える。

 二人の姿が消える。そして、蝶が澄江を導く。

 蝶が導く先々にあるのは黒色の正方形で、その正方形の中で映像が流れる。映像の中には必ず眼鏡をかけた一人の男が出てくる。幼い姿から青年の姿まで、時系列はばらばらだが、一貫して彼が出てくるのだ。

 一人の男の記録。澄江はそう思った。彼は幼少期から勉学に秀でていたようで、読書に没頭していた。学校の図書室の本を読破するほど、本の虫だった。数多の分野の本を読み漁っていたが、とくに、文学にかける情熱は強いようだ。多くの文豪の作品を熱心に読んでいた。

 その中で、タイトルや著者名が塗り潰されたものが多々あった。そのような本を読んでいるときほど、青年の表情は生き生きとしていた。

 好きな作家の本だろうか。澄江はそう推測する。そうであるならば、なぜ、思い入れのある作家の名やタイトルが塗り潰されているのだろうかと疑問が生じる。

 また新たな正方形を覗き込む。映し出されたのは強い日射しに照らされた床だった。その床に広がっているのは本だ。その本のタイトルや作家名が全て塗り潰されていた。

 その本の海の中にぱさりと乾いた音を立てて何かが落ちる。



 ■■■■■氏自殺



 大きな見出しが澄江の目に飛び込む。

 それと同時に向こう側の世界の青年が本の海へ沈む。大きな見出しを持つ新聞に青年の目が釘付けになっている。


『どうして……。なぜ……』


 膝をついた青年の目から涙が零れ落ちる。


 ぴちゃん


 そんな音がする。澄江が音のした方を見ると、天から降り注ぐ文字たちが雨のように音を立てて方眼に吸い込まれていく。文字が降る度に方眼に波紋が広がる。

 気がつけば、方眼の上に薄い水の膜ができたのか、澄江の足元はゆらゆらと揺れている。ゆらゆらと足元が揺れる中、蝶がひらひらと旋回する姿は見えるものの、澄江の姿はない。


「何が起きて……」


 澄江は辺りを見渡す。変わらず空から文字が降ってくるばかりである。ぴちゃん、と文字が着水する音が澄江の不安を煽る。

 そんな澄江を導くように蝶はひらひらと飛ぶ。こちらに来いと言わんばかりに澄江の視界を横切る。澄江自身もどうすればいいのかわからないため、蝶に従うことにする。

 澄江が歩くと足元に波紋が広がる。歯車のような波紋を残しながら澄江は蝶を追う。


『どうして』


『なぜ』


『あなたはもういないのか』


 青年の声が木霊する。

 困惑、悲しみ、切なさ、寂しさを含んだその声が澄江が歩く度に徐々に変わっていく。


『やめてくれ』


『聞きたくない』


『そこにいるのか』


 怒りを含み始めたその声に澄江の背筋が凍っていく。何とも言えない不気味な声は読書の時間を楽しんで語っていた人物と同一とは思えない。


『お前のせいだ』


『お前さえいなければ、あの人は』


 じわじわと侵食するようなその声音を一言で言えばなんだろうか。

 狂気。澄江は青年の声に嫌悪感を抱く。

 気がつけば澄江は足を止めていた。


「これ以上は……」


 足が震える。これ以上は進みたくないと拒否しているようだ。

 先を進んでいた蝶が戻ってくる。夜と朝の(あわい)の色と揃いの羽を持つ蝶が眩しい。


「この先に何があるんだ?」


 澄江が尋ねるも蝶は何も答えない。ただひらひらと頼りなく宙を飛んでいるだけだ。


「私をどこへ連れて行くつもりなんだ?」


 返事はない。


「君は何者なんだ?」


 蝶は一際強く羽ばたく。一瞬、羽が黄金色の煌めきを見せる。


「何か答えてくれないか?」


 澄江の心の内にふつふつと湧き上がってくる。

 怒り。導かれるがまま蝶についてきたが、その蝶は何も答えてくれない。ほいほいついていく自分自身も安直だとは思うが、何の説明もなしに澄江が嫌だと思う場所へ連れて行こうする蝶にも腹が立つ。


『お前のせいだ』


 青年の声がする。怒りを含むその声が背後からする。


「私をどうしようとするつもりだ?」


 低くなった澄江の声に蝶の羽が震える。

 澄江の手が蝶に伸びる。しかし、蝶はその手をひらりとかわす。頼りなさそうに見える蝶だが動きは俊敏で澄江の手をひらりひらりとかわす。

 身軽にかわす蝶に澄江は苛立ちを覚え、舌打ちする。ひらひらと簡単にかわす蝶にたぶらかされている気がしてならない。


「くそっ」


 自由に舞うその羽が憎らしい。もいでしまえと囁く声がする。


『お前さえいなければ』


『憎らしい』


 青年の声に澄江の中の負の感情が強くなっていく。歪な染みを作るようにじわじわと迫りくる澱みが心地よくもある。


「お前は一体何者なんだ」


 澄江は蝶に詰め寄る。語気の強い澄江の声に蝶は驚いたのか、その羽を震わせる。

 蝶の動きが遅れる。今なら、と澄江は蝶に手を伸ばす。


「何者なのだろうね」


 凛としたその声に澄江の手は止まる。蝶は澄江の手から逃れるようにひらりと飛ぶ。

 澄江は声の主を見やる。気配もなく澄江の背後にいたのは黒く、細身の異形の者。

 河童。澄江の直観がそう囁く。墨を頭からかぶったような黒い身体の河童はぎょろっとした目で澄江を見上げる。


「君こそ、誰なのだろうね」


 河童が問う。小柄な体格な上に背を丸めているにも似合わず、迫力がある。

 河童の言葉が澄江に重くのしかかる。


「焦りがあるのはわかるけれど、そうやって八つ当たりするようなやり方はよろしくない」


 河童は一歩、二歩、と足を進めると蝶へ手を伸ばす。


「彼の件は我々の管轄だ」


 河童は目を細める。


「君はあまりこちらに立ち入ってはいけないよ」


 河童は蝶に向かってひらひらと手を振る。追い返すような河童の手に蝶は戸惑うように宙を彷徨う。


「と言っても、君も迷子か」


 仕方ないといった様子で河童は肩をすくめる。


「どの世においても、迷える羊(ストレイシープ)が多いものだ」


 河童は尖った爪で頭をカリカリと掻く。そうして一拍ほど思考した河童はため息をつく。


「君のことは私の管轄外だから邪魔をしない程度に好きにしていてくれ。問題は」


 頭を掻いていた河童の手がゆらりと持ち上がる。細枝のような腕の延長線上、尖った爪が澄江を指さす。


「君だ」


 河童の爪は先ほど皿を掻いていたときのようにちょいちょいと動く。


「いつまで現世(こちら)にいるつもりだ?」


「それは……」


 澄江とてわからないのだ。

 自分が誰なのか。生前のことがわからず、あてもなく彷徨っていた。今もなお、生前のことはわからず、自分が誰なのかを思い出すために篁の元にいるのだ。


「いつまで目を背け続けるつもりだ? いつになったら、その声に応じるつもりなのか?」


「そんなことを言われても私は……」


 自分は何者なのか。

 それは篁や式神の手を借りながら向き合っているつもりだ。何か記憶の糸を手繰り寄せられるように、思い出せるきっかけとなるようにと彼らは手を貸してくれる。とくに、白髪の壮年の男性の式神と共に過ごす時間が多い。彼は気に病む澄江の気分転換になるようにと外へ連れ出してくれる。


「私は逃げているつもりはない」


 現代的な面と古の都の面を持つ街、京都。新しい物も古い物も立ち並ぶこの街を歩きながら考えることは多い。

 考えて、考えて、考えて。それでも何も思い出せず、疲れ果てて帰ってくる。

 目の前の河童はそれを知らない。突然現れた河童にそのようなことを言われる筋合いはない。

 だから、はっきりと澄江は断言する。記憶を取り戻すとための思考に逃げたくなることも、嫌になることも多い。だが、澄江は自分なりに向き合っている。


「……」


 きっぱりと断言した澄江を河童は訝し気に見つめる。


「本当に? それならば、後ろの彼は何だい?」


 河童は目を眇めながら澄江の後ろを指さす。澄江はその細い爪の先、自分の背後へ視線をやる。


「……誰もいないじゃないか」


 あるのははらはらと降り注ぐ意味のない文字の羅列のみだ。虚空を指さす河童の方こそ、何が見えているのだと問いたくなる。


「ああ、やはり見えていない。声も聞こえないかい?」


「いいや、君以外の声は何も」


 河童以外に音を発するものは降り注ぐ文字が着水したかのように音を立てるのみだ。いつの間にやら、蝶は消え、この世界には河童と澄江のみとなってしまった。


「……あれ?」


 澄江はふと足元を見下ろす。そこには、変わらず黄ばんだ方眼が広がっている。


「彼は?」


 あの眼鏡を掛けた青年。彼の声が聞こえていたような気がしたのだが、今は聞こえない。河童の言う彼というのはあの本の虫の青年のことかと澄江は思う。


「ほら、また逃げた」


 河童はやれやれと肩をすくめる。


「君が捕まえておかないから」


「私のせいなのか?」


 澄江の問いかけに河童は大げさに頷く。


「そもそも、彼は一体誰だ?」


 眼鏡を掛けた文学好きな青年。ある映像では日が昇ってから帳が下りるまでずっと本の世界に沈んでいた。執着と言っていいほどの熱意があるようにも見えた。


「君がよく知っているはずの人間だよ」


 河童は声を低くして答える。

 自分の知人か。澄江は思い出そうとするも、歯車がかみ合わないような感覚に襲われ、頭が痛む。


「……私の友人?」


 歳の頃は同じぐらい。澄江自身も読書が好きなことを思えば、彼とは話がよく合うかもしれない。となれば、友人の線が濃い。


「彼について知りたいかい?」


「私に関わりのある人物であるなら、気にはなるが……」


 彼のことを知ることで、澄江自身の記憶が戻るのなら知りたいと思う。河童も捕まえておかないから、と言うからにはきっと、彼は澄江に縁のある人物なのだろう。


「なら、ついておいで」


 河童は踵を返す。ペタペタと歩くその姿はどこか幼子のようにも見える。


「うん。……って、待ってくれ」


 河童は視線のみを澄江に送る。


「君は何者なんだ?」


 話の流れで訊ねる機会を失っていた。

 河童。子供のような体格、水掻きのついた手足、嘴のような突き出た口、頭頂部には皿を持ち、亀の甲羅のようなものを背負う異形の者。

 それが澄江の持つ河童のイメージだ。実際、篁の知り合いにいる河童も澄江が思い描く姿の者が多い。

 今、目の前にいる河童も澄江の知る河童と似たような姿を知る。ただ、この河童はどこか現実味がない。輪郭が掠れているように見える。墨絵の掠れ具合に似ているような気がする。


「私かい?」


 河童は細い爪で自分自身を指す。河童の声音は高く、少女のようだ。


「君は私のことを知っているような素振りだし」


 河童は澄江のことをよく知っているようだ。あの眼鏡の青年のことも知っている様子でもある。

 何より、この河童は頼りなく飛ぶ蝶に何と言ったか。

 澄江のことはこちらの管轄。そのようなことを言っていた。


「篁様の知り合いか?」


 冥官小野篁には人ならざる者の知り合いが多いようだ。夜、澄江が物思いに耽っていると、庭に平気で入ってきては思い思いに時を過ごしている。ある者は家に上がり込んではわが物顔で寛ぎ、ある者は困りごとがあるから篁に会わせてくれと取次を頼んだり、またある者は待ち合わせ場所に篁の住まいを使う。その中には河童もおり、庭の池で水遊びをしていた。

 勝手に侵入してくる彼らを篁や式神は放っておくことが多い。さすがに数が多いときは追い払っている。皓曰く、彼らの多くは篁の旧知であり、よく遊びに来る。悪戯好きな者が多いが、悪い者ではないからあまり気にしなくていい。そのようなことを言われた。朗らかに笑う壮年の式神に対し、結界の意味とは、と澄江は疑問を抱かずにはいられなかった。

 とにかく、篁の住まいには人ならざる者がよく訪れる。それは、冥府の関係者も含まれる。河童の言うこちらの管轄という言葉引っかかり、冥府の関係者の顔を思い浮かべる。が、その中に目の前の河童の姿を見たことはない。

 

「いいや」


 河童は淡々と答える。


「え?」


 予想外の返答に澄江は戸惑う。


「冥府の者ではないのか?」


「違うね。ただ、そうだな……」


 首を傾げながら河童は言葉を考えあぐねる。


「言うなれば、同業者と言ったところか」


「同業者?」


「そう。と言っても、私は基本的に死者としか関わらないけど。野宰相のように生者、死者の両方と関わることは滅多にない」


「……?」


 人間の生死に関すること。とくに、河童は死者との関わりがあると言った。それならば、その役目は冥府が負うものではないかと疑問を抱く。


「いいよ。深く理解せずとも問題ない」


「君はよくても、私は気になるのだが……。篁様とは知り合いではなくとも、知ってはいるのだな」


 千二百年の時を経ても名を残している人だ。同業者ともなれば名前ぐらいは知っているのだろうと澄江は思う。


「ああ。死後、死者と関わる仕事に就く人間はままある。だけど、生前からこんな仕事をしている人間がいるなんて滅多に聞かないから。私たちの界隈でも彼は有名さ」


 生前から冥官として勤めている人間。かれこれ千二百年は時が経っているにも関わらず、狂うことなく勤めている。それが河童からすると興味深くある。


「さあ、この話はおしまい。彼を追いかけよう」


 そう言って河童は踵を返す。ペタペタと歩くその背に迷いはない。澄江は遅れて河童の後を追う。

 黄ばんだ方眼の上をあるく度に水面のようにゆらゆらと揺れる。歩く先々でもやはり黒の正方形があり、眼鏡の青年の映像が流れる。


『どうして』


『なぜ』


『もうあの方の作品は……』


 青年の慟哭は止まない。声音、表情共に覇気が消え、淡々としている。そうかと思えば、感情を向き出しにして物や人に当たる。


『一体、どうすれば……』


『どうしてこんなことになってしまったのか』


 青年の家族や知人らしき人々の嘆く声もする。

 青年を取り巻く環境を一言で表すのなら絶望。とくに、青年本人が苦しそうだ。見る見るうちに痩せていく彼の姿が痛々しい。


「彼はどうなってしまうんだ?」


 散乱した本の海の中、ぼんやりとした表情で座り込む青年を見つめながら澄江は河童に問う。


「どうなると思う? 君が彼なら、もしくは、君が彼の周りの人間ならどうする?」


「当人はまともな判断はできないだろうし……。私が周りの人間なら、医者に診せるように促す」


「それもそうだね」


 なら、と河童はまた歩き出す。澄江も河童に続き次の黒の方眼へ進む。


「君と同じように周りの人間もそう思ったらしい」


 河童が指さす先で黒が歪む。映し出されたのは虚ろな目の青年と医者と思われる男、そして、青年の両親だ。


『随分と不安定な状態だ』


 医師がそう告げると母親は目元をハンカチで押さえながら項垂れる。


『ええ、本当に。■■先生が亡くなってからというもの、ずっとこの調子で』


『ああ、あの件で……。私の知人が彼を診ていたそうですが』


 すると、青年の目がぎらつく。医者に飛び掛かるようにして彼の肩を掴む。


『お前か! お前が、あの人を!』


『よさないか、お前は!』


 父親が青年を取り押さえようと手を取る。しかし、青年んは父親の手を振りほどき、医者の肩を爪が食い込まんばかりに掴む。


『どうして、どうして、あの人を救ってくれなかった!』


 青年の鬼気迫る言葉に医者は顔色ひとつ変えず、父親を制するように視線をやると、再び青年に向き直る。


『君にとって、彼は非常に大切な存在だったようだ』


 医者の言葉は柔らかいが、表情は淡々としている。


『ここまで狂ってしまうほどに』


『狂う? 私が?』


『そうとも。今の君は常人ではない』


 医者は肩を掴む青年の手に己の手を添える。


『第二十三号と同じだ』


 医者がそうこぼすと青年の目が大きく見開かれる。そして、青年の手は医者によっていとも容易く肩から離される。


『ご両親、彼は精神病院に入れた方がよいでしょう』


 医者のその言葉と共に映像がふつりと途絶える。


「……」


 澄江は隣の河童に視線をやる。河童はその視線に気がついたのか、澄江を見上げる。


「どうした?」


「……第二十三号と言うのは?」


「私よりも君の方が詳しいと思うけど」


「……」


 澄江は胸の辺りを手で押さえる。

 医者が第二十三号と言ったとき、澄江の心臓が大きく跳ねたような気がした。まるで射貫かれて震えたかのような大きな脈打ち方をした。

 またひとつ、心臓が脈打つ。それと同時にまた侵食するように澄江の頭の中で言葉が響く。


『ぼんやりとした不安』


『あの方も同じように』


『これから逃れるには……』


 おどろおどろしい青年の声に頭が痛くなる。


「苦しそうな顔をしているね」


「あの青年は……」


 何者なのか。なぜ、彼の映像が流れてくるのか。


「私と彼は関係があったのだろうか」


「どうだろうね」


 危機感がないほどのんびりとした河童の声とは裏腹に足元に映し出される青年は苦しそうだ。地の底からもがくように、何かに焦がれ、そして、本や新聞などの文字の海へ溺れていく。


「君は彼と仲良くできると思う?」


 河童が問いかけると青年の映像が消え、天から降り注ぐ文字が吸い込まれるようにして方眼へと零れていく。


「正直なことを言えば、取り乱している彼とは関わりたくないけど……。でも、心に傷を負う前の彼となら友人になりたいと思う」


 幼い頃から文学に親しんできた青年。澄江も文学が好きだ。図書館の利用者が読んでいる本や新聞、雑誌を後ろから覗き見ることが数少ない楽しみであり、小説が好きだと思い出した。

 最近の作家の作品も好きだが、今よりも前の時代、恐らく、澄江が生きていた時代の作家の作品がひどく馴染む。

 青年が読んでいた作品の著者は澄江もよく知る者たちばかり。歳も近そうなことから、彼とは良き友になれると澄江は思う。


「そう。ちなみに、君が一番好きな作家は誰だい?」


「難しいことを訊く……」


 澄江には好きな作品、作家が多くある。その中から一番を決めるのは難しい。

 澄江の脳内に数々の作品たちが思い浮かぶ。小説に限らず、詩歌も含まれる。

 が、それらのどれもが一番かと問われると違和感を抱く。どれも後世に残るほどの名作ばかりのはずなのにだ。


「……私が一番好きな作家?」


「作品でもいいよ」


 自分が一番好きな作家や作品。

 問われると答えられない。否、思い浮かばない。歯車がかみ合わないような感覚が不安を増幅させる。


「君が好きな文学はどんなものだい?」


 河童は天を仰ぎ見ながら澄江に問う。はらはらと降り注ぐ文字の雨を浴びる河童に澄江は呆然とする。

 読書が好き。それは澄江がわかる数少ない自分のことだ。それなのに、答えられてもいいはずの問いかけに答えられない自分がいる。

 意図的に塗り潰されたかのように澄江の中の答えが見えない。それはまるで、方眼の向こう側にいる青年が沈む活字の海の中のようだ。


「私は……」


 掠れた声が澄江の口から漏れる。それに呼応するように空から降り注ぐ文字たちが震える。


「私が好きな文学は一体……」


 震える澄江の足元に影が伸びる。背格好は澄江と同じぐらいであろうその影は掠れた文字のような趣を持っている。


『どうして』


『なぜ、いってしまわれたのですか』


『あなたの作品をもっと読みたかった』


『不安があなたを連れ去ったのですか』


 青年のどろどろとした声が足元の影から発せられる。はらはらと降っている文字たちは歪な形となり、爛れるようにして崩れてしまう。


「私はあの方の作品が好きだった」


『あの方が書く作品が一等好きなのに』


「それなのに、あの人は」


『不安が彼を連れ去った』


 パチパチと火の粉が弾ける音がする。そちらを見れば、炎が立ち上っていた。

 澄江は目を凝らして炎を見つめる。

 赤々と燃える炎の中心にあるのは本だった。本は悶えるようにしながらも炎から逃げようとしているが、抵抗できずにその身を焦がされる。

 その本の中心に人間がいた。背格好からして男性であろうその人間は鎖で縛りつけられて身動きがとれずにいるようだった。

 澄江の頬に熱気が吹きつけられる。離れている澄江の方まで炎の熱が届くにも関わらず、炎の中心の男性はただじっとしている。すでに事切れているのか、と澄江が思った刹那。



 男性と目が合う。



 炎の簾越しに見た男性の顔に澄江の背筋が凍る。


「あなたは……」


 掠れたその声に呼応するように澄江の足元から青年がずるりと這い出る。


『先生! 先生、そこからお逃げください!』


 青年は転びそうになりながらも覚束ない足を引きずるようにして炎の方へと走り出す。


『行かないでください!』


 青年は炎の中の男性に向かって手を伸ばす。

 しかし、青年は大きく転ぶ。その青年の足元には瓶がひとつ転がっていた。青年はその瓶を踏み、転倒してしまった。


『先生!』


 青年は最後の力を振り絞るように身体を起こす。

 炎の中の男性は苦しそうに、だが、どこか嬉しそうに笑う。すると、炎が一際大きく燃え盛る。地獄の業火のような炎に煽られた青年は思わず身を引く。

 はらはらと降り注ぐ文字たちが爛れながらも列を成す。



 ぼんやりとした不安



 ただの文字が列となり、文章となる。


『ああ……ああ……』


 青年は緩やかに首を横に振りながら、這うようにして男性へと近づく。そんな青年を阻むように地獄の炎が燃え広がる。


『先生、私は……私は……』


 青年が言葉を発する度に炎の中の男が悲しそうに表情を歪める。

 炎の中の男性が何か呟く。すると、文章がぼろぼろと崩れ、一本の鎖となる。その鎖は男性を絡めとるように縛りつける。


「……」


 澄江の脳裏で何かが鳴り響く。不規則なその音は掛け違えた機械の音のようだ。ひどく不快な音に頭は痛み、半透明な何かが視界が遮る。


『やめてくれ、その人を連れて行かないで!』


 青年の慟哭が響き渡る。炎の中の男性は鎖のせいか、炎の熱か、それとも別の要因なのか、一層表情を歪めると天を仰ぎ見る。


《僕はもうこの先を書きつづける力を持つてゐない。かう云ふ気もちの中に生きてゐるのは何とも言はれない苦痛である》


 炎が轟々と音をたてている中、男の声がはっきりと聞こえる。

 男の言葉に呼応するように澄江の視界の半透明な物がギシギシと軋みながら回る。


『先生、嫌です!』


 青年は燃え盛る炎の中に飛び込む。彼の身体を炎は容赦なく燃やす。

 そんな青年に見向きもせず、男は天を見上げたまま、崩れ行く文字の雨をその身に浴び、諦めの表情を浮かべる。


《誰か僕の眠つてゐるうちにそつと絞め殺してくれるものはないか?》


 男がそう呟くと、男の身体を締め上げていた鎖が男の首へと伸びた。


「やめてくれ!」


 澄江がそう叫ぶ。すると、澄江の視界にある半透明の物が数を増やし、くるくると回り出す。

 刹那、ふっと炎と男が消える。崩れるようにして降り注いでいた文字たちも糸が垂れるようにはらはらと零れ落ちるようになる。その文字に溺れるように青年が膝をつき、項垂れていた。

 否、ただの文字ではない。文字が列をなし、文章となっている。そのどれもが澄江のよく知る文章ばかりだ。その中で、澄江の眼前にひとつの単語がふわりと浮遊する。



 歯車



 ぽっかりと浮かんだその二文字は澄江の視界で回る半透明の物体を指す言葉だ。


「……そうか、あなたは」


 澄江が炎の中にいた男の名を紡ごうとした瞬間、青年が澄江の方を振り返る。正確に言えば、彼の足を掬った空き瓶を見つけるや否や、憔悴しきった表情のままその瓶を拾う。


『……いってしまわれた。それなら、私も』


 空の瓶の中が満たされると、青年は瓶の蓋に手をかける。


「待って」


 澄江がそう制するも、青年には声が届いていないのか、瓶の蓋が開けられる。

 そして、中身を飲み干すように青年は勢いよく瓶を煽る。あっという間に空になった瓶は粉々に砕け散る。

 

『これで、いいんだ』


 青年はゆらりと顔をもたげる。その表情は虚ろなのに、目だけは爛々と怪しく光っている。

 狂人。方眼の世界で見えた彼の表情だ。青年は笑い狂いながら、ふらふらとした歩みで澄江へ近寄る。


『ほら、ハン透明な歯ぐるまが回ッてゐる。レエンコオトのアイツがぼくを連れていく』


 青年は澄江の目の前で回っている歯車を掴むと、握りつぶしていく。容赦なく歯車を破壊していく青年に澄江の背筋が凍る。


『Kappaまでいるジャないカ』


 ぎょろりとした青年の目が澄江の隣にいる河童を捉える。


『僕を君のクニへ連れて行ってくれよ。第二十三号ノヨウに』


「……私はバッグではない」


 河童がそう言うと青年の顔から笑顔が消える。


『……ナゼ? ボクがニンゲンだから?』


「私はバッグではない。河童でもない。……■■■■■から生み出された存在ではない」


 河童は水掻きのついた足で地を撫でる。すると、方眼が持ち上がり、朝日のような光を放ちながら河童の手に収まる。


「君を連れて行くのはレエンコオトの男でも、河童でもない。君が行くべきは場所は君の元だ」


 河童の手元に収まった方眼は淡い夜明けの空色の塊になる。それを開いた河童は青年と澄江に向けて中身を突き出す。

 河童が見せた物は鏡だ。その鏡に映し出されたのは青年と澄江だった。

 澄江は初めて自分の姿を見た。澄江は自身の姿がわからなかった。篁の仮住まいであっても鏡は澄江の姿を映さなかった。まるで、自分のことがわからない澄江自身が透明になっているかのようにだ。

 澄江は河童が持つ鏡で初めて自分の姿を見た。

 鏡に映された青年と澄江の姿、否、同じ顔の青年が二人いる。一人は狂気じみた表情の青年、もう一人は不安を湛えた表情の青年だ。顔や背丈は同じだが、表情が違うと別人に見える。


「これは……。そうか、僕は」


 鏡に映った二人の青年は一人の青年。それに気がついた澄江の近くの歯車が回転速度を上げる。くるくると回る歯車の音に澄江の頭が痛む。狂気を孕んだ表情の青年も顔をしかめて膝から崩れ落ちる。


あなたは誰ですか?(彼は誰ぞ)


 河童がそう問う。その問いにさらに澄江の頭が痛む。

 濁流が押し寄せるように頭が痛む。それと同時に映像が流れ込む。その映像はついさきほどまで青年を見てきたものと同じだ。ただし、視点が異なる。先ほどまでは三人称視点だったものが、今度は一人称視点となり、塗り潰されていた作者名や題名がはっきりと見える。

 歯車が回る。澄江の記憶の糸を手繰り寄せるように。


『アア、僕は』


 膝をついている青年はインクが滲むように方眼の海へ沈む。その姿を澄江は頭を抱えながら見送ることしかできない。

 最後の映像が足元に広がる。虚構を記した紙の海の中、空になった瓶を握る手が映し出されている。


『……あつい』


 ぽつりと映像の中から聞こえる。ぼやけていく視界の中、空になった瓶が手から転がり落ちる。歯車が回るようにくるくると回った瓶は徐々に速度を落としていき、最後にピタリと止まる。

 そして、映像が終わると、方眼(原稿用紙)の上に文字が浮かび上がる。ふわふわとしたその文字は触るだけでも消えてしまいそうなほど淡く、薄い。


「君にとって、文学はどういったもの?」


 河童の言葉と共に文字がはっきりしていく。


「現世を訪い、現世で問い続けた君の答えを教えて」


 河童の瞳に黄金色の光がちらりと宿る。


「映し予に問へ」


 河童の鏡が輝きを放つ。鏡に映し出されたのは一人の青年。彼は記憶を失くした青年をじっと見据えている。鏡の中の目に光のない彼は無垢な人形のようだ。


「……」


 仮の名を与えられた青年の目の前をひらりと何かが舞う。

 蝶だ。夜明け前のひっそりとした光の空の羽を持つ蝶がひらひらと飛ぶ。優雅ながらも力強い蝶の舞と共に歯車の回転が緩やかになる。


「……僕の名前は羽賀隆幸(はがたかゆき)


 真実の名を名乗った彼の足元の文字の輪郭がはっきりしてくる。


「僕にとっての文学……ただの娯楽ではなかった」


 最初は娯楽だったはずだ。文字が読めるようになり、文学の世界に足を踏み入れた。様々な世界、様々な登場人物によって紡がれる物語は自分にとって新鮮だった。数多の作品を読んで、楽しい、面白いと感じ、自分ならどうするかと考えさせられることもあった。


「多くの作品に触れる中で、あの先生の作品に没頭していった」


 彼の作品が世に出されると、必ず目を通した。彼の作品を読み耽り、友と語り合った。


「憧れであり、敬愛の対象」


 文学好きの青年は愛しそうにそう言う。しかし、鏡の中の青年は苦悶の表情を浮かべる。


「でも、いつしかそれは過激なほどに僕を惹きつけるものとなった」


 彼の晩年の作品が青年にとって一等印象に残るものとなった。


「厭世的な作品に魅了された」


 現世のことを厭うような作品。ある作品には河童が登場し、ある作品にはレインコートを着た謎の人物が登場する。それらの作品の印象は青年にとって強かった。

 だからだろうか。あの夏の日、新聞の大きな見出しに目が釘付けになり、絶望の淵に落とされた。


「こうして振り返ると、僕は崇拝していたんだ」


 神様。好きな作品を生み出した文豪を神のように崇めていた。

 だから、彼の死に慟哭した。彼の新たな文学に触れる機会が二度と失われた。


「僕にとっての文学はひどく偏ったもの。……だから、僕は狂ってしまった」


 鏡の中の青年が瓶の中身を飲み干す。先ほど見た映像だ。しばらくすると、彼の表情は虚ろになり、意味をなさない言葉をぶつぶつと呟く。

 そして、ぱたりと倒れ、瓶が転がっていく。三人称視点で見る鏡の中の青年、自分の最期である。

 瓶がぴたりと止まると映像が消え、自分が映し出される。切なげに眉を下げて語る自分が映し出される。情けない表情には影が見える。


「失われると正気を保てないほど、僕にとっては大切な存在。かなしいに愛の字と哀の字のどちらも当てられる……虚構の世界に耽る僕も、真の世界に狂う僕も作り上げた」


 ぽちゃりと水面に雫が落ちる。澄んだその音に揺られる足元の文字が名を連ねる。

 羽賀隆幸という名前が広がると、どこからともなく蓮の花が流れ込む。


「それが僕にとっての文学」


「……君はそういう人だったね」


 一際穏やかな声で河童が呼応する。

 原稿用紙の世界に光が射し込む。朝日を思わせる神々しい光に隆幸は目を細める。


「ここから先は野宰相の管轄。私は退散するとしよう」


 河童が鏡を閉じると、どこか遠くから汽笛の音がする。


「迎えが来た」


「迎え?」


「そう。ほら、君にも」


 河童が指さした先は天だ。降り注ぐ優しい文字の雨の中、一筋の銀色の糸がゆったりと垂れ下がってきている。


「これは、蜘蛛の糸だろうか?」


「そうかもしれないね」


 河童は肩を竦めながら隆幸の疑問に答える。


「切れやしないだろうか?」


「今の君なら大丈夫。あの罪人のように無慈悲な心を持っていなければ、その糸が切れることはない」


 隆幸は河童に促されて糸を手に取る。簡単に切れてしまいそうなほど、細く、頼りない糸だ。

 蝶が隆幸の手の周りをくるりと飛ぶ。すると、その糸が隆幸の手首に巻きつく。


「目覚めの時間だ」


 河童の声に応じるように、糸が隆幸の身体を引き上げる。ゆっくりと隆幸の身体が浮き上がると、そのまま天へと昇るように原稿用紙の地面が遠くなっていく。


「ありがとう。君のおかげで思い出すことができた」


 隆幸は遠ざかる河童に向かって声を張り上げる。河童は応じるように隆幸に手を振る。

 汽笛が鳴る。朝日が射し込むように世界が白み始める。

 遠ざかる原稿用紙の世界に立つ河童の姿が金髪に菫青石のような目の少女のように見えた気がした。

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