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夢屋 胡蝶  作者: 真鶴 黎
第八夜 ウツシヨ■トフ
65/88

#4

 今晩も何かに焦がれるように澄江は空をじっと見上げている。窓越しに月の辺りを見上げているその背中から哀愁が漂っている。


「澄江さん」


 望が声をかけると、一拍置いた後、虚ろな目が望を捉える。望を認識するのに時間がかかり返事が二拍ほど遅れるも、彼の目に弱々しい光が灯る。


「どうかされましたか?」


 澄江は今朝と同じようにぎこちない様子で言葉を紡ぐ。平静をまとっているつもりでもその声の震えに嫌気が差す。


「少しお茶でもしませんか?」


 澄江の震え声が少しでも和らぐようにと望は小さな箱を澄江に見せる。真っ白な箱には可愛らしいシールが貼られている。


「私と?」


「澄江さんがよければ」


 望の誘いに澄江は戸惑ったように視線を彷徨わせる。


「……式神様とではなく?」


 望によく懐いている少女の式神。あの小さな式神でもなければ、他の式神でもない。なぜ、自分なんかと、と声音に疑問を乗せる。


「今日は朱莉ちゃんと一緒にスイーツ巡りしたんです。清佳さんや皓さん、玄さんに篁さんにはすでにお渡し済みで、あとは澄江さんだけです」


 ここのお店のケーキ好き、と朱莉が教えてくれた。中でも、彼女のお気に入りはフルーツタルト。イートインスペースのある店だったため、彼女がオススメしてくれたタルトを一緒に食べた。そして、篁たちへの土産としても買ってきた。


「そんな、わざわざ……」


「もしかして、甘い物は苦手でしたか?」


 あまり乗り気には見えない澄江に望は眉を下げる。


「そのようなことは……」


「なら、ぜひ。……考え事もあるかもしれませんが、気分転換にどうでしょうか?」


 澄江は一人になるといつも何か思い悩んでいる。その姿は望が来る前からずっと変わらないと朱莉が言っていた。


『ずっと考えてるの。皓や玄と外に出てもずーっと考えているみたいで、帰ってくると疲れた顔してる』


 キラキラと宝石のように輝くフルーツタルトを食べながら、小さな式神がそう言っていた。


『多分、自分のことを考えていると思う。記憶がないから、自分は誰なんだろうって。でも、思い出せなくて、辛くて、苦しくて……。何だか、空回りしてるようにも見える。かみ合わない歯車みたい』


 見た目相応の幼い言動が目立つ彼女が珍しく沈んだ面持ちで大人びたことを言ったのだ。篁の式神の中でも一番若いとは言え、朱莉は望よりも長く生きている。無邪気な姿ばかり見ているところにふと見せた彼女の顔に冥府側の存在であると望は思い知らされた。


「私と一緒でなくとも構いません。とにかく、一度休憩されては?」


 ずっと考え込んでは疲れてしまう。疲れ切った頭で考えても解決にたどり着くのは容易ではないと望は思う。

 だから、休息を。一度、考え事から離れ、ゆっくりと頭や身体、心を休ませることも近道のひとつだ。


「……」


 澄江の眼鏡の奥の目が揺れる。不安の色を湛える彼の目はゆっくりとまばたくと意を決したように真っ直ぐと望を見据える。


「ご一緒させてください」


 澄江の微笑とも苦笑とも見える笑顔に望は小さく頷いた。




 最後の一口をゆっくりと咀嚼すると澄江の口元が綻ぶ。


「ごちそうさま。これがモンブランというお菓子なのですね」


 見たことはあった。澄江がふらふらと現世を彷徨っている間に何度も見たことのある甘味だ。くるくると渦を巻くように絞られた栗のクリームの菓子は見た目が特徴的だと思った。しかし、実際に食べることはできず、眺めるだけとなっていた。


「初めていただきました。美味しかった」


 篁の霊力が満ちた結界内だからできること。食事という行為は記憶を失った澄江にとって、安らぎとなることがしばしばある。外出して疲れて帰ってきたときに出される食事や飲み物にほっとすることもある。

 まさに今も、心の内が少し温かくなったように思う。


「よかった」


 望はほっと一息つく。初めて食べるという彼は恐る恐るといった様子で口に含んだ。一口口にすると、彼の瞳がぱあっと輝き、嬉しそうに次の一口を切り分けていた。口に合ったようで何よりと望もモンブランを食べた。栗の甘みとクリームの滑らかさがほどよく、フォークが止まらなかった。


「新しい食べ物ですかね」


 モンブランの余韻に浸りながら、澄江は紅茶をすする。


「日本に入ってきたのは明治以降だと思いますが……」


 モンブランというスイーツが日本に入ってきたのはいつか、望は知らない。何となく、文明開化後のような気がするだけだ。


「私が生きていたときにはあったのでしょうか?」


「もしかしたら、あったかもしれませんね」


「食べていたかもしれませんね」


 食べていたとしたら、この味を忘れているなんてもったいない。澄江はそう思うと同時に、悲しくなる。


「……」


 ティーカップを包む澄江の手が震える。その震えを望の水鏡のような目は見逃さなかった。

 

「……あ、すみません。考え事を」


 澄江は靄を振り払うように穏やかに笑う。せっかく望が誘ってくれた夜のお茶会の雰囲気に自分のじめじめとした悩みは似つかわしくない。

 気を遣ってくれている。昨夜のことがあり、望が澄江を恐れてもおかしくはないのに、彼女は自然体で接してくれる。それがありがたくもあり、申し訳なくもある。澄江はそう思いながらも、嫌なことを流し込むように紅茶を飲む。一口よりもいささか多い紅の液体はほろ苦い。


「いいえ。少しは気分転換になりましたか?」


「おかげ様で。ありがとうございます、舟橋さん」


 澄江は礼を述べた後、カップの縁を指先で撫でる。紅葉のような色の水面には部屋の灯が映るのみ。ゆらゆらと揺れる水面は不安定だ。


「気を遣わせてしまいましたね」


「そんなことは……」


 あまり落ち込まないでほしい。望の胸の内に確かにある思いだ。悩み、重い耽る姿が痛々しく、昨晩のことでよそよそしいのも気にしないでほしい。だから、リフレッシュしてほしいという望の勝手な願いだ。


「篁様や式神様もとてもよくしてくださる。あなたも出会って間もない私を気にかけてくださる。それがありがたいと思うと同時に、悔しくなる」


 澄江はカップをテーブルに置く。

 紅茶の鏡に映らない自分。まるで、自分のことだけでなく、自分の姿形すらわからないことを暗示しているようだ。


「私は誰なのでしょうね」


 澄江はぽつりと言の葉を散らす。

 その問いかけに対して返ってくるのは沈黙。その沈黙に澄江の思考は引きずり込まれる。

 いつから彷徨っていたのか。自分が死んだということを受け入れたのはいつだったのかすら覚えていない。縁のある人や物、場所もわからず、ただただふらふらとあてもなく彷徨っていた。その頃のことも正直あまり覚えがない。

 そうして月日が過ぎ、ある館にたどり着いた。そこにはたくさんの本が並んでいた。死者である澄江は本に触れることはできなかったが、閲覧している者の背後から顔を覗かせて読書をしていた。そこで自分は読書が好きだったことを思い出し、利用者の後ろから本を覗き込むという日々を続けていた。

 本の館を転々とし、利用者の背後から本を読んでいたそんなある日、冥府の使者と名乗る者に出会った。篁ではないその役人にあれこれと尋ねられるも、自分が何者なのかわからず、錯乱してしまった。結果、要観察と判断され、冥官の元で過ごすこととなった。

 記憶を取り戻せ。己が誰なのか、思い出せ。

 そう言われたものの、澄江は何もわからなかった。覚えていることも、思い出したことも全くと言っていいほどない空っぽな存在なのだと思い知らされた。実は、思い出せるほどの出来事がないほど、生前の自分は虚しい人生を送っていたのではないかと思わされるほどにだ。


「澄江という名をいただきましたが、それは果たして正しいのだろうかと最近思うのです。澄江と呼ばれるほど、本当の私という人間が遠ざかっていく気がする」


 本当の名前を教えてくれと澄江は何度も言った。しかし、篁を含めた冥官たちは何度も教えたという。澄江にはその記憶すらない。

 自分の名前を認識できていない。篁にそう言われた。そんなことがあるのかと澄江は信じられずにいたところ、名前を呼んでも反応がないのは困るから仮の名を与えようと言われ、澄江という名前を授かった。

 澄江という名前。仮初の名前であるはずのそれが徐々に馴染んできている。自分の本当の名は澄江なのではないのかと思うほど、しっくりきている。それと同時に、今の自分は澄江という人間になっていて、本来の自分とは異なる人間なのではないかと思うまでになっている。それがまた、澄江の記憶を混乱させる。


「ぼんやりとした不安に苛まれていく。自分は誰なのかと考えるほど、私は」


 何者なのか。誰だかわからない本当の自分は澄江という仮の存在に削り取られていくよう。

 澄江は言葉を飲みこむ。これから先の言葉を言ってしまったら、と押し黙る。胸の内にあることを音にしてしまったら取り消すことはできないから。


「……澄江さんはご自身の不安定さに焦りを感じているのですね」


 澄江の沈黙に対し、望は静かに切り出す。

 澄江の言葉や表情から読み取った望なりの解釈だ。澄江の口からも不安という言葉が出てきているぐらいだ。彼の中で彼自身のことがわからず、ふわふわとしていて定まっていないことが彼を追い詰めているようだ。


「焦りだけでなく、恐怖もあるのでしょう。自分が誰なのかわからないのに、考えれば考えるほど、澄江さんという仮の名前が馴染めば馴染むほど、本当の自分が遠ざかり、わからなくなる。それが恐ろしいから早く思い出さないとって焦ってしまう」


 望は澄江の現状をわかっていない。

 なぜ、彼が記憶を失い、現世を彷徨っていたのか。んぜ、彼が彼のことを思い出さねばならないのか。そもそも、冥府は彼のことがわかっているのなら生前の彼のことを教えてあげれば解決へと導かれるのではないか。

 様々な疑問が望の中にはある。だが、望が篁に言ったところで望には関係のないこと、冥府で定められたやり方だと突っぱねられてしまうだろう。

 だから望は静観してきた。それでも、目の前で苦しむ彼の姿を見ていると手助けしたくなる。


「……あなたは私の心を覗き見ているようですね」


 澄江は苦笑する。つい望に自分の胸の内を吐き出してしまった。全て話していないにもかかわらず、彼女は澄江の胸の奥のわだかまりを言い当てた。わかりやすくはあるだろうと澄江も自覚しているが、こうも的確に言われるとは思ってもみなかった。


「あなたの言葉を復唱しているだけですよ」


 望が知り得る澄江のことは少ない。澄江の言動から推測するだけにすぎない。言うなれば、望は澄江の言葉を言い換えただけだと思っている。

 自信がなさそうに言う望に対し、澄江は緩やかに首を横に振る。


「それでも、言語化してくれました」


 拙くて、ちぐはぐしている。ふわふわとしているようで、ぐらぐらとした不安定な澄江の心情。自分の言葉で相手にきちんと伝わるように表現することの難しさは冥官に保護されてから嫌というほど経験した。

 頼りない言の葉を散らしてばかり。それを望は拾い上げ、繋ぎ合わせて言葉にしてくれた。何となく言いたいこと、まとめたいことを望という第三者が音にしてまとめてくれたことを有難く思う。ぐらつく自分の存在、心の澱みが少しだけはっきりしたように感じる。


「ああ、その才が羨ましいです」


 望のように心情を言葉にすることができれば、澄江の中にあるぼんやりとした不安の正体がわかるかもしれない。そうすれば、自分は誰なのかという問いへの答えに近づくことができそうだ。


「私が気づけないところを映しとってくださる。鏡のようだ」


 霊体である澄江は鏡に映ることはない。紅の鏡も、闇を背にする硝子戸の鏡も映すのは温かな部屋の灯と望ぐらいだ。そこに澄江の姿はない。


「誘ってくださり、ありがとうございました。すっきりできました」


 朗らかに澄江は笑う。しかし、望の目は澄江の心の内の重い感情を見逃さない。

 気分転換にはなっただろう。澄江の声色や表情は柔らかくなった。あくまで、目に見える、耳に聞こえる範囲のことにおいては澄江の気が晴れたように思う。

 では、根本的なことはどうなのか。望は疑問を抱く。

 望にできること。望の能力的にも、篁の目があることを思うと限られる。何も知らない望だからこそできることもあれば、できないこともある。


「お役に立てたのなら、何よりです」


 少しでも彼の心が晴れたのなら。望はそう思いながらも、複雑な心持でティーカップを持ち上げる。



 背中の辺りが少し疼いたような気がした。悪寒は夜の冷気のせいだと思い込むように望は紅茶を一口飲んだ。


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